【スピリチュアル+マーケティング=「わたしファースト」の危うさ】

 所謂、精神世界やスピリチュアルというジャンルが世間一般から見て荒唐無稽なものであっても、それもまた近代が疎外した人間性を回復するためのひとつの道や試みであることは確かである。 だけど、スピリチュアルにマーケティングのテクニックが合わさると危険極まりないことになる。これは自己啓発にも言えることだけど。スピリチュアル+マーケティングの悪魔合体を仮に「スピマ」と呼ぶ。 「わたしらしさ」を大切にする割にはスピマの書く文章は金太郎飴のように同じ文章に「見える」。それは当然で、みながみな同じようなマーケティングのテクニックにそって文章をかくのだから文体が同じになる。 個性というのは文章の内容よりはその文体に現れるので、スピマにハマった人は型にハマって途端につまらない人間になっていく。ハマったというかハメられているのだが。
   
 本来精神世界やスピリチュアルというジャンルは型にハメられることから自由になることや疎外された人間性の回復を目的としていたのではないのか。 それが社会的には荒唐無稽なものであったとしても。だけど「スピマ」は逆で、スピ商品を売るためにマーケティングというテクニックで他人をハメて、自分自身をもその型にハメて、自ら人間以下の存在に成り下がっていく。 そして他者の人間性をも腐敗させ、社会そのものを腐らせてゆく。
  
「スピマ」の根本はナルシシズムの無制限の全肯定、「わたしファースト」である。「わたし」を大切にすること、愛すること、慈しむことはそれは大切なことだろう。 だがスピマはマーケティングのテクニックでそれにブーストをかけて「無制限に肯定」する。それが、人間関係をむちゃくちゃにし、他者を傷つけ、他者の財産や時間を奪うことになろうとも、スピマは「わたしファースト」だ。 「わたしファースト」であるスピマのコミュニケーションには他者性が無い。だらか話が通じない。
   
 「わたしファースト」というカタハメテクニックはいよいよ「日本ファースト」にまで肥大化した。 それがいくら差別的で、排外主義的だと指摘されても「わたし」はそのナルシシズムを無制限に全肯定してくれるものには弱い。 外国人の事なんて配慮しなくていいんだ、むしろ自分たちは被害者なんだ、わたしたちはわたしたちを愛したいだけなのにそれの何が悪いの?わたしたちのナルシシズムに制限をかけてくるものは敵だ!
  
 国家という大きい集団でも、誰も知らないアンダーグラウンドな小さな集団でも、「わたしたち」のナルシシズムを無制限に全肯定するような集団はカルト化し、カルト化した集団は必ず崩壊する。 しかも周囲の無関係な人たちを巻き込んで。
  
 スピリチュアルも精神世界もそれは社会的に荒唐無稽なものであっても、近代が疎外した人間性を回復するためのひとつの試みや道のひとつである。 だけど、「スピマ」はちがう。スピマは破滅への道だ。おれはマーケティングのテクニックを使っているスピやコーチングや自己啓発その周辺の人間とは関わらない。 その肥大したナルシシズムの崩壊に巻き込まれたくないからだ。
  
「日本ファースト」を謳うその政党の主張は排外主義に力点が置かれているわけではなく、ナルシシズムの無制限な全肯定に力点が置かれている。 だからこそ普通の日本人に支持されているのだろう。これは甘い、甘い、甘い、甘い、甘ああああああああああああああい誘惑だ。 これは突き詰めれば外国人に限らず、「他者なんてどこにもいない、他者のことなんて、考えなくていいんだ」という誘惑だからである。 他者のいない社会。それが実現する時、もう「わたし」すらそこには存在しないだろう。

  

20250717記す

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