おれは「わたし」の話をするのが好きではない。例えばこどものころ酔っぱらった父親に殴られた、みたいな「わたし」の物語をしたとして、
親がこどもに暴力を振るうのは虐待であることは確かだが、父親には父親のそれ相応の理由やそうせざるをえない運命のようなものがあって、父親にも言い分=物語はある。
こどもである「わたし」の物語と父親の物語とが一致することはない。こどもの物語だけが語られる時、父親の物語は「塗りつぶされ」「無かったこと」にされる。
それを傍観していた母親にも言い分=物語はあって、その物語も塗りつぶされる。
その事象に関わる関係者が反論できない状況でひとりの物語が一方的に語られるならそれは暴力だ。
そしてそれは「政治」なのだ。だからといって物語るなというわけではない。物語らざるをえない時もある。
だけど、物語る者は常に罪を犯しているということを、そこに居ない誰かを踏みにじり塗りつぶしているのだということを自覚しておかなければならない。
「わたし」が物語る時、その物語は政治的な営為となる。それは権力闘争としての「語り」であり、それは自分の都合のいいように世界を「書き換えてしまう」営為だ。
「語り」が「語り」を「語る」時だけが、沈黙が破られるべき「時」である。
さて最近、平山はとある必然的な理由から「物語っている」が、それが単なる「わたし」の物語なのか、それとも「語り」が「語り」を「語る」時の開示なのか。
それは「時」のみぞしる。
もしおれが今書いている「物語」が単なる「わたし」の政治闘争ならば、おれは死者たちから罰せられるだろう。それはもうおれにもわからない。わからないけど、書くしかない。
ただこの「物語」が「時」の開示であることを信じて、おれは物語る。
この大地に流れる血の音に耳をすませて
20250807記す
