その場かぎりのカタルシスでしかないものをセラピーと称する者は詐欺師である。この技法をやれば救われますなんていう奴も詐欺師である。
人間が救われることはない。だが、その救いのなさを、それでも生きるんだという覚悟があるならその覚悟のことを救いということはできるかもしれない。
たとえ「わたし」が悟ったとて、「わたし」が救われたとて、その後の人生で怒りや悲しみや苦しみや痛みや傷がなくなるわけではない。それは生きる限り続く。
怒りを現すこと。悲しみを愛しむこと。苦しみを聞くこと。痛みを叶えること。傷を生きること。
その都度その都度、自分を救うということが起きるだけで、時には救われない時だってある。
これをやったから救われるだなんてのはあまりにも人間を舐めすぎている。人間は広大無辺。
人類が過去何百万年と生きてきて、それでもまだ生きつくせないのが人間であって、「わたし」もまたその人間である限り、生きつくすことができないこの人間を生きる限り、
救われることはないしそれでいいのだ。
わたしはこれで救われました、としたり顔で苦しむ人の頭の上に蜘蛛の糸をぶらさげるような奴をおれは心底軽蔑する。
そんな奴は「わたし」を生きていていも人間を生きていない。「わたし」が救われたとて、人間が救われなければ意味が無い。
人間が救われるのは「わたし」が怒り悲しみ苦しみ痛み傷つき愛するからだ。
怒れ、悲しめ、苦しめ、痛め、傷つけ、愛せ。「わたし」は何度だってこの人間のなかで再生するのだから。だから安心して怒れ悲しめ苦しめ痛め傷つけ愛せ。それが人間の救いだ。
新月直前やな。くるしい。くるしい、狂るおしい。
20250528記す