詩と詩人

この社会は詩を笑いものにする惨めな社会になってしまったが、 真相は逆で社会はすでに詩に見捨てられたが故に惨めな社会になってしまっている。 人間ごときに詩を捨てる事ができるほどの力はない。人間は詩に捨てられるか、 蹂躙されるか、付き従うかしかない。それが嫌なら人間は詩になるしかない。 大人になったらば次は詩になるのだ。 詩だけが詩を愛し殺し交わることができる。 詩になるのが嫌なら星になればいい。
反知性というがそれは論理性の欠如ではなく詩の排除がもたらしたものだ。 詩に論理性は無いように見えるが詩は絶対に筋を通す。筋を通さなければ論理もへったくれもない。 詩は論理の前提に在るものだ。筋とは運命の事であり、死だ。 書き言葉は詩にとっては妥協でしかない。人間にとっては追い縋り付く糸のようなものだが。 とはいえ、詩ですら妥協にすぎない。 詩は足跡のようなもので、足跡の主を追いかける手がかりのようなものだ。 だから詩を書く事に拘泥するのは物質主義と変わらない。 尤も、詩は物質主義者を愛しているのだが。ただ、物質主義者は詩に愛されている事に永遠に気が付かない。詩人だけがその事に嫉妬し、歯ぎしりている。 詩人はその歯ぎしりを詩だと勘違いしているがそれは詩ではなく歯ぎしりだ。物質主義者の前に詩人が滅ぶべきで、なぜなら詩人は詩にとってのインケツでしかないからだ。 詩人だけは詩から愛されない。 詩人には同語反復を生きる勇気と気合が無い。それが詩人が詩から嫌われる理由の一つだ。つまり詩人を自称するような輩は敗北を前提とした闘いを演じているだけなのだ。 同語反復を生きる時、足跡の主に追いつくのだから。 詩は、同語反復へ至る筋でしかない。 詩は「わたし」のアイデンティティになりうるような何かでは断じて無い。だから自称詩人は人間にとっては詐欺師であり詩にとってはインケツでしかない。 詩人のいるところに詩は存在できない。詩人が増えたが故にこの社会は詩から見捨てられたのだ。 詩人こそが詩をおもちゃにしている。詩人こそが詩をゴミ箱にしている。ならば詩人は詩に嫌われて当然。 詩人はろうそくに火を灯すが如く自らの頭に火を着けろ。それが詩人にできる同語反復への第一歩だ。 詩は、生き生きと死んでいる。