「わたし」と「あなた=他者」と関わるとき、互いの年齢、性別、国籍、民族、属性という違いを尊重しながらも、
同じ人間なんだということで分断を乗り越える横方向の関わり方がある一方、社会的階層や階級が現実には存在し、
その同じ人間のはずなのに絶対に乗り越えることが出来ない断絶があるということの関わり方がある。
そしてこの「同じ人間だから乗り越えらえる」という横水平方向と、「同じ人間なのに乗り越えられない」という垂直方向は両立する。
この矛盾は二つで一つの「全て」だ。だが共生や多文化共生ということばはこの垂直方向の人間関係を無かったことにする。
それは違う。乗り越えられない階層や階級があるということの深い悲しみ、
生まれ育ちですべてが決まってしまうということの痛みをちゃんと感じるからこそ水平方向の「同じ人間だから乗り越えらえる」という想いをもつことができる。
それは理念や理想じゃない。願いなんだ。
おれは階層が上とか下とかに限らず、その悲しみを生きてる奴が好きだし、その悲しみを感じることが出来る奴が好きなんだ。
それは運命を呪いながらも宇宙を愛している奴だ。
痛みや悲しみの無い、無痛の「多文化共生」はまやかしに過ぎない。
分かり合えないこと、感じ合えないことにもっと悲しめよ、と思う。もっとちゃんと絶望しろよと思う。
なにが共感だよ。共感なんていらないんだよ。キラキラしてるだけでね、悲しみがないんだよ。どいつもこいつも。
悲しめ悲しめ。
悲しんでいるのは「わたし」じゃない、生命だ。
ふざけんなよ
20250819記す