身体も、こころも、世界も、「わたし」も、部分化されたそれは必ずいずれ「全体化」するようになっている。どれだけ切り離されてもそれは必ず「全体化」する。
その「全体化」」する時に、「混沌」の道をとるのか、「秩序」の道をとるのかで結果は変わる。
世界が「混沌」の道をとって「全体化」するのならばそれは「味噌も糞もいっしょ」の自他の境界もどろどろに溶けて、奪い合いの殺し合いの果てのぐちゃぐちゃの「全体化」を果たす。
戦争とはその最たるものである。
「全体化」する時に「秩序」の道をとれば、自他の区別が明るいまま、共感、共振、共鳴しあうような世界が完成する。
それが世界規模で達成されるような状況は無いが、個人の身体や小さな共同体においては秩序だった全体化は顕れることもある。
「全体」は善も悪も、美も醜も、真も偽も、幸も不幸も、楽も苦も、…も…も、全てを含んでいる、なんせ「全体」なのだから。
「わたし」が気が付いていないだけで、身体は常に「全体」で在ろうとしている。「わたし」は常に「部分」であろうとする。アイデンティティとは「部分」だからだ。
「わたし」が「全体化」すると「わたし」のアイデンティティは失われる。だから「わたし」は「部分」であろうとする。だから「わたし」は「身体」といつも対立する。
身体は常に「全体」で在ろうとするからだ。この乖離が広がり修復不可能な時、病気や不運に見舞われる。
これは世界も同じ。世界は常に「全体」で在ろうとするが、「わたし」は常に「部分」で在ろうとする。この乖離や分裂が広がる時、それは戦争や恐慌に見舞われる。
「部分」であることが悪いのではない。ただ、「わたし」が頑なに「部分」であろうとすること、「全体化」を拒絶することが病や戦争の原因となる。
「わたし」が「全体化」を拒絶する時、その「全体化」は「混沌」の道をとる。身体は「わたし」を病ませてでも「全体化」しようとする。
世界は戦争を起こしてでも「全体化」しようとする。戦争は全体の影であり暗黒面である。
ちなみに言っておけば、「全体化を拒絶するわたし」こそが「全体主義」に嵌る。カルトに嵌る。
全体主義に陥らないためには、「わたし」が身体の、こころの、世界の全体化を受け入れるしかない。「全体化したわたし」は全体主義やファシズムに嵌らない。
なんにせよ、身体が「全体化」しようとする時は「わたし」も身体に素直に従って全体化すればいい。身体から戦争を無くすというのはそういうことである。
全体は、全てを含んでいる。わたしも他者も死者も。全てを。
身体とはひとつの全てである。
この身体だけが、戦争を終わらせることができる。
20260430記す