【こころの借金と運命。共依存と生命。】

   
   
少し前にみた夢で、自分に伴侶がいてこどもが二人いて、会社務めをしていて一軒家をローンで買って…といういわゆるふつうの生活をしている人生を体験した。 あれはあれで幸せで、穏やかで何の不満もないし悪くない人生だと思う。
 平山は表現活動をしているといっても自分がやりたいことをやっているわけではない。 本来両親が取り組まなければならなかった問題や課題が子供である自分に持ち越されその問題に取り組んでいるだけで、 それが自分の場合はたまたま絵や身体表現になったという事に過ぎない。 だから平山の場合はやりたいことをやっているわではなくただひたすら親やそのまた親から持ち越されたこころの借金のようなものを返していっているだけである。 とはいえそれが無ければ表現はおそらくやっていない。表現活動をやっていなければ少し前に夢に見たふつうの生活をしていたのだろう。それはそれで幸せな人生だと思う。
 「わたし」といえど、両親やそのまた両親そのまた両親そのまたに由来する連続性があるわけで、 さらに壮大に遡ればサル…哺乳類…両生類…魚類…、細胞、…生命そのものに行き付くのだから、 両親のこころの借金とやらもさかのぼれば生命そのものの借金なのだしその借金も含めて「わたし」自身なのだろう。 なので借金といえどそれは平山個人からみれば借金かもしれなけれども生命の流れから見ればそれは借金ではなく運命とでも呼ぶべきものであって、 結局こころの借金返済を通して表現されているのは生命の運命そのものである。生命も運命も命と書くのだから命なんでしょう。 だからこれは借金というよりは「借命」とでもいうべきものか。
 親の「こころの借金」を返す人生というのは近視眼的にみれば共依存的な人生ということになるだろう。 だけど視野を拡大すれば生命による運命、借命の奔流となる。だからこの「わたし」の人生が「依存」になるか「生命の奔流」になるかは紙一重にすぎない。 運命というどうしようもなく逃れられない人間関係は他人からみれば「共依存」だなんだと言われるのだろうが、 そんなことは余計なお世話で本人はただ「生命の奔流」に身をゆだねているだけだともいえる。 運命というものが「共依存」とやらの原因ならその運命を切り捨て消し去れば共依存はなくなるのだろうか。 無くなるだろう、ただし、運命から切り離された人生は寄る辺の無い「根無し草」として街を徘徊するだけの人生になる。それは自由ではない。虚無だ。
 生命の連続性を家族に限定するときそれは「共依存的」になる。生命の連続性をサルトカゲサカナサイボウ…と生命そのものまで遡るならばそれは「生命の奔流」となる。 つまり問題は「わたし」である。「わたし」を人格や狭いアイデンティティに限定せずに、わたしはこころ、身体、生命そのものであることを自覚することができるならば 運命は共依存という関係性に限定されず生命の顕現となる。
 だから人間関係をどれだけ改善しようがいじくりまわそうが、共依存は無くならない。 そもそも人間は社会を形成して生きてるのだからどれだけ人権意識が浸透し個人が尊重されようとようと共依存は無くなりようがない。 逆だ。尊重されるべきは「わたし」という個人ではなくこころ身体そのものだ。こころ身体が尊重されてはじめて「わたし」という個人も尊重されるし「あなた」という個人も尊重される。 まずはこころ身体ありきだ。「わたし」が「わたし」ではなくこころ身体であるならば心の借金はすぐに全額返済どころか こころの定期預金満期満額利息全開満開満漢全席となって宇宙に降り注ぐだろう