【無いが無い 在るが在る】

 自分自身の、あるいは他人の中のどろどろぐちゃぐちゃして、血まみれの、泥まみれの、腐臭を放つような何かに向き合い、時にはその中に入っていくことは苦しく痛みを伴うけれども、そのぐちゃぐちゃの中には宝物が隠されている。 宝物というのは、それが自分自身であるような何かのことである。そのような宝物と出会うにはどろどろぐちゃぐちゃの中に入っていかなければならない。 そしてその宝物と出会った時、どろどろぐちゃぐちゃにも意味と価値があったのだということを知るし、その時自分の人生を全体的に愛しめるようになる。
 
 最近、このどろどろぐちゃぐちゃは無いけれど、無色透明な人が増えたように感じる。どろどろぐちゃぐちゃに苦しんでいる人は、まさにこのどろどろぐちゃぐちゃが「在る」ことで苦しんでいる。 だけど無色透明な人というのは「無い」のだ。「無い」がゆえに苦しんでいる。そしてそのことを指摘することが難しい。
  
 どろどろぐちゃぐちゃの人には、ここにどろどろぐちゃぐちゃが「在る」と指摘しても実際「在る」のだからそれを認識できるし、その認識自体が宝物との出会いとの第一歩になる。 だけど、無色透明の「無い」人はどろどろぐちゃぐちゃが「無い」代わりに宝物も「無い」。何も「無い」。何も「無い」ことに苦しんでいるわけだが、その「無い」ことを明証したり認識してもらうことは難しい。 なんせ「無い」のだから。だからおれは「無い」ものに向かって「ここに「無い」が「在る」ぞ!!」と叫び続けることになるのだが、「無い」に向かって叫び続けるおれは狂ったように見えるしさぞかし怖いだろう。
  
 その「無い」人をおれは最近「透明な病」と名付けたのだが、でもこの人たちにももちろん「どろどろぐちゃぐちゃ」したものは「在る」。でも彼彼女らは、それを「無かったこと」にしたのだ。 「在る」ものを「無かったことにする」これが「透明な病」の正体で、見たくない、聞きたくない、触れたくない、向き合いたくないものは全て「無かったこと」にする。 そうしているうちについに自分のこころも身体も、自分自身も「無かったこと」になる。そして「無かったこと」にしたことすら「無かったこと」にしてるから、もうそれを認識すらできなくなってしまっている。 二重、三重、四重の「無い」。それが「透明な病」の苦しみである。もう本人は何に苦しんでいるのかすらわからないだろう。なんせ「無い」のだから。
  
 「無かったこと」にしたところで当然辻褄は合わなくなる。だから「透明な病」の人たちは次々と「他人」を「無かったこと」にしていく。だから「透明な病」の人たちには他者性がない。 自分と異なる他者は邪魔者でしかない。だからどんどん「在る」を「無かったこと」にしてゆく。
  
 おれは消されたくないし、無かったことにもされたくないので叫び続けることになる。ここに「無いが在る!」と。
だけどほんとは「無いが無い」とsuiteにささやくべきで、「無いが無い」というのはつまり「在る」ということだからだ。「無いが無い」と言ってしまえば彼彼女らは本当に消えてしまうかもしれないが。
 「在る」と「叫ぶ」ことは「在るが在る」と重ねるようなことで、こどもっぽいといえばこどもっぽい。「無い」につっかかっていってるわけだから。なのでおれもそろそろ「無いが無い」とささやく時が来たのかもしれない。 「無いが無い」によって「透明な病」が正真正銘の「無」として消失するのか、もしくはそれが「在る」に転じるのかは神のみぞ知る賭けのようかもしれないが、「在るものは在る」のだから「無いが無い」と言うしかないだろう。
  
20250518記す

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