自我には強度がある。自我が「強い」と世界や周囲の環境から独立独歩する。だが自我が強すぎて「硬く」なると世界や周囲の環境を排除して孤立するようになる。
自我が「弱い」と世界や周囲の環境と協調しやすいが逆に自我が弱すぎて「脆く」なると世界や周囲の環境に圧倒され呑み込まれて立てなくなる。
例えば人間は空気を吸わなければその生命を維持できないが、自我の構えとして「私が空気を吸って吐いているから私は生きているんだ」というのが強い自我で、
「私は周りの空気があるから私は生かされている」というのが弱い自我である。
「わたしは生きている」という構えと「わたしは生かされている」という構えの違いだが、
現代はこの相反する構えを両立させなければいけないという事に難しさがある。
現代は強くなければ生きにくいが、弱くなければ生きずらい。自力で生きてかつ他力で生かされているような強弱の絶妙なバランスが必要になる。
強い自我、弱い自我どちらに優劣があるわけではない。大切な事は自我そのものが身体を硬直させるという事実である。
宗教的な修行や自己啓発セミナーなんかで「自我を消す」ということをするがあれは非常に危険である。
自我そのものを直接消そうとするとそれは病的な結果に終わるだろう。それは自我を消している訳ではなく、
自我の否定や破壊である。そんな事をしては絶対にいけない。自我を消すということの本意は「自我を消す≒身体の硬直を消す」ということである。
平山自身の実体験といろんな書籍の知見を照らし合わせるとハードな修行の末に神秘体験が起こるとか、
いきなり「悟った!!」みたいな体験は極度に身体を硬直させてそのピークで一気に身体を弛緩させるという事で起こる現象であると思われる。
そしてそれは運や偶然に左右される危険なやりかたなのでお勧めしない。現代にはそんなハードな修行は必要ない。
真面目に書くが「自我を消す≒身体の硬直を消す」なら一人カラオケで十分である。一人カラオケが完全にビシっと極まれば
「自我を消す≒身体の硬直を消す」ことは起きる。自我に苦しみ彷徨いカルトに嵌まりそうな人はまずは一人カラオケ。石の上にも三年。一人カラオケにも三年。
「自我そのものが一切の苦しみの根源である」と言われているのは自我そのものが身体を硬直させるからである。
つまり強い自我、弱い自我には「強い硬直」「弱い硬直」があるという事である。
硬直しているという事においては強い自我も弱い自我も同じ硬直した自我である。自我が強いか弱いかはその時々の環境や状況に左右される。
「わたし」は強い時もあれば弱い時もある、というのが真相で、強さ弱さはその人の本質ではない。
大切な事は「わたし=自我」が強い時も弱いときも「ゆるんでいる」ようにするということである。
強い時も弱い時も「ゆるい自我」であることが肝要。硬直すればゆるむ、硬直すればゆるむ、
そんな波のような自我であれば神秘体験などなくとも生きることそのものが神秘に開かれる。
身体をゆるめることは自我をゆるめることだということを意識していると同じ身体を弛めるにしてもその過程や効き目は変わってくる。
自我をゆるめるために身体をゆるめてみればいい。知覚が変わるだろう。それは小さくやさしい神秘体験であり、小さな悟りでもある。