最近自分が住んでいる地域のことや自分自身の事を書いている。「わたし」のことを書くという営為は「わたし」を「かたち」にはめて、固めるという作用がある。
「わたし」が凝固すれば当然身体も固くなる。なので、身体的には苦しい。だからおれはそもそも「わたし」のことを書きたくないのだ。
端的にそれは身体にとっては良くないからである。
実際最近首に軽い痛みがあり、これは身体的には黄信号である。で、首は硬直してるのだが、肩と肩甲骨はズルズルに緩んでいる。
身体の一部が極端に固く、他の部分が極端に緩んでいる状態は病的な状態に近い。
異様なエネルギーのものを書いていると必然そのような身体になってしまうのだが、
この状態が行き過ぎれば本当に怪我をするか、病気になるか、事故に合うので、
「わたし」を書くという凝固させる事と同時に身体的にはその硬直を解いていくという矛盾したことを同時に進めていかなければならない。
だがこれもまた身体の修行だと思えば興味深く痛みを見つめ感じることができる。
首の痛みは今しがた解消したのでもういいのだが、書く、もしくは描くという営為は静止している分、激しいダンスやスポーツよりも難しいところがある。
書きながら、頭の位置が数センチかずれるだけで天国と地獄の差が出る。
最近批判的、否定的な内容のことを書いているので地獄にひきずられてしまいがちであるが、批判的、否定的なことを書いても人を憎しまない、これに尽きる。
憎しみは身体に悪い。この世が天国なのか地獄なのかは身体の数センチが決めているのだから、人生は自分次第ではなく、身体次第なのだ。ほんとうに。
こういうハードな状況の時にこそ、即興表現をやっていてよかったと思う。
自分の場合は、だけど、即興中は絶えざる間合いの調整の連続だからだ。おれの場合は即興表現中はそれしかやっていない。
厳しい状況でも間合いさえつぶれていないのであれば、調整は可能だ。間合いを調整するということは身体を調整しているわけで、これは書くことも同じ。
だけど書くことと言っても、詩や論理とは違って、「わたし」の事を書くという凝固的な方向性は「間合いの微調整」という即興表現とは異なる営為である。
「わたし」のことを書くというのはある意味、間合いをつぶしに行っているわけだから。
だから読んでる方も苦しい。だからこの二つを同時にやるという事は、固めながらゆるめ、固めながらゆるめ、固めながらゆるめ、という変則的な営為になるのだが、
うまくできればリズムのようなものが生まれるかもしれない。失敗すれば病的な痙攣になるのだが。
今書いていることは多少身体を壊しても、損をしても、それでもどうしても書かざるをえないので書いているのだけれども、
そういうこととは別の、身体という次元においては修行というか新たな挑戦としてやっている。
自身の健康や幸せだけを考えれば、自分が苦しくなるようなことは書かない方がいいし、嫌なものとはすっぱり関係を断ち切った方が絶対にいいのだけど、
人生というのは自分の幸せだけを考えてたってつまらんしね。
この試みが新たなリズムを生むのか、病的な痙攣で終わるのか、それは身体のみぞ知る…
20250821記す