【共生。分断を共に生きること。】

共生。共に生きる。本来、共に生きるなんてわざわざ口に出して言う必要もないほどに当然のことなのに、わざわざ「共生」と言わなければならないのは、現実にはそこに「分断」があるからでしょう。 共生。とりわけ「多文化共生」というのは誰が言いだしたんだろう。少なくとも民草から自生したことばではない。「かしこ」が作ったことばやろな。いや、ええんやで、多文化共生。必要なことばやとおれも思ってるから。多文化共生やらなんやらの前提として、非暴力、対話で解決、人権尊重、…という基本的な「構え」がいる。構えというか、これは「所作」といってもいいと思う。
共生。もまた「所作」である。だからこの所作はどこかで習得する機会がなければ「身につかない」。生まれ育った家庭環境、地域の環境、小学校、中学校、高校や大学に進学できたか、できなかったかで、「共生」の所作が身につくかどうかは決まる。
共生。には話し合いが必要不可欠。だけど、その必要不可欠な話し合いのやり方を学べなかった人もいる。自分の感情を暴力でしか表現できない人もいる。いくら人権尊重と言われても、自身が大切にされない環境で育った人ならば、人権ということばは「身につかない」
共生。とりわけ「多文化共生」を謳う人たちは、話し合いで解決しましょう、暴力は許されないというけれど、その非暴力の「所作」すら身に着けることができなかった人たちがいるということを想像すらできない。もうすでにそこに「分断」があることを知覚できない。そうやって「共生の所作」を身に着けることができなかった、社会の底辺の人たちは暴力的だという理由で「多文化共生」からは排除されてゆく。
共生。は「かしこ」じゃなければできない「高等技術」だということを「かしこ」の連中はわからない。高等教育。とりわけ大学に進学すること。これは一体どういう意味があるのか。それは社会に通用する「フォーマット」を身に着けるということである。「型」。実際に頭が良いとか悪いとかはあまり関係ない。中卒でも高卒でも、大卒よりも頭がいい人はたくさんいる。だけど、その頭の良さは社会には通用しにくい。なぜなら「フォーマット」が違うから。内容の良し悪しは関係なくフォーマットが違えば社会からは弾かれる。何をどうしても、中卒高卒には「身についていない」フォーマットがある。
共生。とりわけ「多文化共生」は、実はこの大卒のフォーマットが必要なように「設計」されている。だから話し合いができなければ「多文化共生社会」には参加できないし、暴力的な言動は即排除。即排除。即排除。即排除。世の中には「共生のフォーマット」を身に着けることができなかった人もいるということを、「かしこ」の連中は想像もできないし、そんな奴は「警察よぶぞ」のひとことでおしまい。「多文化共生フォーマット」が身についていない非大卒者は黙って「かしこ」の言いなりにならなければならないらしい。
共生。なんて息苦しい。共に生きるなんてあたりまえのことをわざわざ「多文化共生」なんて「かしこ」が言いだして、その地域にずっと住んでいた人間がその地域から排除されていく。その地域の外から来た「かしこ」が「多文化共生警察」となってその地域のもとからいた住人を静かに排除する。これ精神的な地上げやん。
共生。なんてことばが無かった時代の方が、この地域の人たちはキラキラしてたけどね。「多文化共生」という蛍光灯が、闇に光る星星をかき消してしまった。あやしい月あかりよりも、蛍光灯の方が安全で安心なんでしょう。「かしこ」のフォーマットが身にこびりついた人たちは。そうしてこの大地からは星も月も去った。
共生。は闇を嫌う。分断を無かったことにする。「わたし」と「あなた」は違う。こんなんあたりまえのことやん。だから共生、てのはその「分断」を共に生きることなんだとおれは思う。それは苦しい、痛ましい、悲しいことなんだよ。「わたし」と「あなた」との間にある「分断」の谷底にいっしょに降りていくこと。それがおれは共に生きるということだと思う。闇を嫌う者は他者と共に生きることなどできない。
共生。わざわざ共生なんて言わなければならないほど深い分断がそこにあることが「多文化共生フォーマット」を身に着けてしまった「かしこ」は認識できない。暴力はよくない、話し合いが大切。それはもちろんそう。おれもそうおもう。ただしそれはお互いがお互いの間にある「分断」をちきんと認識しているという前提があっての話。こちらが散々「分断がここにある」と何年も言い続けているのにそれを無視し続けてきたんだから、そら最後は「自力救済」を決行せざるをえんよ。
共生。さておれは、これから深い谷底に、腰かけて、火をつけて、闇から太陽を、引きずり出そう。

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