アイデンティティは軽い方がいい。それを人格といっても自我といってもいいが、とかく「わたし」は軽いほうがいい。
重い「わたし」は身体に悪い。「わたし」が重いと身体は固く脆くなり、やがて病いとなる。
「わたし」とはその人だけの身体の硬直のことである。その硬直が過ぎれば病となるのは必然である。
特に身体表現をするとき「わたし」は邪魔になる。「わたし」が落ちた時、身体そのものが顕現する。
でも個性という言い方をするならば、「わたし」が落ちたその身体そのものが本物の個性なのだ。
だけど「わたし」を落としたモードで日常生活を過ごすことはできない。「わたし」という人格が無ければ「あなた」とは関わることはできないからだ。
だから「わたし」はオン/オフ自在にできるのが理想であって、どちらかに偏りすぎるのもまた病的なことになる。
マイノリティや不条理な事故や事件の被害者になった者は当然その「わたし」は重くなる。
加害者を許すことができるなら楽になるのはわかっているが、なかなかそれは簡単なことではない。
だけどそれを一時、例えば表現の場において「わたし」を「落す」ことはできる。
軽い「わたし」を落とすことも、重い「わたし」を落とすことも「わたし」を落とすという結果は同じなのだが、やはりその落下に発生するエネルギーの量は違う。
それもまた個性だしそれは表現の派手さやエネルギーの強さとして現れる。だから重い「わたし」だからといってそれを「落す」ことができないわけではない。
むしろ質量がはっきりしている分、「落し」やすい。
また、「わたし」が重くても身体の中心線がゆるゆると通っていれば病的な硬直は起こさない、が一度バランスが崩れると一気に病んでしまう。
やはり日常をきもちよく過ごすには「わたし」は軽い方がいい。
だけど結局は何度も何度も「わたし」を落とすという体験の中で少しずつ「わたし」は軽くなっていくので、表現だけではなく、いろんなやり方で「わたし」を落としていくしかない。
ただし、「わたし」を落とすその場所は、足元の直下、身体の中心線の真下の深くに落とさなければならない。「憑き物」が落ちる時は必ず真下に落ちるのだ。
20250806記す
