【邪気と投影】

     「気」。というと何か怪しげな世界の話のような「気」がするが「気」はどんな人でも日常的に使っている。 「あの人が気になる」、「あの人といると気疲れする」、「あの人とは気が合う」、「あの人はよく気が利く」「あの人には気を使う」…と、ふだん日常からすでに「気」を使っている。
 「気」の概念には二種類あって①何かエネルギーのような実体としての「気」が在るという意味での「気」。 そして②わたしとあなたとの関係性を生じさせる「間」としての「気」もある。②の「気」は木村敏さんや片山洋次郎さんが言うところの「気」である。
 さて、「邪気」ということばがある。邪気は人の心身に悪影響を及ぼし人を病気にさせたり運を落としたりする「気」だが、これは①のエネルギーとしての「気」と言えるだろう。 「邪気をもらってしまう」「邪気が身体に溜まる」「邪気を払う」「邪気を感じる」そして時には「邪気が見える」人もいる。 その真偽はさておき本人が「邪気が見える」というのは本人の主観なので他人がそれを否定も肯定もする筋合いはない。 ただその話を聞くにその「見える」とされる「邪気」とやらはその本人のコンプレックスを他人や世界に投影しているだけなのではないかと感じざるをえないこともある。 それがこの「邪気」ということばの危険なところで、結局自分が嫌いな人や物や場所は「邪気」があるようにに見えるし、 この知覚が特定の属性に向かえば自分が気に食わない属性の人間は全て「邪気」まみれに見えるのだろう。 何のことはない、その「邪気≒コンプレックス」をまき散らしているのは「邪気が見える」というその本人だったというオチである。
 もちろん「邪気」にもいろんな考え方やとらえ方や体系があるので一概に悪い概念ではないのだが、そもそも「気」に良い「気」も悪い「気」もないように平山は感じる。 「気」は「気」である。でも確実に言えることは「気」が悪いものになるのは自身のこころとからだが硬直している時である。 だからその硬直を解けばその「悪い気」は本来の「気」に戻る。怪しげなまじないで「邪気」を払うよりは体操や心理療法でもして心身の硬直を溶かすのが良い。 また、お互いに投影の掛け合いをすればどんな良い「気」もそれは悪い「気」にならざるを得ない。 「気」を邪気にするのは常に未熟な「わたし」と「あなた」なのだ。投影されるのは常に「影」であって、その影を邪気というならイメージとしてはぴったりだ。
 その「邪気」を感じるならまだしも「見える」というのはそれは自分の「影」の投影なのかもしれないということを自覚しなければその知覚はやすやすと差別や偏見となる。 「気」ということばにはいろんな使い方があるけれど「気が見える」と言う事はほとんど無い。 なぜなら「気」は感じるものだからだし、そもそも「気」は見えないからこそいいのだ。 「気」が視覚情報になればそれは象徴言語となりそれはすぐ思考や言語体系に取り込まれ「わたし」に都合のいいように解釈されるだろう。 そもそも「わたし」の身勝手な思考によって汚染された「気」こそが「邪気」なのではないのか。 「気」はそもそも「無邪気」なのだ。「気」は「気」である。そこから外れる必要はない。 「気」が見えるというそのスーパーマン的な振る舞いこそがすでに「コンプレックス≒影」の裏返しだということを自覚しなければならない。
 「邪気」が見えるというそのこころの在りようや才能≒偏りは否定しないが、 その「邪気」が見えるという孤独に耐えられずそのことをぺらぺらしゃべってしまうその自分の軽薄さをこそ恥じて呪うべきだろう。 まずは顔を洗って自分の目の曇りをぬぐうべきだ。邪気べきべき。

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