【連載】『東九条、死者無き多文化共生の行方 ≪46≫』

「宙」のまつり東九条マダン その⑥

民衆とは何なのか/人間と国民

   
   
    ただ、このときに、人間概念とは別に、もうひとつ同一性を与える概念が必然的に生まれる。 それは、ひとつの国家の成員の間に同一性を与える「国民」概念である。 したがって、他者像が構成されるなかで、ふたつの異なる同一性概念が生み出されることになる。 このふたつの概念のうち、人間が普遍性を志向した無限定なものであるのに対して、国民はあらかじめ特定の人口だけが対象とされている。 したがって、このふたつが一致することは、定義上ありえない。これは、人間と国民というふたつの同一性概念に基づく近代国家が、根本的に矛盾を抱えていることを意味する。
 他者像は、この人間概念と国民概念の間で絶えず揺れ続ける。一方に普遍的な人間存在を認めようとしない、正志斎に代表されるような環境としての他者像がある。 また、もう一方に、はっきりと人間概念に基づいた利明に代表される肯定的な他者像がある。 この意味で、他者像は一枚岩ではない。複数の他者像が、同時に形成され、共存していくのである。
   
━━━荻野昌弘 「資本主義と他者」p143 より引用
   
在日韓国朝鮮人は「人間」である。「人間」ではあるが、「国民」ではない。
   
日本に住む日本人は「人間」でありかつ「国民」である。
   
もちろん、在日韓国人は大韓民国の「国民」ではあるのだが、平山のような朝鮮語の会話も読み書きもできない、朝鮮の歴史も文化も知らない、 韓国の生活もしたことがない者が、大韓民国の「国民」であるという意識を持つのはほぼ不可能である。そして当然、平山は日本国の「国民」ではない。
   
在日韓国朝鮮人も日本人も同じ「人間」ではあるが、在日韓国朝鮮人は「国民」ではない。
   
「人間ではあるが国民ではない」というこの一つ蓋が外れた「差異性」こそが在日韓国朝鮮人の異質性や異様性を強めている。その「異質性」は容易に差別の対象となる。
   
日本国民は「人間であること」という同一性と「国民」であることの同一性、この「ふたつの同一性」の間(≒矛盾)で「差異性≒個性」のグラデーションを発揮する。
   
もちろん在日の中にも、その家庭の教育によって、日本に住みながらも大韓民国の「国民」である、あるいは朝鮮民主主義人民共和国の「国民」であるという意識を保っている者もいるだろう。 それはそれでかなり異質な「ふたつの同一性」の間で「差異性」が形成されることになる。 これが父親は大韓民国で、母親は朝鮮籍なら、「三つの同一性」をもつことになりその「差異性」はさらに複雑怪奇になる。父親が日本人で母親が大韓民国籍でもそうだろう。
   
平山のような「人間」ではあるが「国民」ではない者の「差異性」はタガが外れたものになる。何故なら、「近代人」としての要件を満たしていないからである。 「近代人」とは「人間」でありかつ「国民」である者をいう。だから在日という存在は「近代人」ではない得体のしれない存在なのだ。 在日韓国朝鮮人とは近代が生み出した極めて政治的な存在であり、かつ、近代の宿痾が生み出した「非近代的」な得体のしれない存在である。 その得体の知れなさは「差異」ということばで表現できるものではない、理解不可能交歓不可能な「絶対他者」の性質を帯びる。 だから平山のような在日が「日本人が許容できる差異性」を獲得しようとするならば「国民」に代わる別の普遍性や「同一性」を探さなければならなくなる。 それが煩わしい者は帰化をして日本「国民」になって「同一性」を獲得するという方法をとることになる。
   
韓国における「民主化運動」および「民衆運動」、その主体は確実に大韓民国の「国民」であった。 「国民」ではあったが「人間」ではなかった、であるがゆえにその「人間性」の回復や再生を求めて独裁政権と命がけの戦いをした。
   
東九条マダンの「民衆文化運動」における「在日も日本人も同じ民衆」というこの理屈。
   
だがそもそもの前提が、
   
在日は…「人間ではあるが国民ではない」
   
日本人は…「人間でありかつ国民」である。
   
だからこの両者を同じ「民衆」として括るのは実はお互いの前提条件からして無理がある。
   
さらに言うならば、東九条マダンに参加する在日を「人間ではあるが国民ではない」と書いたが、これは階級上昇した「二階」の世界の者だからこそこの定義になる。
   
かつて、東九条地域を生きた在日は長年社会や行政からも見捨てられ、差別貧困暴力の劣悪な状況に留め置かれ続ける「人間でもなければ国民でもない」、そんな存在だった。 だが、であるがゆえに「人間そのものを生きた人たち」だった。さらに整理すると
   
①かつての東九条「一階」の在日…「人間でもなければ国民でもない」
   
②東九条マダンに参加する在日…「人間ではあるが国民ではない」
   
③東九条マダンに参加する日本人…日本人は…「人間でありかつ国民」である。
   
と三つの様相がある。
   
何故、東九条地域の「一階」の者たちが東九条マダンに参加しないかがよく理解できると思う。「差異と同一性」の前提条件が異なるのだ。
   
だが平山は、「人間でもなければ国民でもない」そんな人たちこそを「民衆」というのだと思う。 もちろんその当人たちは自分たちが「民衆」だという自覚は無い。 だからこそ韓国では「民衆」は「発見」され「発明」されたのだし、韓完相氏による「対自的民衆」「即自的民衆」という議論も生じたのだ。
   
東九条という地域は今でも被差別の地域である。「東九条に住んでいる」と言うと今でもギョッとした顔をする人はいる。今でも、だ。 もちろんそれは偏見であり差別なのだが、だけど、昔の東九条を実際に知る人ならそういう反応するのも、おれはわかる。 現実に、そこには暴力と狂気と死があったからだ。そしてそれが嫌で嫌で東九条を出て今でも出自を隠して生きている人達がいる。もう思い出したくも無い過去だという人もいる。 それほどに呪われた地域だった。
   
暴力と狂気を美化したり正当化したりするつもりは無い。ただ現実としてそれがあったということをおれは書いている。 だけど「国民でもなければ人間でもない」そんな剥き出しの現実そのものを生きるということは、暴力と狂気を直接に生きるということである。 その状況はあまりに酷く非人間的で、人権などおよばない世界である。
   
だが、「暴力と狂気を直接に生きる」ということは、虚構では無い人間そのものを直接生きるということである。であるがゆえに平山は民衆を
   
「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」
   
だと言う。
   
「民衆」とは何かを議論する前に、「人間とは何か?」という議論が必要となる。
   
世界人権宣言から引用する
   
以下引用━━━━
   
世界人権宣言
   
第一条 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
   
第二条 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、 財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
   
━━━━引用以上
   
とあるが、もちろんこれは「そういうことにしている」という「設定」や「虚構」である。絶対的な根拠は無いが「そういうこと」にしなければ社会が成立しないからであり、弱肉強食の極めて凄惨な世界になるからである。 ただ根拠はないといっても、人権や平等にはもちろん歴史的経緯や文脈があり、 その歴史の積み重ねを無視して「こんなものに根拠はない」というのは歴史≒死者を無視した幼稚な暴論であるということは前提として議論を進める。
   
もちろん平山は「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と全世界が「設定」しその「虚構」を信じることに何の異議もない。 その「虚構」が無ければ在日韓国人である平山の人生は悲惨なものになっているだろう。
   
だが、現実はそうではない。現実には「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等」でもなければ「人間は、理性と良心とを授けられて」はいない。 このように生まれながらにして人間であることが保証されているのは「二階、三階」の世界の人間である。
   
人権や自由や平等は、社会に絶対に必要な「虚構」だ。そして「人間とは何か?」という問いに対して、(社会的)人間とはこの「虚構で構成された人間」である、と言える。
   
その平等や人権という「虚構」は暴力や狂気といった剥き出しの現実から「わたし」を遠ざけ守るための「虚構」だ。 だから、この「虚構」に守られている限り、人間が剥き出しの現実を生きることはできない。もちろんそれでいい。それでいいのだ。暴力や狂気や死なんてものはできるなら体験しない方がいい。
   
だけど、暴力や狂気や死もまた、人間そのものなのだ。それは「虚構で構成された人間」ではなく、「剥き出しの現実としての人間」である。
   
東九条に限らずだが、社会的底辺層の人間は「(虚構としての)人間であることから排除されている人々」である。
   
だが、だからといって、不幸なだけではない。悲惨なだけではない。 確かにその人生はあまりにも惨めで無念無念無念無念三千年無念だが、「剥き出しの現実」を生きるということは、生命そのものを生きるということであり、身体そのものを生きるということであり、 人間そのものを生きることができるのだから。だからその人生は決して不幸や不運であるだけではない。
   
人権、平等、自由という虚構の人間であることから排除されているがゆえに、人間そのものを生きざるをえない人々。
   
がいるのだ。平山にとって、かつて東九条にいたその人たちはとてつもなく恐ろしく、醜く美しく、憎しみの対象でありながら畏怖すべきものたちであり、底なしに悲しく、 天までつきぬけて楽しいひとたちだった。いわば都市の影に生きる大地の精霊、自然の化身のような人たちだった。
   
それを美化するつもりもない、正当化するするつもりもない、だけど、人権、平等、自由という虚構としての人間から排除されていたが故に、その人たちは自然の化身のように生きることができたのだ。    
もちろんそれはとてつもなくつらい人生だ。だからその人たちの人生はトラブルの連続だったし、たくさんの人を傷つけ、時に人を殺し、自身も傷つき、まさに暴力と狂気と死を直接生きて死んでいった。
   
あんな人間そのものである人間たちに、今後、出会うことはもうないだろう。
   
韓国における民主化運動において、独裁政権から弾圧される国民とは「国民ではあるが人間ではない」という状況におかれていた。 まさにそれが例え虚構であったとしても社会に必要な自由、人権、平等が独裁政権によって剥奪されていた状況であった。その境遇は当然エリート層も同じであった。 だからこそ、エリート層は「民衆」に「変身」しようとしたのではないだろうか。
   
独裁政権下で弾圧されるエリート層…「国民ではあるが人間ではない、だけど人間そのものを生きることができない人々」
   
社会的底辺層の「民衆」…「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」
   
エリート層は「国民ではあるが人間ではない、だけど人間そのものを生きることができない人々」である。 だからこそ「民衆」の「であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々」の「人間そのものの力」が必要だったのではないのだろうか。
   
社会的底辺層は狂気と暴力と死を日々生きている。独裁政権がやっていることはまさに狂気であり暴力によって死をもたらしている。 その独裁政権に対抗するためにはこちらもまた「狂気と暴力と死」が必要なわけで、その「狂気と暴力と死」を「剥き出しの現実」を生きる「民衆」に求めたのではなかろうか。 だから当時の韓国のエリート層は「民衆」へと「変身」したのだ。その狂気と暴力と死の「力」を得るために。
   
1970年11月13日に起きた全泰壱の「労働基準法火刑式」はまさに 「人間であることから排除されている人、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人」がその暴力と狂気と死を抗議として社会にぶつけたわけである。
   
全泰壱の「虚構」ではない「人間そのもの」が社会を動かし、その後の民主化運動におけるひとつの「民衆」の「像」となった。
   
虚構ではない人間そのもの、剥き出しの現実、狂気暴力死、そのものを生きる「民衆」。そんな「民衆像」が駆動する「力」が当時の民主化運動を闘うエリート層には必要だったのだ。
   
であるがゆえの「民衆民主化運動」であり「民衆文化運動」だったのだ。
   
全泰壱のすばらしさは、その暴力と狂気と死を「世界」のために「使った」ということである。ほとんどの民衆は暴力と狂気と死に憑りつかれ人を傷つけ殺すか、自らが溺れ死んでいくかである。 だが全泰壱には愛があった。全泰壱はとことん世界を愛した。だから「労働基準法火刑式」は多くの人のこころを動かした。 そしてそれは当時の韓国の民主化運動に身を投じるエリート層の「民衆像」となった。
   
当時の韓国の「民衆民主化運動」や「民衆文化運動」には、エリート層が「民衆」に「変身」する必然があったことがわかるだろう。 自由、平等、人権という「虚構の人間」が破壊されていかたらこそ、それを回復するために、 「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々」の力、虚構ではない現実の「人間そのもの」が必要だったのだ。 そしてその「人間そのもの」を生きる人々を「民衆」と呼んだのではないのか。
   
そしてそうして勝ち取った自由、平等、人権は決して「虚構」ではない、と平山は思う。 だからこそ2024年12月3日午後12時27分尹錫悦によって宣布された非常戒厳を市民、政治家が一体となって解除することができたのではないのか。
   
かたや東九条マダンや民衆文化碑ハンマダンはちがう。「在日も日本人も同じ民衆。だからみんなでひとつのまつりをする」という構造を作るためのただの概念操作にすぎない。 そして東九条マダンには個々の思想信条政治性は持ち込まないという高度な政治的制度設計が構築されている。韓国とはまるで逆である。
   
くりかえすが、東九条マダンや民衆文化碑ハンマダンに参加した人たちは
   
②東九条マダンに参加する在日…「人間ではあるが国民ではない」
   
③東九条マダンに参加する日本人…日本人は…「人間でありかつ国民」である。
   
であり、両者とも「人間であること」は保証されているのだ。そんな人達が「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々」に「変身」する必要はない。 むしろそんな「民衆」は邪魔ですらあるだろう。何故なら「在日も日本人も同じ」その場には「狂気、暴力、死」などあってはならない「悪」だからである。
   
だから東九条マダンは「民衆文化運動」と言いながら、東九条地域に生活する「民衆」を排除するような構造になっている。 そしてその構造は、現在の東九条多文化共生エリアの「構造」そのもののモデルになっている。
   
であるがゆえに、この三年ほどの平山の「抗議」は全て「暴力」のレッテルを張られ「排除」されているのだ。 東九条多文化共生エリアでは「虚構の人間」だけが生きることができて、「人間そのものである人間」は排除される。「多文化共生」の名のもとに。 だからおれはこのエリアは「虚無化」が進行していると断じているのだ。
   
だが現在、東九条だけでなく、この社会の基盤となっている「同じ人間」「同じ国民」というふたつの「同一性」が揺らぎ壊れようとしている。
   
外国人排斥を声高に唱える政党が支持を延ばすのも「同じ国民」という「同一性」が壊れそうになっている恐怖ゆえである。 在日が例え帰化したとて、ずっと「帰化人」だといわれ、「同じ国民」としては認識されず「差異化」され続けるのもそれが理由である。 ということは「国民」とは法的な概念ではなく心理的な「像」だということになるのだが、何をもってその「同一性」を「確信」するのかという絶対的な何かを体感している「国民」はいないだろう。 余談だがその「国民像」を遠く高いところから形成していた天皇制が皇室典範の改正云々でゆらいでいるのは象徴的な現象である。
   
また、「同じ人間」という「同一性」も壊れつつある。資本主義がここまで暴走し、貧富の格差は広がり、実際に生まれ育ちでその後の人生が決まっているような実質的な階級固定社会において、 世界人権宣言にある「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等」という「虚構」を「信じる」ことはもはやできない。 中産階級が壊れるという事は、この「人間らしい生活」ができる人たちがほとんどいなくなるということであり、それは「人間」という「同一性」の崩壊を意味する。
   
そしてこの「同じ人間」という同一性の崩壊は。一方の極である「同じ国民」を崩壊させることにもなる。 「同じ国民」でありながら「人間扱いされる国民」と「人間扱いされない国民」とに分かれるのであれば、「国民」の「同一性」は崩壊せざるをえない。 ふつうに働いても「人間らしい」一定の水準の「生活」ができないならそれはもはや「国民」の「国民」たる由縁を「信じる」ことはできないからである。
   
また「同じ国民」という同一性の崩壊は、外国人という「他者像=世界理解」の崩壊を意味する。 「国民」がはっきりしているからこそ「外国人」という「他者」を理解し交流できるのだから。 現在の外国人排斥の心理は差別心というよりは、「同じ国民」という「同一性」が崩壊しているからこそ外国人という「他者」が理解できない、 「他者」を理解する世界観が失われているという状態なのではないかと平山には思われる。 であるがゆえに外国人という「他者」を「同じ人間」だという「同一性」を感じることができなくなっている。 故に「同じ国民」という「同一性」が崩壊することは「同じ人間」という「同一性」が崩壊することと軌を一にしている。
   
「人間でありかつ国民であること」が近代国家の条件であるというのはそういうことである。 このふたつの「同一性」が差異や矛盾を生み出しながらもそれを包摂することでバラバラの「近代人」をひとつの社会に収束させているからである。 だから思想の左(人間重視)も右(国民重視)も両方この社会には必要なのだ。必要というよりも、近代国家にとってそれは二つで一つなのだ。 だが現在、「人間」、「国民」、というふたつの「同一性」は互いに壊れようとしている。
   
「同一性」が崩壊するならば当然「差異」も崩壊する。
   
同一性が崩壊するとき、狂気が起こり、それに伴い差異が崩壊するとき、暴力がおきる。狂気と暴力が死をもたらすだろう。
   
平山は言っていることが大袈裟だと思うかもしれない。 だけど、現在東九条多文化共生エリアで起きていることは「同一性」の崩壊、それに伴う「差異性」の崩壊であり、同一性、差異性の崩壊のあとは、必ず、狂気暴力死がやってくる。 おれはそれを肌感覚で感じている。
   
東九条マダンは梁民基氏が韓国から輸入した民衆文化運動における民衆概念を「在日も日本人も同じ民衆」という概念操作をして始まった。 そしてそれは「差異を消滅させる同一性」という思想として駆動し、それが「多文化共生のまつり」だと言われ始めた。その思想は東九条多文化共生エリアにおいて現在も駆動している。
   
おそらく東九条マダンの初期は「差異を「解消」させる同一性」という程度の「民衆」概念の操作だったのだと思う。 実際に在日と日本人にある心理的な壁を「解消」することは必要なことだろう。だがやがてその「解消」は「消滅」へと至った。 東九条マダンに多大な影響を受けた浜辺ふうやその取り巻きの主張は「差異を消滅させる同一性」そのものである。 その思想は「東九条多文化共生エリア=京都市行政の東九条ジェントリフィケーション施策」と一致する。 だから、それが咎められることはない。あくまで「差異性」を尊重しろと抗議する平山の訴えは全て「暴力」というレッテルを張られ排除される。
   
京都市が現在進めている東九条東南部エリアの「アート化」つまりジェントリフィケーション施策は「差異を消滅させる同一性」そのものであり、 京都市の多文化共生施策の事業委託をしているカリタス会の「京都市 地域・多文化交流 ネットワークサロン」もその施策と軌を一にしているのだから、 今後東九条地域において「差異を消滅させる同一性」が猛威を振るうことになるだろう。アートと多文化共生がひとつになって。 ネットワークサロン施設長の前川修(カリタス会)が差別に抗議する平山を「警察呼ぶぞ」と弾圧したのはまさしくその京都市行政の「東九条地域住人を排除する」という強固な意志を体現しているのである。
   
東九条地域においては「差異を消滅させる同一性」によって「差異」が消滅しその結果「同一性」も消滅しこの東九条という小さな社会が消滅するという道程を進むことになる。
   
その過程に違いはあれ、「同一性」の崩壊、→「差異性」の崩壊→「社会」の消滅、という過程は東九条だけでなく、日本でも、世界のあらゆるところでも進行していることであり、 現在は世界そのものが消滅しようとしている。
   
そこで、「民衆」だ。
   
「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」の持つ剥き出しの現実そのものの力、暴力、狂気、死を直接生きる生命の力は、 現在の世界消滅の危機に再びその力を発揮するのだろうか?
   
かつての韓国の民主化運動における「民衆」という「像」としての力を発揮するのだろうか。
   
再び「民衆」が目覚める「時」が来るのだろうか?
   
平山は、そんな「時」は来ないと思う。
   
暴力は警察、狂気は病院、死は隠蔽。
   
かなしいかな、現在の社会に「民衆」はもはやどこにも存在できない。
   
『「人間であることから排除されている人々、』
   
はこの世界にたくさんいるが、
   
『であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」』
   
は社会に存在できないからである。
   
人間が人間そのものを生きることがもうできなくなってしまったのだ。
   
その結果、かなしい事に、人間が人間そのものを生きることを忘れてしまったのだ。
   
だが現在、自由、平等、人権という「虚構の人間」も壊れようとしている。
   
「虚構の人間」が壊れ、かつ、人間が人間そのものを生きることを生きることができなくなった、という未曽有の危機にこの世界は見舞われている。
   
平山はこの連載で「在日は滅んだ」と書いた。何人かの人にはそれは言い過ぎやろうという感想ももらったのだが、 だが日本における「人間」「国民」という同一性が崩壊するということは当然「在日」という「他者像」の崩壊をもそれは意味するのだ。 その具体的な兆候が東九条多文化共生エリアに複数強く現れている以上、平山は「在日は滅んだ」と断じざるをえない。そして「在日が滅んだ」ということは、それは日本が滅ぶその兆候でもある。
   
この同一性と差異の崩壊という危機にどのように応じていくかは人それぞれだろう。
   
近代の虚構をなんとか再生させるのか、新たな虚構を構築するのか、剥き出しの現実を生きながらも誰も傷つけないような生き方を模索するのか。
   
平山はやはり『身体』が最後の砦だと思っている。身体は人間における「差異」と「同一性」を両方含んでいるからである。 「わたし」も「あなた」も人間として「同じ身体」であると同時に「違う身体」であるからだ。
   
「国民」という虚構、「人間」という虚構が壊れようとしている今、狂気、暴力、死という剥き出しの現実を引き受けることができるのはこの現実の身体だけであり、 身体が差異と同一性を同時に体現しているならば、身体から新たな社会が新生するのではないだろうか。
   
かつて存在した「民衆」とはそんな身体を直接生きたひとたちだった。
   
たしかに「民衆」はもはや復活することはない。だが、「民衆」が生きた「身体」はまだこの現実に、在る。
   
世界を愛することを諦めなければ、再び人間が人間そのものを生きることは叶う。
   
たとえ世界が消滅したとて、おれは世界を愛する。
   
愛こそは差異と同一性の源泉であり、愛こそは他者を他者たらしめる闇であり、愛こそは愛だからである。
   
民衆とは何か?
   
民衆とは民衆である。
   
それは、愛を、「愛は愛である」としか言い現わせないのと同じである。
   
この同語反復性を生きた者たちが民衆である。
   
どうせ差異も同一性も消滅するのなら、この同語反復を生きてみればいい。
   
世界消滅後の同語反復から、新たなる差異と同一性がうまれるだろう
   
かつて民衆たちがそうしてきたように。
   
民衆とはどの時代どの場所においても、常に世界消滅を生きてきた者たちなのだから。
   
━━━━━
   
参考文献
   
    荻野昌弘 「資本主義と他者」 関西学院大学出版会
   
真鍋祐子 「烈士の誕生 韓国の民衆運動における恨の力学」 平川出版社>
   
徐台教 「分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界」 集英社




   

2026年7月11日

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