絵画と同じくことばにもトレースとデッサンがある。「わたし」が誰か他人になりたい時、「わたし」はその誰かのことばをトレースする。
「わたし」がわたしで在りたい時、「わたし」は誰かのことばをデッサンする。トレースとデッサンは違う。
普段おれは偉そうにいろいろ書き散らしているけど、もちろんそれはおれ自身のことばであり、かつ他者のことばである。
他者というのはこれまで読んできた本の著者であり、これまで生きてきたなかで出会った数々の人たちのことばである。
特に書籍の影響は大きいので自分のホームページには参考文献として影響を受けた人やその著書を明記している。
たまに読書感想文を書くのは、影響を受けた人達への敬意と感謝の意味も込めているし、読書感想文もデッサンの一つだからである。
おれの読書感想文は下手くそなデッサンだけどデッサンはデッサンだ。
数年、十数年にわたって何度も何度も同じ本を読む。何度も何度もそのことばを自分のこころ身体で食べる。血肉にする。
そしてそのことばを実際に自分の人生で生きてみる。他人のことばが自分の血肉になるなんてことは十年、数十年かかることで、それは絵画でいえばデッサンのようなものだと思う。
ひたすら現実を現実のまま写していく。ことばもやはりひとつの現実で、本で読んだことばといえどそれは現実なのだからその現実をひたすら…この身体で、
この身体にことば(≒現実)を写していく。ことば(≒現実)を身体に移すというのはそのことばをちゃんと「生きる」ということである。
例えば「早寝早起きが健康にいい」という誰かのことばを読んだなら実際に早寝早起きをやってみて続けるからこそ
「早寝早起きは健康にいい」ということばが自分自身のことば(≒現実)になる。
「早寝早起きは健康にいい」ということばをトレースして発信するだけなら実際に早寝早起きをする必要はない。
トレースをする営為の裏には「他人になりたい」という願望が隠されている。それは憧れや暗い羨望の念である。
トレースされたことばというのは、ちゃんと生きたことばではなく文字通り他人のことばをコピーして自分の考えであるかのように発信することばである。
それはことばというよりはそのことばを発したその人そのものをトレースしている。
トレースは手っ取り早く他人になるやり方である。実際は他人になったような気がするだけなのだが、トレースをし続ける限りその人は自分自身の人生を生きることはできなくなる。
手っ取り早く他人のことばを使って他人になるための努力をし続けるのだから自分の人生を生きることはできなくなる。
トレースをすることで身につく能力は確かにあるのだけれども、いくら能力を身に着けたとてそのことばを生きていないのであればそれはどこまでいっても幻想にすぎない。
人生のある時期、自身より優れた他人になりたいと思う事は誰しもあることかもしれないが、何をどう頑張ったとて他人にはなれない。
できないことを頑張っても仕方ないのだから、安易なトレースは止めて愚直にデッサンするより他ない。
どんな人間も人間は当然誰かの影響受けている。でもトレースしてその影響を受けるのと、デッサンしてその影響を受けるのはその結果が違ってくる。
その違いは10年やればわかる。トレースを10年続けてその10年を振り返った時、自分が自分の人生を生きなかったことに気が付くだろう。10年を失うのは勿体ない。
とはいえ、ずっとことばのトレースを続けられるほど人生は甘くは無いし、自分の人生を生きない者を運命は見放すだろう。
遅かれ早かれ自分の現実≒ことば≒運命を生きざるをえない日はくる。人生の些事にトレースで対処できたとて、運命にトレースは通じない。
運命は、生きて死ぬことしかできないのだから。