【天動説を生きる日陰者】

  「自説」を書くのに科学的根拠や学術的根拠は必要ない。それは「自説」だから。「地球が回っているのではない、太陽が地球の周りを回っているのだ」でよい。 自分が目の前で起こる自然現象をそのまま見て書いた「自説」だから。だが、その「自説」に科学的根拠をもたせようとしたり、無理やり学術的根拠をもたせようとするからおかしなことになるしそれは端的に詐欺である。
 例えば平山が主催している心身神体技法講座は「自説」なので学術的根拠も科学的根拠も皆無である。平山は学術書や専門書から多くのことを学んでいるが、学術用語を使って「自説」を展開することはない。 それは平山自身が科学的な手続きによる思考を学んだこともなければ、体系だった学問の専門教育を受けていないのでそもそも学術用語を使用して自説を展開する技能も技量もない。 極まれにどうしても学術用語を使わざるをえないこともあるけれど、極力日常ふつうに使うことばだけで「自説」を展開しようと心がけている。なぜなら平山の「自説」は天動説だから。 天動説は主観の世界である。大地が不動でその周辺を太陽が回っている。これはごくごく素朴で主観的なふつうの世界観である。そして心身神体技法講座は天動説である。 ごくごく素朴で主観的なこころ身体の世界。それは専門用語で記述できる世界ではなくむしろ日常の言語でなければ言い現わせない世界である。 だけど天動説は科学的には間違っている、日常の主観的な言語や世界観は科学的には「間違っている」。だから心身身体技法講座は非常に「あやしい」ジャンルだし「あやうい」ジャンルでもある。 そもそも天動説なのだから一般常識とは乖離しているし、学術的、科学的には「間違っている」。平山は、あやしい、あやうい、あぶない、天動説を生きている。 だから他人から「平山はあやしい、あやうい、あぶない」と認識されてもこれは当然のことで、だけどその認識を科学的根拠や学術的根拠で補強してひっくり返そうとは思わない。 あやしいあやういあぶない天動説を生きる者には天動説を生きるものとしての矜持がある。
 人間には地動説と同時に天動説も必要なのだ。もし人間が地動説を「体感」できるなら、超高速で回り続ける地球の速度を体感し続けることになって日常生活はままならないだろう。 大地は不動で、太陽は地球の周りを回るという「体感」や「主観」があるからこそ人間はこの日常生活を無事すごすことができている。 たとえそれが科学的に間違っていようとも、だ。天動説にもとづいた日常の言語や世界観は「間違っている」けれど必要なものなのだ。 だけれどもこれだけ科学が発展し、科学技術無しではやはり現代人は日常生活を無事すごすことはできない。「太陽が地球を回っている」のでは科学は成り立たない。 だから現代の人間は天動説と地動説という相矛盾した世界を両方生きる必要がある。
 非科学的といえば占いだって非科学的だが、占いも天動説である。西洋占星術のホロスコープを見てみればいい。 その中心に鎮座するのは地球だ。この科学的根拠の世界を生きる現代人になぜ天動説である占いが未だにそのこころに作用し、影響をおよぼすのかといえば現代人もまた天動説の世界を生きているからである。 だから占いは統計だとか占いは非科学だとかそういう問題ではなく、人間にとって現実にあるこころを占いは表象するからこそその力は未だに顕在なのだ。 占いへの過渡の依存などの問題はあるが、これも科学への過渡の依存との表裏一体の問題なのだ。そう、天動説と地動説は人間の主観やこころにおいて表裏一体である。
 しかしそれはあくまで「表裏一体」なのであって、表が裏になることはないし、裏が表になることはない。天動説はあくまで裏である。だから天動説を生きるものはこの社会においては日陰者である。 たとえばスピリチュアルとか野良カウンセラーとかの類が「自説」に科学的根拠や学術的根拠をやたらと持ち出して「自説」の正当化をはかるが、ようは天動説を生きる根性がないのだ。 もしくは天動説と地動説のクロスの葛藤に引き裂かれる覚悟もないのだ。そしてそういう根性なしほどマーケティングのテクニックをつかって売れよう、目立とうとする。件の件の「困った人」の著者もその類だろう。 野良は野良として生きていけばいいのに、「自説」に学術用語や診断名を使うから「詐欺」になり果てには「差別」にまで至る。 日陰者には太陽の輝きはない。だけど、日陰者には星の輝きがある。現代の社会で天動説を生きる者は皮肉にも太陽の時間を生きることは難しいが、星の時間を生きることができる。 この星は科学的根拠や学術的根拠でなにか明証できるものではない。それは人間のこころであるのみならず世界そのもののこころ身体だから。

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