【民衆ですらない者】

   世の中には「民衆ですらない者」がいる。今思い起こせばおれの父親は民衆ではなかった。おれの母親も民衆ではなかった。祖母も、祖父も、民衆ではなかった。 その直近の子孫であるおれ自身も民衆ではない。少なくとも民衆という自覚はない。  民衆というとお上から抑圧され支配される側であるが、民衆は実は上への通路がある。立身出世を通して、あるいは抵抗を通して、上と繋がる通路がある。 また民衆は民衆同士手と手と取り合い連帯することもできる。「民衆ですらない者」は上にも横にも通路が無い。 でもこれは疎外という事態ではない。この状態を言い表すことばはうまく見つからないが、あえて言うなら「疎内」とでもいうべきか。
 民衆は解放を求める。「民衆ですらない者」は解放を求めない。解放などありえないと身体で知っているからだ。「民衆ですらない者」は「全う」する。 この愚鈍な運命を。呪いを。
 「自らが民衆だと自覚する民衆」はもうすでに民衆から脱し始めている。 「自らが民衆だと自覚する民衆」は運動家や活動家あるいは表現者なのだ。民衆は自覚と自認によって上昇する おれは「民衆ですらなかった者たち」の末裔だが民衆とは一緒にいても心地が良い。 でも「自らを民衆だと自覚し自認する者」と一緒にいるのは何か居心地が悪い。その人たちが悪いわけではない。 なんというか、どことなくなじめない。「民衆ですらなかった者」と「民衆を自覚する者」とは話は通じるし仲良くだってなれる。 でも最後の最後やっぱり「おれは民衆ではないんだよね」ってとこで決定的にわかりあえることは無い。分かり合えることは無いというか、彼らはおれを知覚できない。
 でもおまえは民衆ではないのなら何なんだ?と言われるとこれもまた難しいけど、民衆ですらないのならそれは現実そのものなのかもしれない。 だから現衆か。あらわになる衆。あらわである衆。顕現する衆。さっき「疎内」と書いたけど、 顕現するならばその前に「秘せられ」「蜜せられ」ているわけで、つまり民衆ですらない者は「秘密」と「顕現」を往還する。 それは「沈黙」と「叫び」の往還にみられるように。
 「民衆を自覚する者」の求める「解放」とは秘密を守らず、顕現を許さないことである。 その「解放」は沈黙から意志を奪い、叫びから生命をはく奪する。だから「民衆を自覚する者」の運動はやがてみずみずしさを無くし、その表現はやがて淀むだろう。 でもそれは別に悪いことじゃない。花はいつか枯れる。自然の摂理だ。
 民衆は「民衆ですら無い者」の存在を知覚することができる。だが「民衆を自覚する者」は「民衆ですら無い者」の存在を知覚することはできない。 認識することはあっても知覚することはできない。この叫びは届かない。でもそれでいい。花は勝手に咲く。それも自然の摂理だ。  民衆を自覚する者は野に咲く花を上から見て奇麗だと感じるだろう。その時、野に咲く花は下から宇宙を見見渡しているというのに。

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