【連載】 『東九条、死者無き多文化共生の行方≪8≫』

東九条とは誰なのか、何なのか? その3 

「東九条マダン  その「自己像=他者象」の変容 民衆文化運動から多文化共生へ その③」

  
  
「問題は内容だとうそぶいてばかりはいられなくなってきた。形式が内容に暴力をふるっているのだ。」
  
「みずからの文化を創り出す 梁民基記録集」 p117 より引用。
  
 東九条という地域に「民衆」は存在しない。正確に言えば、自分が「民衆」だと自覚して生活している地域住人はいないというべきか。 例えば平山にしても、平山の家族にしても、平山が知る限りの東九条の地域住人で、自分が「民衆」だと自覚して生活している者は皆無だろう。 せいぜい「市民」とか「国民」ではないだろうか。「民衆」は初めから自然に「民衆」であったわけではなく、「民衆」とは自分は「民衆」だと自覚してそうなるものなのだ。
  
 前回の連載で書いたように、例えば韓国での「民衆」ということばは民主化運動における連帯の意味を込めての「民衆」であったり、 また「民衆」という「像」から韓国人というアイデンティティを浮かび上がらせそれを自らのものにしていくためのことばでもあった。
   
 代々、東九条に生まれ育った地元の人間が「わたしは民衆なのだ」と自覚する必要も必然性もそこにはない。 日々の生活に必死な東九条の地域住人は「民衆」という「物語」を必要としないからである。 「民衆」、それは東九条の外から来た「二階」の集団が「マダン劇運動」や「東九条マダン」という 「民衆文化運動」をするにあたって参加者が自らが「わたしは民衆なのだ」と自覚する必要があるからこその「民衆」ということばである。 在日も、日本人もみんなでひとつの「まつり」をするための連帯のためのことばが「民衆」であって、そのための「民衆文化」である。 そのような「民衆文化」に東九条に代々住んでいる在日韓国朝鮮人は「現実味」を感じない。
   
 同じ在日だけど、根本的に何かが違うことをやっている。でもそれは良い悪いではなく、「一階」と「二階」とでは抱えている問題が違うのだ。 「一階」と「二階」では必要とされる「物語」が違うのだ。 だが東九条の「一階」の地域住人であれ、「東九条マダン」という「物語」が自分の人生に必要ならば参加するだろうし、その「物語」が必要ないなら参加しないだろう。 だが「物語」は「物語」であって、それは現実ではないし事実でもない。「物語」と現実とを混同してはいけない。
   
 韓国では「独裁政権」という共通の敵があったからこそエリート層も最下層の人間も同じ「民衆」として連帯できたのだろう。 だけど、東九条では「民衆」ということばは「階級」や「階層」を越えた「垂直方向」で連帯できる理由や力を持ちえなかった。 東九条マダンは在日や日本人や、障害者や、被差別部落、といった「水平方向」の連帯を実現することはできた。確かにそれはすごいことだ。 だが、東九条マダンは「階級」の分断を乗り越え地域住人と連帯することはできなかった。 「民衆」であるにもかかわらず。だからこの「民衆」という言葉は東九条において空回りする。
   
 そしてこの東九条地域で「空回りしている民衆文化運動」が東九条マダンの外の者から「多文化共生のまつり」と呼ばれ出すことになるのである。 「水平方向」の連帯の実現を見た行政やマスコミや教育関係者は東九条マダンを「多文化共生のまつり」と呼び出す。 そして東九条マダンは「多文化共生」の成功例として教科書にまで記載されることになる。
   
 つまり「空回りしている民衆文化運動」が「多文化共生のまつり」という「他者象」を結んだのだ。 それが当人にとって意図しないものであったとしてもこの「他者象」がやがて「自己像」を規定してゆく。
   
 東九条マダンは「民衆文化運動」であっても「多文化共生」を自称しては来なかった。 そして昔の東九条マダンの資料を読むと、東九条マダンでは「多文化共生ということばを安易に使うべきではない」という議論がなされてもいる。 だがある時期から東九条マダンは「多文化共生」ということばを使いだすようになる。 確実にこの出来事が原因になったと断定はでき無いが、東九条マダン実行委員長であった朴実氏が2009年に「多文化共生のまちづくりをめざす」CANフォーラムを設立したこと、 そして希望の家が2011年に京都市の多文化共生事業を請け負ったことなどは無関係では無いと、平山は推測する。 京都市の多文化共生施策が東九条地域で本格化したことと、それにより「狭域の東九条」が明確に「多文化共生エリア」となったこと。 その変化に東九条マダンも影響されるわけで、東九条の「多文化共生エリア」と人間関係が重複する東九条マダンもその影響は当然受ける。 そして東九条マダン自身も、行政やマスコミやアカデミアに「多文化共生のまつり」と呼ばれてもそう呼称されることを否定はしてこなかった。 東九条マダンは2024年度国際交流基金地球市民賞を受賞した際の受賞団体からの活動紹介・メッセージ  https://www.jpf.go.jp/j/about/citizen/winner/2024/chiiki24.html において
   
「私たちが目指すのは、人と人とを隔てる様々な障壁を、あらゆる違いを超えて手を携え、共に乗り越えた姿をたった一日だけでも確かに実現し、明日への希望を灯す、そのようなまつりです。 それを一年通して創り続ける実行委員会は、自立した個々人がぶつかり合いながら、多文化共生という価値観を育む器たらんと活動しています。」
   
と自ら宣言しているのだから、もう東九条マダンは明確に「多文化共生のまつり」になったのだと言ってもいいだろう。
 もちろん、東九条マダンが「多文化共生のまつり」であることはよいのだ。 だが問題はやはり同じで「多文化共生」ということばが現実にある「階級」や「階層」を見えなくさせてしまうことである。 そして「民衆文化運動」ということばや思想がわずかに残していた「垂直方向性」を完全に消してしまうことになる。 「多文化共生」には「民衆文化運動」がもっていた支配者層への「抵抗」や抑圧からの「解放」という意味や感覚はもはや無い。 それも時代の流れだと言えばそうなのかもしれないが、東九条マダンの「物語」が変わったのだ。 あたりまえだが、梁民基氏の資料のどこを読んでも多文化共生なんてことばは出てこない。
   
 これから東九条マダンは「民衆」による「民衆」のための「まつり」ではなくなり、「多文化共生」による「多文化共生」のための「まつり」となっていくだろう。 そこには「民衆」はおろか「人間」すら存在しない。そこには「多文化共生」という「非暴力の形式」だけがあり、その「非暴力の形式」を順守できない者は隠然と排除されるだろう。 ならば「東九条マダン」という名称は改め「京都多文化共生なかよしまつり」に改名すればよいとおれは思う。 「多文化共生のまつり」となることで東九条の「その他の地域」からますます乖離した東九条マダンはもはや、東九条でもなければ、マダンでもなければ、まつりですらなくなる。 実態に即した名前にするならおれは何の文句も無い。名は体を表す。名と体が乖離しているなら誰にとっても良い結果をもたらさないだろう。
   
 ここまでいろいろ書いたが、だからといって東九条マダンが悪いだとか、ダメなのだと言いたいわけではない。 はっきりと明言しておくが、東九条マダンはこれからも東九条に必要な「まつり」であるし、東九条マダンがこの東九条という地域に良い影響を及ぼしてきたことは事実である。 それは平山が5年ほど実際に運営側として参加してきた経験からもそう断言できる。 そして東九条マダン自体は民主的に運営されているし、個々にいろんな考えがあれど「だれもが参加できるまつり」という事において、全員徹底的に一致している。 「一年にたった1日であっても、人々が対等に出会い認め合う場をつくる」ということに嘘偽りなく本気で取り組んでいる。その営為を30数年続けてきたことに平山は驚嘆し、敬意をもっている。
   
 だけど、じゃあなぜ平山がこんなけったいな文章を書くのかと言えば、東九条マダン周辺で異様なことが起き続けているからである。 東九条マダンに関わる複数の人間が、多文化共生エリアにおいて、東九条地域住人や在日韓国朝鮮人を著しく侮辱し、差別するような活動をしているからである。 そしてそのことを「多文化共生エリア」の集団が許容しているからである。勿論それは東九条マダンの中では起きてない。 だけど何故東九条地域でそんなことが起きるのかを考えるに当たって、東九条マダンとは何なのかということを深く考える必要がある。 「民衆文化運動のまつり」が「多文化共生のまつり」にいつのまにか変わったこと、時代にに合わせて変わらざるをえなかったこと。 これは東九条マダンそのものの「自己像」にも関わる問題である。かつて「民衆」を自認したその人は、「多文化共生」を自認することで現在何になったのだろうか?東九条マダンとは誰なのだろうか?
   
 東九条マダンの自己像の変化は、東九条の多文化共生エリアの自己像の変化でもある。 東九条の「多文化共生エリア」だって初めから「多文化共生エリア」だったわけではない。 数十年の年月の経過の中で「多文化共生」という「自己像=他者象」を結んできたのだ。 自己像はそのまま「他者象」を形成する。この連載でずっと指摘している通り、東九条の多文化共生エリアの問題は、「二階」の集団が「一階」の住人を「認識」できないことである。 つまり「二階」の集団にとって「一階」の住人は「他者」ですらないのだ。この他者性の無さ。そして他者性が無いということはつまり、他者を理解するための「世界観」が無いということである。
   
 「二階の集団」が「民衆」を自認するがゆえに、「一階の」住人が見えなくなってしまった。 最初期は、社会の底辺層に対するまなざしを持ち続けた梁民基さんのような方がいたとしても、結果的に東九条で行われた「民衆文化運動」は「一階の住人」を含むような世界観を形成できなかったのだ。 東九条マダンは「みんなのまつり」としては成功したが、思想的には敗北した。
   
 東九条地域において展開された「民衆文化運動」は敗北した。だが、死んではいない、とおれは信じている。
   
 であるがゆえに、かつては「民衆」という自己像を結んでいた東九条マダンが、「多文化共生」という自己像を結ぶことは、 どのような「他者」像を結ぶのかということをしっかり見定めなければならないのだ。 そして東九条の「多文化共生」がどのような「世界観」を形成するのか、つまりどのような「他者理解」の仕方を形成するのかを見定めなければならない。
   
 少なくとも、現時点で、東九条宇賀辺町の「一階」の地域住人である平山は、「多文化共生エリア」にとっての「他者」ですらないし、東九条マダンにとっての「他者」でも無くなりつつある。 互いの関係において、自己も他者も像を結ばないような関係になりつつある。それはお互いに否定し合う関係ですらないということだ。
  
それが良いとか悪いとかではない。これは一体なぜなのか、どういうことが起きているのかということを感じて考えなければならない。
  
 東九条の「多文化共生エリア」に属する者や集団が、東九条地域住人を著しく侮辱し、差別するような内容の活動をしている。 そして周辺の者はそれを咎めない。なぜこんなことが起きるのか。それは「他者象」が形成されてないからである。 「多文化共生エリア」の者にとって東九条の「一階」の「その他の地域」の住人は「他者」ですらない。 「他者」ですらないから、侮辱し、差別したとてそれを「認識」すらできないという現象が起きている。 だから、おれは代々東九条に住む在日韓国朝鮮人として、東九条マダンの「自己像=他者象」の変化を興味をもって注視している。
  
 多文化共生とはけったいなことばで、このことばは広く乱用されていると感じる。多文化共生とはそもそも行政の施策の用語だろう。 それに地域によって「多文化共生」の受容のされ方も異なっている。このことばは理想やスローガンのようにも使われるし、「思想」のような影響すらももっている。 そしてそれは「思想」的な力をもつがゆえに、排外主義者からは目の敵にすらされている。はっきり言って、よくわからんことばである。
   
 このよくわからんことばを東九条マダンが自認する時、東九条マダンは、東九条でもなければ、マダンでもなければ、「まつり」でもなくなってしまうのではなかろうか。 「民衆文化運動」は「民衆」の「まつり」である。では「多文化共生」は一体「誰」の「まつり」なのだろうか?市民?国民?多文化共生民??少なくともそれは「民衆」ではない。
   
 もはや東九条マダンからは「民衆」すら消え去った。「民衆」という、一つの精神が消え去った。 東九条マダンは多文化共生を他称され、多文化共生を自称することで、東九条マダンから「民衆」は消え去った。そしてそれはつまり、東九条マダンという「精神」の消失でもある。
   
東九条マダンというひとつの「精神」が消失する。そんな稀有な瞬間におれは立ち会っているのかもしれない。
   
「精神」の消失とは記憶の消失であり、歴史の消失であり、こころの消失であり、物語の消失であり、それは結果「わたし」の消失をもたらすだろう。 「東九条マダン」という「精神」が消えて、多文化共生という「形式」だけが残る。もう一度冒頭の梁民基氏の文章を引用する。
   
「問題は内容だとうそぶいてばかりはいられなくなってきた。形式が内容に暴力をふるっているのだ。」
   
「みずからの文化を創り出す 梁民基記録集」 p117 より引用。
   
 形式が内容に暴力をふるっている。これは現在東九条の多文化共生エリアで起きていることである。 そしてこれから「精神=内容」が消失した東九条マダンが、ただの「東九条マダンという形式」に成り下がる時、東九条マダンは「内容に暴力をふるう」側になってしまう恐れはないだろうか?
   
形式が自己目的化する時、内容は消失するのだ。
   
多文化共生が自己目的化する時、東九条は消失するのだ。
   
多文化共生が自己目的化する時、人間は消失するのだ。
人間が消失するならもはやそこに自己像も他者象も無い。世界もない。    
 先におれは「東九条マダンの「自己像=他者象」の変化を興味をもって注視している。」と書いたが、東九条マダンが「多文化共生」という自己像を結ぼうとするなら、 それはもはや自己像すら結ばないということが起きうるのではないかと予感している。 自己も他者も無く、自己目的化した多文化共生という「形式」だけがそこにあり、何の自己像も他者象も世界も無い「虚無」だけがそこにあるということが起きうるのではないかとおれは予感している。 だからこそかつて東九条マダンのメンバーは「安易に多文化共生ということばを使うべきではない」と言ってたのではないのか。
   
 そして現在、東九条地域の「多文化共生エリア」すら消失しようとしている、ようにおれには見える。 もっと言えば東九条という地域すら消失しようとしている。そのことに危機感を覚えた者たちがいろいろと東九条で活動しているが、皮肉なことに、 その活動は東九条の消失をますます加速させているようにおれには見える。 「二階の集団」である彼女彼らは「非暴力を生きている」のではなく「非暴力の形式」を順守しているだけだからである。
   
「民衆」でもなければ「多文化共生民」でもない東九条「一階」の住人の平山にとってはそれは本来関係ないことなのだが、 ただ、「多文化共生エリア」で起きている「消失」現象が、おれには少し、わずらわしい。わずかな火の粉くらいはかかってくるからだ。
   
「消失」というか、巨大な「虚無」が多文化共生エリアを中心にこの東九条に広がりつつある。 それをおれはかつて「透明な病」と名づけたが、さて、この透明な病に罹らないために、正気でいるために、人間は狂わざるを得ない。 かつて、ことばを持たぬ者たちがそうしたように、人間が人間で在るために、この大地の沈黙に耳をすましつつ、大地とともに叫ばなければならない。
   
つづく
   

  
  


  

2025年9月10日

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