最近、ごくごく最近、おれはそれを「透明な病」と名付けた。この地域の一部にある病。
「透明な病」。地域住人を著しく傷つけるような表現や、被差別当事者を差別し傷つけるような表現活動をしている者がこの地域にいて、
おれはここ二、三年、ずっとそういう奴らに怒り狂って抗議してるんだけど、
おれがとても「気持ち悪い」なと思うのはそういう地域住人に対する侮辱や差別をふわっと許す空気があること。
しかも普段「多文化共生」だなんだと言ってるような人達がそれを許すこと。
そしてそれに抗議する側が「暴力的だ」と言って非難され、ゆるやかに排除されていくこと。
みんなとても「良い人」で悪い人はいない。そういう人たちが差別は許容する、侮辱はスルーする。
何かふわっとしたキラキラした透明な空気で。それはヘイトスピーチのように「目に見える」悪意や害意ではない。それは目に見えない透明な空気のような病。
結局おれは差別や侮辱に対して怒り抗議していたというよりも、この「透明な病」に対して怒っていたのだと思う。
怒っていたというよりも、ここに「透明な病」がある!と叫び続けていたのだ。「透明な病」に蝕まれている人は、まさか自分が「透明な病」にかかっているとは気が付かないだろう。
そして「透明な病」に叫び続けているような者は狂っているように見えるのだろう。そのような狂った者は「警察よぶぞ」の一言で弾圧し、被差別当事者を排除する。
「警察呼ぶぞ」のひとことが決定的だった。今までそれを「透明な病」と呼ぶことにためらいがあったのだが、その瞬間は決定的だった。
その瞬間、「警察よぶぞ」とおれに言ったおっさんの「顔」に世界のすべてが崩れ落ちてゆくのをおれは見た。
本当に、そのおっさんの「顔」に世界のすべてが崩れ落ちたのだ。おれはそれをこの目で見た。その瞬間おれはその病を「透明な病」と名付けた。
あのおっさんの「顔」は「透明な病」の中心にあってその中心に向かって今もなお世界は崩れ落ち続けている。今もなお、今もなお。
なぜこの地域に「透明な病」が発生したのか。その原因はいくつかあるのだがそれはさておき、とにかくおれはこの「透明な病」に罹りたくない。
良い人だけど人間性がない、個性はあるけど人間性がない、人間のはずなのに人間性がない。人間から人間を奪う病。それが「透明な病」。
世界が崩れ落ちることと、人間が人間でなくなることは同義なのだろう。なぜ世界が「顔」にむかって崩れ落ちたのか。
「顔」とはもしかして、世界を支えている柱のようなものかもしれない。その「顔≒柱」が崩れ落ちる時、世界そのものもそこに向かって崩れ落ちる。
「透明な病」に侵されている人はもうすでに世界が崩れ落ちて無くなった人たちなのかもしれない。
「透明な病」を生きる人は、すでに崩れ落ちた世界を生きる人たちなのかもしれない。
世界が崩れ落ちてなお生きるのだからそれはそれで大したもんだが、おれはそういう人とは「共生」はできないな。
おれにはこの世界があるから。この身体があるから。このこころがあるから。
「多文化共生」。このことばの是非はともかく、「多文化共生」とは世界がすでに崩れ落ちた後の世界のために用意されたことばなのかもしれない。
それはもう一度世界を再生させようという生き方ではなく、崩れ落ちた世界を崩れ落ちたまま生きる世界のことなのだろう。
虚無主義の亜種だともいえるけど、それはキラキラして清潔で明るい虚無だ。
お前らが「透明な病」を生きるのはいいが、「透明な病」がおれの世界を侵食してくるなら、おれは叫び続けるし、太陽を闇から引きずり出す。
太陽を崩れ落ちた世界の内臓から引きずり出して、もういちど喰らわせてやる。その「顔」に。