【心・身・神とマーケティングと承認欲求】

   
   

 商行為、商いは人間にとってとても大切な営みだ。商いは人間が人間であるための関係や社会をつくるための大切な営為である。商うことは尊い。
 世の中には売れてなんぼの世界がある。その一方売れてなんぼでは無い世界もある。 売れてなんぼの世界で生きる人はマーケティングでも「売れる仕組み」でも何でも使って売れたらいいだろう。 マーケティングという考え方や技術自体が悪いわけではない。 だけど、心・身・神に関わる活動、表現、商いをしている者がマーケティングの手法を使うのは邪悪だと感じるしそういうのを見るとおれは悲しい。非常に悲しい。 それはこころ身体への裏切りであると同時に、自身の運命を信じることができないということでしょ。 自身の運命を信じることができない者がどうやって他人の心身神にたずさわるのか。心・身・神は「売れるしくみ」の鋳型にハメたらあかんでしょ。 マーケティングの「売れるしくみ」を使ってるようなものはすぐわかる。 それはことばの使い方、写真や動画の見せ方、自然なブームや物語の作り方からある程度のパターンがあるから。 自然な流れを演出しているけどわかる。匂う。マーケ臭が。
 人間をカタにハメるような技術を使えば、自分自身がもう人間を人間として見れ無くなる。マーケティングでやって来る人はひとりの人間ではなく「消費者」なのだから。 人間をカタにハメて消費者にして、それでセラピーやらセッションをするとは何のお笑いなのか。 人間が人間らしさをとりもどすために心・身・神の技法やセラピーはあるのにそれをする人が何故人を型にハメるようなことするのか。重ね重ね、おれは悲しい。 おれというか、この身体が悲しんでいる。胸がジンジン重くなる。特にこういう世界は彼我の間に情報格差があるわけで、自分を大きく見せる事なんかなんぼでもできる。 何でもないことを特別に見せることなんてなんぼでもできる。それは他人への詐欺行為であるという以前にこころ身体への裏切りでしょ。おれはそれがいちばん悲しい。
 そして何より厄介なのが、マーケテイングは承認欲求と相性がいい。売れたい、人気者になりたい、認められたい。 そんな承認欲求をマーケティングは簡単に叶えてくれそうなツールである。 もちろん承認欲求は誰でもあるし健全な承認欲求は人間にとって必要なものでもあるが、他者から認めてもらえるというのは地道なことの積み重ねの上にしかない。 マーケティングの技術を使って、「売れる仕組み」を作って他者を消費者というカタにハメて承認欲求を満たすことは危険極まりない。 ある程度年齢を重ねれば承認欲求が肥大した時の危険性は身をもって知っている。 それは自分自身が痛い目に合うという事ではなく、肥大した承認欲求は必ず他者を巻き込んで他者を傷つけるからだ。 そこにマーケティングの技術が重なれば被害はより大きなものになるだろう。ましてやそのような場には心身神に傷を負った人や問題を抱えた人が集まるのだから。 ならばなおさら他人の心・身・神に関わる活動、表現、商いをしている者はマーケティングの技術を使う事に慎重であらねばならないのではないか。
 売れたい、広めたい、認められたい、そんな気持ちはわかるが、でも心・身・神に関わる者はそれを「商い」の範囲を超えてやってはいけないだろう。 身に付けるべきはマーケティングではなく「商い」だ。こころ身体をカタにハメるな。煽るな。踊らせるな。人間を舐めるな。商え。

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