親から過剰で不当なまでに特別扱いされて育ったこどもは、大人になっても周囲に過剰で不当な特別扱いを求める。
当然、そんなことをし続ければ周囲とは軋轢を起こすのだが、この手の人は成長の過程で周囲が自分を特別扱いするように周囲を上手にコントロールする術を身に着けているし、そうなるように戦略的に生きている。
そしてそのための努力を欠かさない。だが中にはそんな「不当要求」には応じず、その人を特別扱いすることを断固拒絶する人間もいる。
その場合、特別扱いされて育ったこどもは自らを拒絶する人間を激しく憎悪し、復讐のために攻撃してくるだろう。攻撃しない場合は無視して「無かったこと」にする。
その争いは周囲を巻き込み、その周辺の人間関係に甚大な被害をもたらすことになる。それでもその人は、自分が特別扱いされることをあきらめない。
そこで興味深いことは、なぜこの手の過剰で不当なまでに特別扱いされて育ったこどもは、そこまで特別扱いにこだわるのかということである。
実は彼彼女は「特別あつかいされたい」と欲望しているわけではない。「特別あつかいされなければならない」と義務のように感じている。
だからそれは周囲にとっては不当要求であっても本人にとっては自身の存在を賭けた「我が闘争」なのだ。
親から過剰な、しかも周囲に犠牲を強いるような特別扱いを受けたこどもは、当然それが自分の「存在様式」となる。
だから彼彼女にとって周囲に不当要求を突きつけることはそう「したい」のではなく、それが自分自身が存在するための「関わり方」だからそう「しなければならない」のである。
その関わり方や存在様式でしか、「わたし」が存在できないのだ。それが不当で不自然なのは本人が一番よく自覚している。
だから本人は常に被害者から反撃されることに怯えているし、「戦略」によって築いた人間関係は偽物であるということは本人が一番よく自覚しているから孤独だし、だけど止められない。
なぜなら今もなお親は絶対で、親が「わたし」を特別扱いするならそれを否定することは親を否定することであり、それはすなわち来歴の否定=「わたし」自身の否定になるからである。
と言う意味では非常に憐れむべき存在で、親から不当で過剰な特別扱いを受けたこどもは被虐待者であるといっても過言ではないだろう。
周囲に不当要求し続けることが「わたし」が存在する唯一の道でその道は破滅の道であることは本人が一番よくわかっている。
だけどその道を止めることは「わたし」自身の存在そのものが消滅してしまう。破滅か消失か。こんな人生はとてもつらい人生だと思うし、深く、深く同情する。
本人もどうしていいのかわからないんだろう。だけれども、おれはこの人を「こどもあつかい」するつもりはないし、周囲を傷つけ、無関係のたくさんの人の精神を蝕んだことに対して大人としての責任をとってもらう。
「我が闘争」の破滅か「わたしを断念」の消滅か、選べばいい。
おれは、「わたし」にとっての「あなた」で在り続ける。
どの道もう、おまえの「わたし」は消える。破滅でも、消滅でも。
おれは、「わたし」にとっての「あなた」で在り続ける。
だから安心して破滅でも消滅でもすればいい。
おまえの「わたし」が消えたとて、「あなた」であるおれは在り続ける。
「あなた」がある限り、再び「わたし」は再生し、新生するだろう。
だからどうかやすらかに、その我が闘争を終えてください。
20250525記す