小学2年生の頃だったと思う。うちのバアさんがおれに「あんたが小学校卒業したらうちは韓国に帰るんやで」と言った。
「韓国に帰る??」韓国語もしゃべれないし、家も日本にあるし、友達だって日本にいるし、そら国籍は韓国だけど、いきなり知らん国に住むって言われたって…おれは混乱と不安におそわれた。
その夜一緒に道を歩いていた父親に意を決して「うち、韓国に帰るん?」と聞くと父親は「そんなわけないやろ。だれがそんなこと言うたんや」と聞くので、「おばあちゃんが言うてた」と言うと、「そうか。」とだけ言って父親は黙った。
家に続く細く長く暗く曲がった坂道を、黙って二人で歩いた。
なぜあの時バアさんがことを急に言い出したのかはわからない。発作的に言ったのかもしれないし、言ってみたかっただけだったのかもしれない。
ただ、うちのバアさんは1930年に日本で生まれた在日の2世だ。特に在日の一世はそうだが、まだあの年代の在日は「いつか祖国に帰る」という想いをもっていたのは確かだ。
とはいえ、生活基盤も日本にあって、孫も日本で生まれて、その一家ごと韓国に帰るなんてことは現実的ではない。しかもちょうどその時、古い家をローンを組んで建て替えるということが決定していた。
そうなれば本当に韓国に帰ることは絶対に無いわけで、もしかしたら、だからこそ、在日が当初にもっていた「いつか祖国に帰る」という想いを発作的に孫のおれに伝えたかったのかもしれない。
バアサンは普段から辻褄の合わないことを言っていたのでそれは考えすぎかもしれないが、「あんたが小学校卒業したらうちは韓国に帰るんやで」ということばはずっとおれのこころに残っている。
いつか「祖国に帰る」というその想いは確かに在日に在った想いである。
平山が通った東九条の陶化小学校には「民族学級」というクラスがあった。週に二日、一時間づつ、希望する在日韓国朝鮮人のこどもは日本人のこどもと別教室で朝鮮のことばや歴史や地理や文化の授業を受ける。
授業をしてくれるのは朝鮮学校からやって来た先生である。平山もこの民族学級で学んだ。
在日であっても民族学級に入らない子もいて、それはそれぞれの家庭の方針だ。在日だけれどもこどもに「民族教育」を受けさせる必要は無いという家庭もあるし、できるだけ日本人に同化して生活したい在日にとっては民族学級はそもそも不要だ。
おれの家は「あんたが決め」と言われていたので、おれは自分の意志で民族学級で学んだ。
なぜ、京都市の公立の小学校の、正規の授業の課内に、クラスから在日韓国朝鮮人のこどもを「抽出」するかたちで朝鮮の「民族教育」をするためのクラスがあったのか。
その成立の過程の歴史の全容は非常に複雑でここでその全てを書くことは到底不可能である。
情報量があまりにも膨大かつ、理解するのに前提となる様々な専門知識が不可欠であり、平山にその技量は無い。
平山も完全に正確に理解はできない。だが論を進めるために、かなり不完全な情報になってしまうが「民族学級」成立までのその要点を以下に書いていきたい。
戦後、在日朝鮮人は本国に帰った者と、諸事情あって日本に残った者がいて、日本に残った者たちは「いつか国に帰った時のために」と朝鮮人による朝鮮人のための学校を作ってそこで自分たちのこどもたちを教育していた。
いつか国に帰った時にこどもたちが朝鮮語ができなかったり朝鮮の歴史や文化を知らなかったら生活に困るからである。
いわゆるそれは「朝鮮人学校」とよばれる学校だ。この「朝鮮人学校」が「民族学級」のそもそもの発祥である。
その歴史を正確に要約することは平山の技量として不可能なので、正確を期するためにここからは松下佳弘氏の「京都市における在日韓国・朝鮮人教育の成立までの経過ー一九八一年「外国人教育の基本方針(試案)」策定の前史としてー
https://khrri.or.jp/publication/docs/200403009007(5081KB).pdfから引用し、要約する。
以下引用━━━━━
一、京都市での民族教育の成立とその変遷(一九四五年~一九四九年)
(1)朝鮮人学校の創設
一九四五年八月の日本の敗戦は、朝鮮に対する三六年間の植民地支配の終焉と朝鮮人に対する動員体制の解放をもたらした。
当時の在日する朝鮮人の人口は200万人前後であったとされている。解放後、彼らの多くは帰国して朝鮮で暮らすことを願っていたが、子供たちの多くは、敗戦まで日本の学校に就学し、朝鮮語や朝鮮の歴史・文化を学ぶ機会はなかった。
そのため朝鮮人の親たちは帰国しても言葉を知らなければ暮らしていけないと考え、全国各地に約500ヶ所の「国語講習所」と呼ばれるいわば手作りの学校を作った。京都市内でも二八ヶ所(一九四五年九月)、数百名を対象に行われたという。
この間、多くの在日朝鮮人が帰国し、敗戦から七ヶ月後の一九四六年三月のGHQの人口調査では約六四万人がとどまっていたとされる。
(一九四六・三・一八実施)在日朝鮮人聯盟(以下朝連)によって設立された「国語教習所」はその後朝鮮人学校(民族学校)へ発展していく。
…〈略〉…
こうした朝連を中心にした民族団体によって朝鮮人学校が創設され、民族教育がすすめられた背景にはアメリカ占領下の期間、在日朝鮮人は「日本の法令に服するもの」とはされていたが、
在日朝鮮人が「解放国民」の性格を認めざるを得ない状況や当時の民族教育運動の盛り上がりなどから、在日朝鮮人の教育をある程度認める政策がとられたことがあるといわれている。
…(略)…
京都市においてどれだけの朝鮮人の子どもが京都市内に設立された朝鮮人学校や国語講習所などで教育を受けていたかは定かではないが、…(略)…
こうした市内の朝鮮人多住地域を中心に創設された学校の多くは当時の京都市立小学校の校舎の一部を借りる形で開校されており、
この当時朝鮮人と日本人の児童が同じ敷地の校舎で別々の教員から指導を受けるという形態の学校が存在したと考えられる。
(2)朝鮮人学校の閉鎖
ところが、一九四八年一月、文部省は「朝鮮人の子弟であっても……日本人と同様市町村立又は私立の小学校、
又は中学校に就学させなければならない」という朝鮮人児童生徒への就学義務の明示と事実上朝鮮人学校の設置を認めないことを柱にした通達を出した。
これはその根拠を「日本の法令に服するもの」とする先の占領指令においたものであり、朝鮮人の民族教育に対する初めての「教育政策」であったとも考えられる。
京都でも三月三一日、京都朝鮮梅津小学院など九ヶ校に閉鎖令を出し、教育活動を停止させた。
これには当然朝鮮人の激しい反対運動が全国的に展開され、四月二四日のいわゆる「阪神教育闘争」では、阪神地区に非常事態宣言が出され、朝鮮人学校が閉鎖され、朝鮮人少年が殺されるという事態に至ったことは広く知られているところである。
これは五月五日、中央段階で朝鮮人側と文部省との間で覚書が交わされ一定の解決がはかられた。
京都でも京都府教育部との話し合いによる解決が探られ、五月一五日には中央での解決を受けた形で覚書が結ばれている。
その内容を整理すると以下の三点になる。
>
①私立小学校、中学校としての認可申請する。
②一般の小学校、中学校で義務教育を受ける傍ら放課後・休日等に朝鮮人独自の教育を行う各種学校に在学させることができる。
③一般の小学校、中学校で義務教育を受けている朝鮮人児童生徒のみの学級を編成し(特別学級の設置)、選択教科・自由研究の時間意朝鮮人独自の教育を行うことができる。
…(略)…
こうした経過を経て一九四八年一月の通達による朝鮮人学校の閉鎖という民族教育の危機は京都においても一旦は回避された。
しかし、翌一九四九年一〇月、「団体等規制令」による「朝連解散・財産没収」(九月)に伴う措置として、文部省は朝鮮学校の改組閉鎖を全国に通知した。
これは「朝連が設置した学校は(朝連の解散により)設置者を喪失し、当然廃校になったもの」とし、それ以外の学校にも「法律による法人組織の改組」することを命じている。…(略)…
こうして京都の朝鮮人学校のほとんどが閉鎖され、日本の学校に転校させられた子どもは一000人を超えたという。…(略)…
こうして一九四九年九月から十一月にかけての朝鮮人学校閉鎖と校舎明け渡しに措置により在日朝鮮人の子どもたちの教育の場は朝鮮人学校から京都市の公立学校へと変わることになる。
二、民族学級の設置とその経過(一九五0年~一九六五年)
(1)一九五0年以降の就学形態
一九四五年八月以降始まった朝鮮人の民族教育は一九四九年の朝鮮人学校の閉鎖に伴い、多くの朝鮮人の子どもが公立学校に転校を余儀なくされたことでひとつの転機を迎えた。
これまで朝鮮人学校と日本の学校に二分されていた朝鮮人の子どもの就学は、これ以降、
①自主学校としての民族学校、
②公立学校・分校としての朝鮮人学校、
③公立学校の中の民族学級、
④日本人と同じ公立学校
の四つに分かれることになる。
①民族学校
学校閉鎖命令がだされた中で、自主学校として存続したものや大阪の白頭学院(私立学校)や前項で取り上げた京都第一朝連初等学校(各種学校)のように認可されたものなど、いくつかの民族学校は継続された。…(略)…
一九四九年の朝鮮人学校閉鎖に対して、朝鮮人の親たちは当初朝鮮人学校の存続を主張したが、朝連の解散の上で閉鎖という状況と日本国民から朝鮮人学校の擁護の支持が得られない状況から、
「公立学校内部で実質的に民族教育を実現することに要求を引き下げざるをえなかった」とされる。
したがって閉鎖後の争点はこれまでの日本の公教育の外側に民族教育を認めるかどうかという問題から、
「公教育の枠内でどの程度実質的な朝鮮人教育を認めるかどうか」の問題に移っていった。
このことが次の②と③にあげる日本の公立学校を民族教育の場とする新しい二つの教育形態が生まれる契機となった。
②公立学校・分校としての朝鮮人学校
朝鮮人学校閉鎖後出された朝鮮人側の要求は「朝鮮人の集団での入学」「別の時間割を設けて朝鮮語による歴史と国語を教えること」「これらの教員は朝鮮人とすること」の三点に集約できるという。
…(略)…こうしたなかで①のような自主学校・認可された学校以外に、東京、兵庫等の朝鮮人の多住地域ではこれまでの朝鮮人学校が公立学校移管の形が取られ在日朝鮮人だけの学校が生まれた。
…(略)…これは朝鮮人側から見ると先の三点の要求を公立学校体制のなかで最大現に追及できるものであったが、一方では行政、教員父母のそれぞれが大量の朝鮮人の転校を迷惑なことだと考え、
それが分離学校としての公立朝鮮人学校実現の要因になったという事情もあったという指摘もある。しかしこれらの学校は長くは続かず民族学校等に移管するなどして日韓条約締結後の一九六六年三月までに全てなくなった。
③公立学校の中の民族学級
一九四九年の学校閉鎖により①②の形で朝鮮人だけの学校が存続したが、それまで民族教育を受けてきた子どもの多くは公立学校で日本人の子どもと同様の教育を受けることになった。
そこで朝鮮人の親たちの要求は「日本の学校における民族教育の実現形態=民族学級」となって現れた。
朝鮮人だけの学級を設ける特別学級、普段授業を受けながらある時間のみ抽出する抽出学級、放課後等の正規授業外におこなう課外学級の三形態がとられた。
こうした民族学級は大阪、京都を中心に一九五二年には七七校に設置されていた。
━━━━引用以上
と在日朝鮮人のこどもの教育の歴史の最後の「③公立学校の中の民族学級」というのが平山が通った民族学級のことである。
この歴史をざっと見れば在日朝鮮人の教育は当初の「在日朝鮮人の在日朝鮮人による在日朝鮮人のこどもだけの教育をする学校」から「日本の公立の学校の中での学級」へと、妥協に妥協を重ねた上でかなり後退したことが伺える。
さらに上記の民族学級の歴史に肉付けするために、朝鮮人学校が私立各種学校として存続する過程をグローバル・ヒストリーの視座から検討した、
崔紗華氏の「朝鮮人学校存廃問題の歴史過程1945-1957 ―グローバル・ヒストリーの視点から―」
https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/57754/files/Honbun-8448.pdf
からも引用し要約する。
p123からp126より引用し要点を書き出す。
以下引用要約━━━
朝鮮人学校の設立経緯を広く捉えることで、朝鮮人学校には次のような意味があったことが明らかになった。それは第一に、
・朝鮮人学校が植民地支配からの解放を体現する試みであった。
・朝鮮人学校が朝鮮に古くから存在した階層関係の是正を試みる営みであった。
・朝鮮人学校が日本における共産主義の源泉として見なされ、1948 年1 月に文部省により朝鮮人学校が閉鎖された。
・日本政府が朝鮮人学校によって引き起こされる問題を治安問題の一種として認識するようになった。
・朝鮮人学校の閉鎖をきっかけとして生じた衝突は、植民地支配の残滓からの解放を実践しようとする朝鮮人学校側と、日本における反共政策を推し進める日米両政府との衝突を投影したものであった。
・朝連の傘下に置かれていた朝鮮人学校に対する閉鎖令が文部省により発令されたがこの閉鎖令は、日本の自治権の高まりという流れの中で文部省により独自に発令されたものであった。
・しかし、この閉鎖令は国際関係を度外視した政策であることから、国内外からの批判を受けた。
・韓国政府からは、韓国政府に相談なく朝鮮学校の閉鎖が実施されたことから、韓国政府を軽視した政策だと批判された。
・日本の講和が目前に迫る中、朝鮮人学校の問題は国際的な見地からの対処が必要とされ、文部省はこの閉鎖以後、朝鮮人学校の政策を検討する際に日韓関係に注意を向けるようになる。
・日本人学校側の都合によって朝鮮人学校が公立化された。
・たとえば、神奈川県、兵庫県、山口県において、これらの地域では、閉鎖した学校から転入してくる在日朝鮮人児童・生徒を、日本の学校に収容できないという定員超過の問題が生じた。
それゆえに、閉鎖した朝鮮人学校を再利用せざるを得なくなり、朝鮮人学校が公立化させられたのである。つまり、民族的な要求に対する措置として公立化されたのではなかった。
・学校側の事情とは異なり、知事や市長の意思が強く反映したケースがあった。たとえば、東京都では、朝鮮人学校を政治利用する都知事の思惑、占領軍やそれに追随する文部省に対する抵抗として、東京都では朝鮮人学校が公立化された。
・さらに、尼崎市では学校内部で日本人児童と朝鮮人児童の衝突を回避するために朝鮮人学校が公立化された。
・また教育委員会の思惑により朝鮮人学校が公立化されたケースもあった。たとえば、岡山県では、漸次的に在日朝鮮人が公立化の「真価」を認めていくという予測に基づいて朝鮮人学校が公立化された。
・大阪市では不就学児童の問題を解消するために、朝鮮人学校が公立化された。
公立化も朝鮮人学校を存続させるための一つの道であったといわざるを得ない。
朝鮮人学校側にとって公立化は、民族的要求を叶える試みであった。公立化の時期は、依然占領下であったこと、しかも在日朝鮮人による諸活動が日米両政府によって強固に統制を受けていた時期であったことを考慮しなければならない。
そのような統制により、新たに学校を新設することが困難な時代において、在日朝鮮人は既存の学校を用いて、曲がりなりにも民族教育を実施していた。
特に、兵庫県のように公立化された学校においてでも民族科目が正規の課目として認定されたことは、民族教育を実施する余地が大きく得られた事例だといえる。
他の学校においても、日本人教師や教育委員会と衝突しながらも、朝鮮人児童・生徒、講師は民族教育の実施を試みたのである。
このように、民族教育を継続する方途を模索した在日朝鮮人の活動は評価されるべきであろう。
━━━以上引用要約
松下氏、崔氏の論文を読むと、「朝鮮人の朝鮮人による朝鮮人のこどものための朝鮮学校」は例えばGHQや日本の反共政策、冷戦、韓国や朝鮮との関係からも影響を受け、
さらに朝鮮学校は「教育問題」としてではなく日本の社会の「治安問題」「国際問題」として認識されていることがわかる。
さらに各都道府県の地域の事情によっても「朝鮮人学校」への対応と結果は異なり、当時の国際情勢や国内の政治情勢に大きく影響されながら、
朝鮮のこどもたちへの「民族教育」は私立各種学校化したものを除いて、当初の理想よりも大きく後退しながら最終的に公立の学校に「民族学級」として週二回一時間づつの授業として残る。
そして現在ではそれは京都市においては「コリアみんぞく教室」として放課後に行われる課外授業として残存することになる。
要約したものではなく、松下氏の書籍や崔氏の論文の本文を読んでもらえれば、この朝鮮の子弟のための「民族教育」のために多くの朝鮮人たちが妥協に妥協を重ねながらも、あきらめず、何とかそれを実現しようとし続けたことがわかる。
それでも日本の社会に同化して生きていくことを選ぶ在日の方が多く、全国にあった公立小学校内の民族学級の多くは消失し、現在は大阪と京都に残るだけである。
この「朝鮮学校」の歴史、在日韓国朝鮮人のこどもたちへの教育の歴史とは、在日韓国朝鮮人の歴史そのものである。
在日韓国朝鮮人は常にその「存在」を国際情勢や日本国内の政治情勢に左右される、「政治的な存在」であるということがわかる。
それは教育の問題に限らず、福祉、労働、生活全般においてそうである。だから極端な話、在日韓国朝鮮人を消そうと思えば日本の、あるいは本国の政治的な決断によって「在日という存在」を消すことも可能なのだ。
また、多くの在日は帰化をして日本人になっているし、また日本人との混血のこどもたちも増えている。在日韓国朝鮮人という、戦後政治的に産まれた「少数民族」はその姿を消しつつある。
平山のような三世ですらもう韓国という「国家」に帰属意識は無いし、自分のルーツが朝鮮にある、という感覚や認識があるだけである。
ただ平山の場合はそのルーツへの感覚は強い。何故なら平山は在日としての「生活」をしてきたからである。
確かに朝鮮語は全くできないし学ぶ気も無い。朝鮮の文化もほとんど知らない。言語も文化も日本のものに強く同一化しているしそのことに違和感は全くない。
だけど、おれは在日としての生活は確かにしてきたのだ。それは祖母が典型的な在日のキチガイババアだったということもあるし、チェサという朝鮮の各家庭で行う法事をきちんとしてきたことも大きい。
だけど何より平山家に纏わるいろんな問題、苦しみ、悲しみは在日韓国朝鮮人であることに由来するものであり、そういう意味において、おれは在日韓国朝鮮人としての「生活」をしてきたのだ。
だからこそ、小学校のころにそれが週二回一時間ずつのわずかな時間であっても、「民族教育」を受けることはおれにとってはとても意味のあることだった。
民族学級で教えてもらったハングルはもうすでに覚えてもいないし、その「民族教育」を受けることで本国への帰属意識が高まったり民族意識が高揚することは無い。
だけど、自身の根っこ、自身の由来、歴史への感覚の強度が強くなったのは確かである。
この場合の「歴史」とは出来事としての歴史ではなく、「大地」として歴史のことである。
「大地としての歴史」とは、平山という生が、どこの死者から生まれてきたのか、という感覚のことである。
その感覚は、「わたし」は誰なのか?という問いに応えてくれる感覚のことではなく、
「われわれ」は誰なのか?という問いに応えてくれるあの感覚の事である。
つづく
本章を書くにあたって松下佳弘氏の著作と論文にとても助けられ、勇気づけられました。
特に「京都市における在日韓国・朝鮮人教育の成立までの経過ー一九八一年「外国人教育の基本方針(試案)」策定の前史としてーのp130の後半に書かれているエピソードは東九条の在日としてとても身につまされるものでした。
松下さんのネットで読める論文、また著作の「朝鮮人学校の子どもたち」はとてつもない労作ですが、その論の背後にある松下さんの在日のこどもたちへの想いを強く感じながら、
その想いに平山もまた励みを受けながら読むことが出来、本連載を書くことができています。東九条という地域にこんなすばらしい方が長年関わってくれていたことを平山はとてもうれしく思います。
また、松下さんに直接お話を伺いたいという平山の不躾なお願いに応えて頂き、民族学級に関する貴重なお話を直接伺うことができました。
この場を借りて松下佳弘さん、そして快く松下さんと連絡をつないで頂いた世界人権研究センター様にお礼申し上げます。ありがとうございました。
参考文献
・「朝鮮人学校の子どもたち」 松下佳弘 六花出版
・「京都市における在日韓国・朝鮮人教育の成立までの経過ー一九八一年「外国人教育の基本方針(試案)」策定の前史としてー 松下佳弘
https://khrri.or.jp/publication/docs/200403009007(5081KB).pdf
・京都市立養正小学校「朝鮮学級」の成立過程― 一九五〇年代前半における公教育改編の試みとして ― 松下佳弘
https://khrri.or.jp/publication/3/post_148.html
・「朝鮮人学校存廃問題の歴史過程1945-1957 ―グローバル・ヒストリーの視点から―」 崔紗華
https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/57754/files/Honbun-8448.pdf
・東京都立朝鮮人学校の廃止と私立各種学校化─ 居住国と出身社会の狭間で ─崔紗華
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/JapanBorderReview/no8/PDF/01.pdf
・日本に定住するコリアンの子どもにおける学習権 上原陽子
https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/16282/files/ShagakukenRonshu_19_Uehara.pdf
・民族学校・民族学級における在日コリアン女性保護者の民族教育に関する意識
-グループインタビュー調査を通して- 李月順
https://keiho.repo.nii.ac.jp/record/76/files/asia_68_06.pdf
・大阪市公立学校における在日韓国・朝鮮人教育の課題と展望―民族学級の教育運動を手がかりに― 梁陽日
https://www.r-gscefs.jp/pdf/ce09/yy01.pdf
2025年9月21日