哲学の始まりは万物の根源とは何かという問いから始ったそうだが、そもそも万物には根源などない「万物は万物である」これが事の実相である。
万物は万物であり、水は水であり、数は数であり、火は火である。万物に何か根源がある、始原があるという発想をもつのは人間が人間であるがゆえである。
人間とはおかしなもので「人間は人間である」という事が出来ない。人間は自分に根源や始原があると思い込んでいる。
それは母親から産まれて来たからという事実が根底にあって、人間は自らの事を「わたしは母親の息子」あるいは「わたしは母親の娘」だと認識している。
もう少し成長すれば自らの事を「わたしは父親の息子」あるいは「わたしは父親の娘」と認識するが、そうして人間はどんどん内部で分裂していく。
それは社会化するに従い「わたしは学生」「わたしは会社員」「わたしは絵描き」「わたしはお客さん」「わたしは~」と無数の「わたし」に分裂分化していく。
それはそれで良いことなのだが、分裂分化が遠くまでやって来た時、その寂しさが根源や始原を希い求め思索する動機になるのかもしれない。
だから人間だけが「人間は人間である」という生を生きることができない。ねこは「ねこはねこである」という生を生きている。花は「花は花である」という生を生きている。
石は「石は石である」という現実を現実している。人間だけが「人間は~」であるという別の生や現実を生きている。
「人間は人間である」とは同語反復である。同語反復に論理的な価値はない。何かを述べた事にはならない。であるがゆえに思考するものにとって同語反復は無価値なものとして退けられる。
ある「A」について、「AはBである」そして「BはCである」さらに「CはDである」さらにさらに「Dは…n…である…」とこの連鎖を延々と続けていくのが思考であり結局「A」は何なのかは理解できない。
これはエッシャーの無限に続く階段と同じである。この思考のループの出口のひとつは「AはA」であるという同語反復である。
確かに同語反復には意味も無いし価値も無い。だが、それは思考に限った場合という話である。こころ身体にとっては同語反復こそが至高である。
同語反復はこころ身体の輝きである。「わたしはわたしである」「人間は人間である」「万物は万物である」と言うとき、こころ身体は輝きを放つ。
これはこころ身体から切り離された「わたし」には理解できないだろう。「わたし」が思考だけしているとこの輝きは生じない。
エッシャーの絵に出てくるループする階段を歩く人のイメージはまさにこころ身体から切り離された人間の姿である。思考に自閉してしまった人間。
「わたし」がこころ身体を取り戻すときあのループは開かれる。もちろん古代の哲学者にこころ身体が無いということではない。彼らは決してエッシャーの絵の住人ではない。
輝いている。だが思考するということ、万物の根源を問うということは人間がこころ身体から切り離され思考に自閉する始まりでもあった。
そして人間の思考への自閉は現代で極まりつつある。ことばによってこころ身体に再びつながっていくその始まりと終わりは同語反復によってである。
「人間は人間である」「わたしはわたしである」と言った時に何か違和感があるならそれは「わたし」がこころ身体から切り離されているからだ。
「人間は人間」であると言った時何の違和感もなく、こころ身体に何か輝きが生じるならそれは「人間が人間である」本性が顕れたのだ。
そして「人間は人間である」という輝きと「万物は万物である」という輝きは同じ輝きであるということに気が付くだろう。
それはさらに「ねこはねこである」という輝きとも同じであり「花は花である」という輝きと同じでもありさらに「石は石である」という輝きとも同じである。
違うけど同じである。こころ身体はひとつ。
「万物の根源」は「万物は万物である」
であるがゆえにおれは祈る。人間が人間でありますように 万物が万物でありますように