批評と物語は違う。批評というと大袈裟だが、例えばある人物Aさんを「Aさんはダメな人だ」と批評するとする。
これが事実に即したもので、またその内容が妥当なものであり、
かつその批評が今後Aさんや周辺の人間関係に有益な何かをもたらすのであれば「Aさんはダメな人だ」という批評はあって然るべきものだろう。
だが「Aさんはダメな人だ」という言説が批評ではなく物語りだった場合、この言説はある種の暴力性を帯びてくる。
この言説が批評ではなく物語であるというのはつまり、これはAさんの事を語っているのではなく自分の事を語っているという事である。
つまり「Aさんはダメな人だ(≒だから≒)わたしが守らなければならない」「Aさんはダメな人だ(≒だから≒)わたしは優秀だ。」
「Aさんはダメな人だ(≒だから≒)わたしは不幸なのだ」、とつまり物語ることとは「Aさんは~だ(≒だから≒)わたしは~だ」という構文である。
このように他者が物語られる時、他者は「わたし」の物語の登場人物にすぎなくなる。
「Aさんはダメだ(≒だから≒)わたしは~だ」と言及する時、Aさんはダメな人という役割を押し付けられる。
「わたしは優秀だ」というわたしの物語を支える為の役割を押し付けられる。
当然、Aさんには現実にダメなところもあるのだろうしそれで周囲に迷惑をかけているという事実もあるのかもしれない。
だけどその事実が「(≒だから≒)わたしは~だ」という物語ることに接続する時、それは事実ではなく幻想…「幻実」となる。
物語で語られたことは「現実」ではなく「幻実」なのだ。
人間の自我やアイデンティティが過去の来歴に由来する以上、人間は現実や事実を生きると同時に幻実や物語を生きることになる。
だからどうしても物語ることは避けられない。だが物語ることが他者に不当な幻実を押し付けることは暴力であることは確かなのだ。
また今現在のこの社会はうまく「幻実」を作った者が目立ったり儲けたりしやすくなるという悲しい「現実」もある。
「わたし」は物語でできている。とはいえ例えば「テレビのニュースキャスターが私のことをしゃべっていた。わたしはこの国の諜報機関に監視されている」
といったあまりにも現実から乖離した「物語」を抱えた人の話を聞くとそこに何か病的なものを感じるしそれは物語ではなく妄想なのではないかと感じる。
だが「Aさんはダメな人」という一見事実に即した批評もそれが「(≒だから≒)わたしは~だ」という構文に接続する時それは妄想の類と変わりのないものとなる。
たとえそれが事実であっても、だ。物語ること自体は悪いことではない。物語はわたしがわたしであるために必要な営為だ。
でもそれは他者への批評と切り離されなければならない。「わたしを物語る事」と「あなたへの批評」が接続する時それは暴力となる。
「わたしは~だ」という根拠が他者であってはならないのだ。「わたしは~だ」という根拠はあくまでこのこころ、この身体にある。
このこころ身体から発せられる「わたしは~だ」という物語こそが現実のそして真実の物語だ。このこころ身体の物語を生きることは他者の物語を尊重するということにもなる。
よく根拠のある自信と根拠の無い自信という言い方をするが、根拠のある自信とは「Aは~だ(≒だから≒)わたしは~だ」という構文に由来する。
だからAが変わってしまうととたんにわたしの自身の根拠が崩れ去ってしまう。「幻実」はあっさり消えるのだ。根拠の無い自信はこのこころ身体そのものに由来する。
「わたしはこころ身体だ。〈だから〉わたしはこころ身体だ」という同語反復になる。あるいはこう書いてもよい。
「わたしはこころ身体だ。〈だから〉こころ身体はわたしだ。」この物語を生きる時、もはや自信すら必要ない。
自身があるからである。自身という物語ではなく運命だけがそこにある。
人間は物語を生きる。だが根拠のある自信「Aは~だ(≒だから≒)わたしは~だ」というは暴力になる。だからこの構文を捨てて
「わたしはこころ身体だ。〈だから〉こころ身体はわたしだ。」という自身の物語を生きなければならない。
なければならない、というか自身を生きることが幻実ではなく現実そのものなのだから。
そして現実そのものを生きることが他者から仕掛けられた「おまえは~なのだ」という幻実や役割や呪いを打ち破ることになるのだ。
物語に対して物語で対抗してはいけない。それは物語の上書き合戦、つまり権力闘争、政治闘争となる。また物語に対して批評で対抗してもいけない。
その「現実主義」はニヒリズムに陥ることになる。このこころ身体、運命を生きること。これが物語られることの暴力そして物語ることの暴力を無くす道である。