【論と幽霊】

   
   
 最近平山が住んでいる東九条地域に関わる研究者が書いた論文をネットで拾ってきて読んでいる。 研究者の書いたものなのでしっかり調査して書かれているのでそれなりに読んでいておもしろいし新たに知るようなこともあるのだけれども、 なんか読んでいて違和感がある。研究者は研究者自身の興味関心や問題意識に基づいてその地域について研究するわけでそれは勿論当然なんだけど、 それは地域住人の当事者がもつ問題意識や興味関心とはズレている。研究者が調査した現象から本質や構造を抽出できたと思ってもそれは実は自分が投影した幽霊だったということも多々ある訳で、 論文を読んだ当事者はそんな幽霊を見させられた気分にもなる。もちろんそんな幽霊を見ることにもまた発見はある。
地域を生きる当事者はそんな難しいことを考えて生きてるわけではない。金がほしいとか、 借金苦しいとか、あいつ〇したいとか、〇ね、とかそんな劣情の成就が最大の興味関心ごとであって、 多文化共生とか多様性とかなんとかなんて雲の上の話ですらある。
 もちろんみながみな劣情を劣情のまま生きればただの暴力が支配する最悪な社会になるので、理想や知性やきれいごとも大切だ。 だけど現実にある劣情からあまりにかけ離れた知性や理想はやはり幽霊にすぎないのではないだろうか。
 研究論文が地域住人の劣情をそのまま扱うことなんてしないだろう。それは論にとってはノイズなのだから。 でもそのノイズこそが当事者の声だし当事者そのものだしその土地そのものでもある。とはいえ他者の劣情に直接触れるなんてことは暴力にさらされることと同じ痛みをともなう行為である。 一介の研究者にそんなことはできるわけがないだろう。
 でも実は、研究者の書いた論文を論としてではなく、最初から「幽霊」として読むとき、研究者がノイズとして排除した劣情の声をそこに聴く事ができる。 その論文が当事者の実感とかけ離れていればいるほどそこに大きな幽霊が見える。
 この東九条という地域には外からやってくる研究者やアーティストがままいるのだけれども、彼らの活動によってそんな幽霊が多々生じる。 ここ最近平山はそんな幽霊に対して「おまえら幽霊だぞ」と訴え続けてきたのだが、幽霊と闘うのもなんだかアホらしいところもある。 幽霊の何が問題って、幽霊は当事者の人生や時間やこころ身体を収奪することにある。幽霊は実体が無いから他人の身体を乗っ取ろうとする。 だから平山は口うるさく幽霊に幽霊だぞと言い続けてるんだけど、でも幽霊は所詮幽霊やしなあ…
 もちろん幽霊学者や幽霊アーティストばかりではない。きちんと実体…こころ身体がある学者やアーティストもいる。 ほんの一握りだけど。そういう人に共通しているのはちゃんとこころ身体があるということだと思う。 結局は論文といえどそこには身体がある。身体無き論文は幽霊でしかない。
 論なのだから劣情を論じることなどできないだろう。論じることができないからこそ劣情なのだから。 だけど、身体は、劣情を、ノイズを、叫ぶ。叫びは論ではない。だけど、そこから論が生まれてくる源泉が叫びなんじゃないのか。 叫びは極めて純度の高い論なんじゃないのか。研究者だって人間なんだから叫ぶことくらいできるだろう。叫べよ。おまえに身体があるならば。
   
 幽霊は、叫ばない。おれは、叫ぶ。