人間になりたい

それがどんなに高尚なものであれ卑近なものであれ人間の欲望や願いの根底には「人間扱いされたい」という想いがある。 そして欲望や願望が叶わない苦しさには自分が「人間あつかいされてない」という苦しみと疎外感とがある。 もちろん「人間とは何か」ということはその時代や地域によってそして家庭環境によっても違いがある。 だけどどんな人にも人それぞれに何となく「人間とは~だ」という想いがあってそこから 自身が外れることは非常に苦しいし惨めで不条理だと感じるだろう。
  
 おとぎ話や神話で魔女の魔法や呪いによって主人公である人間が動物に変えられてしまうという話がよくある。 これはその人物の意識水準の低下を表現し、人間が人間と人間らしい関わりをもつことができなくなるという状況を表わしている。 だから主人公は周りの助けを借りながら苦難を乗り越えてこの魔法や呪いをといて再び人間に変わろうとする。 主人公がパートナーの呪いを解くというパターンもあるが、 この話に通底するものは「人間になりたい」若しくは「人間でありたい」という強い想いである。 人間が動物であることは苦しみそのものなのだ。だから人間は「人間になりたい」「人間で在りたい」 と強く願うしそのためならどんな艱難辛苦も厭わない。
   
 願望や夢を持つことは良い事だ。でももし人間が人間であることに充足しているならもう願望をもつことはないだろう。 「人間が人間である」ということ自体がもうすばらしくきもちよくたのしくしあわせな状態だからだ。 だから「わたし」にはいろんな願望があるけれども「人間になりたい」「人間でありたい」と願うことが本願であり、 エゴイズムやナルシシズム由来では無いまともな願いなのだろう。 どんな願いも「人間になりたい」という本願を外れるならばその願いを叶えることはナルシシズムを充足するだけの虚しい惨めな結果しかもたらさないし、 そのような欲望は他者を傷つけ犠牲にする結果になる。 「人間でありたい」という本願がなければ「わたし」はただただ欲望を叶え消費し続けるだけの非人間的な巨大な怪物になり果てる。 その怪物は怪物の信者に囲まれたまま自分が怪物であることに苦しみ続けるだろう。怪物は自分が何に苦しんでいるのかわからないまま添加物まみれの自己肯定感に絞殺されゆく。
  
 「人間になる」ということは道徳的なことではないし、人権の問題にのみ回収される話ではない。 「人間らしさ」とは端的にまさにこの「人間の身体」に宿っている。人間の身体こそが「人間が人間であること」を体現しているし、実現する。 つまり身体が身体である時、人間は人間なのだ。だから「わたし」の願いを叶えるのではなく身体の願いを叶えることこそが「人間になる」という本願を果たす道。その本願を果たす途上で、「わたし」のちいさな願いも叶うことになる。 だからどのような事を願ってもいいが、「人間になりたい」「人間でありたい」ということから外れてはいけないし 逆に言えば「人間になりた」「人間でありたい」とだけ願っていればよいということでもある。
  
 戦争反対という訴えも「人間になりたい」「人間でありたい」という本願が根底にある。 それが例え遠い国で起きていることであれ、無慈悲に不条理に人間の身体が破壊されることは「人間になりたい」という人間の本願の否定である。 だからそのことばに実行性や即効性がなくとも「戦争反対」と言い願う必要がある。それは「人間になりたい」という願いと同義だから。 「人間になりたい」という願いは「わたし」の願いであると同時に身体の願いであり、人間そのものの願いでもある。 そして非人間性とは人間である自分自身の自己否定に他ならない。 だから非人間的な行為はやめなければならないし非人間的な状況は改めなければならない。
  
戦争や差別や奴隷的な待遇はそう簡単には無くならない。それでも先人たちが時に生命を賭してでもそのような非人間性と闘い 少しずつでも改善してきたのは人間が人間になろうとする本能のようなものである。人類は何千何万年とかけて人間になろうとしている。 それは今もなおその途上でもある。 人間の身体は人間の身体らしさを発揮する時、いちばん元気で輝く。 だからどの時代のどの身体であろうとも、身体は「人間が人間でありますように」と願い祈っている。