おれがこどものころの東九条は、狂った人が多かった。だけど病んだ人はいなかった。今現在の東九条は狂っている人はいない。だけど病んだ人は多い。
病になりたくなくて、正気を保ちたくて、人は狂う。病んでしまうくらいなら、狂ってしまうほうがましだ。だけどもちろん、狂わず正気で元気でいられる方がいい。
おれの祖母は…、いや、ババアはいつも叫んでいた。一日中、常に独語がとまらず、何かの拍子に急に叫びだし、叫びだすと止まらない。
テレビは常に音量最大の爆音。夜はテレビ付けっぱなしで眠り、夜中全ての番組が終わるとテレビからは爆音のホワイトノイズがずっと流れている。
怒り悲しみ恨み痛みのこもった衝動、爆音を発しながら生きている人だった。おれの両親も、家族もみんな祖母には手を焼いていた。
おれにとっては毎日が天災のようなもので、いつこの家は崩壊するのだろうかと毎日不安なだった。
近所のババアも同じようなもので、特におれが住んでいる宇賀辺町の一角は天災級のババアたちがひしめき合っていた。
みんな狂っていたし、みんな叫んでいたし、みんな笑っていた。
おれはババアたちに畏れを抱きながらも、朝鮮のババアたちがみんなで集まって半分日本語半分朝鮮語の意味不明のことばで話ながら大声で笑うところを見るのが大好きだった。
朝鮮のババアたちが笑う時、世界そのものが笑っているように感じる。
あれは下品で下劣な神話の世界だった。天災ババアがいる家庭はみんな大変だったと思うし、どの家庭もその後だいたい崩壊した。なんせ天災だから。
そんなババアたちもみんな死んで、ババアの末裔たるおれが残った。
おれのババアはとあるカルト宗教にハマり、それからは叫び狂うことはましになったが、大声でけったいなお経を唱え、
気持ち悪いお札を家中の部屋に張り、地縛霊を清める為と言われては多額の金をつっこみ、先祖を供養するためと言われれば金をつっこみ、
信者を何人集めればランクが上がるだの霊能者になれるだのという言葉を信じて布教活動に血道をあげていた。
おれも父も母も入信はしなかった。ただ一緒に住んでいる身内がカルトだというのは経済的にも精神的にも被害は大きい。
ババアが死んだ。その半年くらい前に作ったババアの絵を描いたシャツを着て葬式に出た。
ネクタイ締めて喪服なんて来たら、あのババアをあの世に送り出すことはできない。
遺品整理をしていたら、そのカルト宗教の教科書?のようなものにババアがたくさん漢字にふりがな振って、書き込みをしているものやノートがあった。
一心不乱に信心したババアの痕跡がそこにあった。
ババアの場合は二世になるが、在日の一世、や二世はみんなことばに飢えていた。
この苦しみ、悲しみ、惨めさ、痛み、…それをことばで表すことが、うまく伝えることができない人たちが多かった。
だからそれがカルトといえど、その衝動や痛みに何かことばを与えてくれるものにハマってしまうのはわかる。
もし、ババアがカルトに嵌っていなかったら、もしかしたら誰かを殺していたかもしれない。それだけ狂っていて危うい人だった。
おれ自身が、本によって救われ続けてきたから、ことばによって人が正気でいられること、ことばによって病気から回復すること、
ことばによって狂気が祝祭に転ずることを身をもってしっている。
だけどおれは文字を読むための教育を受けることができた幸運な世代なのだ。
漢字はおろかひらがなすら読めない、本すら読むことのできないババアの世代にとっては自身の狂気をどうにかすることばが無いわけで、
そんな人は必然、叫ぶか沈黙するか破壊するしかなくなる。
この社会でことばを持たずに生きるということは、無念を生きるということだ。
誰にも理解されず、疎ましがられ、静かに排除され黙殺される。無念、だっただろうと思う。
だからおれは余計に、ことばをいい加減に使って東九条で活動するアカデミアやアーティストに嫌悪感をもつ。
ことばを持つことが出来なかった、狂わざるをえなかった人たちが生きた東九条について適当なことを言って書いて活動して助成金もらって自分の実績つくりをして去っていく。
こんな醜悪な話はないだろう。東九条の地域の人間は沈黙せざるをえないのに、その沈黙をいいことに、好き勝手なことを言って自分たちの都合のいい物語でこの大地を上書きしてゆく。
沈黙せざるをえない無念を抱えて生きる人を踏み台にして、自分たちは報われていく。おぞましいことこの上ない。
おれ自身は本も読むし、文章も書くし、なんとか自分の想いや感情、感覚を伝えることができる。
だけど、やっぱりおれはことばを持つことができなかった者たちの末裔であり、おれのことばの根本は叫びであり、沈黙である。
だけどその叫びや沈黙は社会では許容されない。叫びはもはや暴力であり、沈黙する者は存在しないも同然なのだ。
多文化共生もまた叫びも沈黙も許容しない。あくまで、この多文化共生の理念や理想に同化するものだけがその輪の中に入ることができる。
もちろん、暴力を許容しないということは当然だと思う。だけど、この社会は、暴力といっしょに狂気も排除してしまった、沈黙の声を聞くことができなくなった。
それこそが病気の原因だというのに。
正気を保つための狂気は多文化共生に排除され、正気で在るための沈黙は多文化共生ということばで上塗りされる。
もはや正気の者は東九条にはいない。正気の代りに多文化共生ということばが踊っているだけだ。
くりかえすが、多文化共生が悪いわけではない。だけど、東九条の多文化共生には人間が人間であるための、大切な何かが欠けている。
続く
2025年8月9日