相手に何かを伝える。「わかってほしい」。この胸の苦しみ、この胸の悲しさ、この胸の痛みを「わかってほしい」。その一方、「わかってたまるか」という気持ちも肚の底にある。お前(たち)に何がわかるんだ、「わかってたまるか」という肚は共感を拒絶し傾聴を蹴っ飛ばす。だけど「わかってたまるか」には共感を拒絶してでも「わかってほしい」ことがあるわけで、それは「わたし」と「あなた」の間には深い深い断絶があることを「わかってほしい」ということなのかもしれない。「「わたし」のことをわかってほしい」という事ではなく、この苦しみや悲しみを「わかってほしい」ということではなく、この断絶があることを「わかってほしい」。だからお為ごかしの共感や傾聴なんてこの断絶に対する侮辱でしかない。
だから当然「わかってたまるか」がわかってもらえることはない。「わたし」のことを心配して寄り添おうとして近づいてきた良き隣人にとって共感を拒絶されることは自身の存在を拒絶されたような軽い衝撃を受ける。「わかってたまるか」を投げつけられた良き隣人はただただ困惑するしかない。
だけどやっぱり「わかってほしい」。だからことばで文章でくどくど説明するけどその説明はこの断絶の深淵には届かない。何のことは無い、「わかっていない」のは自分自身なのだ。そして「わかってたまるか」と叫んでいるのはこの深淵そのものなのだ。
「わかってたまるか」を良き隣人に投げかけるのはあまりよろしくない。傷つけなくてもよい人を傷つけるだけだ。「わかってたまるか」はこの断絶の深淵の奥底に向けて叫ぶべきだ。深淵に向かって「わかってたまるか」と叫ぶとき、深淵もまた「わかってたまるか」と叫び返してくれる。その深淵の「わかってたまるか」に耳をすませてみればいい。深淵の声を聞くのだ。これを10年繰り返してみればいい。きっと「わかる」時がくる。「わかった」ならば「わかった」と深淵に叫んでみればいい。深淵もまた「わかった」と叫び返してくれる。
深淵とわかりあえた時、「わかってほしい」と素直に隣人に伝えることができる。深淵とはこの身体の肚のことであって決してそれは断絶ではないからだ。肚に深淵があるとき、「わたし」と「あなた」の断絶は消える。この身体に肚が無い時、この肚に深淵が無い時、それは断絶として外在化する。だから断絶を飛び越えようとしたり橋をかけようとしたり、逆に「わかってたまるか」と共感を拒絶するようなことをしてもいずれも失意をもたらすような結果にしかならない。「わたし」と「あなた」との間にある断絶の深淵をこの身体に、この肚に取り戻すのだ。
絶望することはない。深淵はいつだってわたしにほほえみかけている。だから叫べ。深淵に。「わかってたまるか!」と