【連載】 『東九条、死者無き多文化共生の行方≪10≫』

在日韓国朝鮮人、滅びゆく民族を生きるということ その3

「民族学級」について。 民族教育と多文化共生教育 その②

  
  
 小学生のころ、漢字が書けなかった。漢字は読めるんだけど書けなかった。だから国語のテストはいつも90点だった。いつも90点。 漢字の書き取り問題の10点が取れないけどなぜか文章問題だけはできるから国語はいつも90点。 だけど他の教科はだいたい40点から60点。まず記憶や暗記ができない。算数なんてもっての他。 そして勉強以前に忘れ物が多くて、教科書はもちろん文房具も体操着もノートもとにかくちゃんと持ってこれないから毎日毎日、担任の女の先生に怒られて恥ずかしい思いをしていた。 先生も若くて情熱があったから一生懸命だったんだよね。 でもどれだけ言っても何か月も治らないおれの忘れ物に怒髪天をついた先生が、 堪忍袋とおれの机ごと全部廊下にぶん投げて「帰れえっ!!」と叫んだので、 おれは廊下にちらばった教科書とノートとえんぴつと消しゴムと…ひとつひとつ拾ってランドセルに詰めて、机といすは廊下の邪魔にならないところに置いて、とぼとぼと帰った。 怒られたってなあ…いつもいつも頭が真っ白だったから、段取りとか整理整頓ができないんだよ。 校舎を出て校庭を歩いていると、隣のクラスの担任の男の先生が校舎の二階から「おーーい!ひらやまーー!どこいくねーーーん!?」と大きな声をおれの背中にかけてくれた。 「帰るな」じゃなくて「どこいくねん。」この状況でとっさにこのことばをかけることができるなんて、なんてやさしい人なんだと思う。 小学生のおれにも、そしておれの担任の先生にも恥をかかせない、すごくやさしいことばだとその時感じた。このことばをおれは一生忘れ無い。 そこでようやくおれが本当に帰ったことに気が付いた担任の先生が慌てて走って降りてきて泣きながら謝ってくれたんだけど、 おれもその担任の先生のことは好きだったし、忘れ物をする自分が悪いから帰れと言われたら帰るしかないし、今思い出しても惨めすぎて泣けてくるなあ。 その日のうちに先生はちゃんと家に来てくれて、母親に事情も説明して謝ってくれて、おれもちゃんと「もう忘れ物しません」、て先生とお互い泣きながら約束をした。 そして、次の日、きっちり、習字の教科書を忘れていた。その翌日もまた何かの教科書を忘れていた。もう二度と忘れ物を注意されることは無くなった…。
  
 小学校六年生になって急に勉強ができるようになった。算数すらできるようになった。新しい担任の男の先生が「勉強の仕方」を教えてくれる人だった。 勉強の仕方、というか、宿題を出さない代わりに何の教科でもいいから自分で課題を考えて自由に勉強しなさいという人で、自由という翼を与えられたおれは急に勉強ができるようになった。 教科書の内容が頭に入ってくる。算数すらできるようになった。自由の女神ならぬ自由の担任だったのだ。 それを「自主学習」とその担任の先生は呼称していたが、自主学習のノートは自由なかわりに、何の勉強を家でしたのか毎日提出しなければならない。 そのノートに書いた落書きをその先生が褒めてくれて、それでおれは勉強が好きになったのだが、きっかけなんてそんなものだ。 もちろん、教科書を忘れることなどそのころにはもはや今は昔。忘れ物などありえないことだ。
  
 小学校六年生になって急に勉強ができるようになったのはその担任の先生のおかげだが、もうひとつ理由がある。 このころ父親の職業が安定したのだ。おれの父親は不運な怪我や病気で入退院を繰り返したり、ヤクザまがいの親せきに騙され、恐喝され、身を隠すために他府県をてんてんとしていたり、 その間身に覚えのない何百万もの借用書が家に届いたり、脅迫の電話がかかってきたりいろいろあった。 父親は器用な人だったので無職の時はパチンコで生活費を得ていた時期もあったが、職が決まったらパチンコはスッパリ止めてバリバリ働いた。 やはり不安定な生活環境だとこどもは勉強どころではない。こどもが勉強するために必要なのは頭の良さではなく「安心感」や「安全感」なのだ。 底辺層の在日なんて、親類であれ身内であれ他人であれ、暴力や脅迫で財産を奪うなんてことは平気でやってくる。 暴力は経済的な被害だけでなく、その家庭やその精神や肉体まで破壊するのだ。こういう話は比較するものではないが、東九条にはおれの家よりもっと悲惨な家庭なんてたくさんあった。 祖母と母親が食堂をやっていたので、おかげで三食きちんと食べさせて貰えたおれはまだまだましな方だ。 ごはんすら食べさせて貰えず、道の草を食べていたこどもだっていたのだ。だけどこれが東九条の当時の在日の日常の風景でもあった。 たとえ初対面であっても、自分より年上か同じ世代の在日と話をしても意気投合するのはどの家庭もみんなだいたい似たような経験をしているからである。 日本人からの差別うんぬんもあるが、在日の敵は在日、なのだ。時に被害者であり、時に加害者であり、そんな被害と加害の混沌、それが在日だ。 ここでは「非暴力の形式」なんて何の役にも立たない。「非暴力を生きる」その知恵と根性だけが問われるのだ。だからこそ、特に在日は「階級上昇」したがるのだ。 誰だってこんな生活を続けたくはない。奪ったり奪われたりする生活をしたくない、こどもにはさせたくない。階級上昇して「非暴力の形式」に守られる生活をしたい。
  
 だけど階級上昇して「非暴力を生きる」知恵や力を失ってしまうことは大いなる損失であり、それこそが「歴史の断絶」だとおれは感じる。 東九条における「一階」と「二階」との断絶はこの「歴史の断絶」のことでもある。 東九条ではこの言語化できない「非暴力を生きる」知恵や力は継承されなかった。その代わりに「多文化共生」という「非暴力の形式」だけが信号機のように明滅しているだけである。 「非暴力を生きること」は時に赤信号を無視して横断することもある。しかしそれはルール違反、暴力として一義的に排除される。 東九条の「歴史=こころ」は多文化共生によって途絶させられようとしている。
  
 ひとつだけ書いておくが、「暴力で奪われたから自分も暴力で誰かから奪う」という生き方をした奴は必ず滅びる。45年しか生きてないがおれはそれを見てきた。 「暴力で奪われたけど自分は人から奪わない」という生き方をした奴はちゃんと生き残る。「非暴力を生きる」とはそういうことでもある。 カネでもことばでも愛でも歴史でも何でも、人から奪えば魂が錆びつくのだ。ただ、生きるために奪わざるをえない現実があったのも確かだが。
  
連載前回に引用した松下佳弘氏の論文、「京都市における在日韓国・朝鮮人教育の成立までの経過ー一九八一年「外国人教育の基本方針(試案)」策定の前史としてー  https://khrri.or.jp/publication/docs/200403009007(5081KB).pdfから引用する。
  
以下引用━━━
  
p130
  
私が一九七〇年から七年間勤務した小学校は在籍数の三分の一を韓国・朝鮮籍の児童が占めていた。 子どもたち同士のトラブルの中では「チョウセン帰れ」「チョウセンくさい」という言葉がよく聞かれた。 また担任をしていた「特殊学級」(当時はこの名称が使用されていた。)には一六人が在籍したが、半数が韓国・朝鮮籍の児童であった。 そのひとりのMは、けんかをするとよく「朝鮮人の根性みせてやる」と叫んだ。八人の韓国・朝鮮籍の児童の大半が彼のような生活力のある子どもだった。 こんな彼/彼女らが「特殊学級」に入っていいのだろうかとずいぶん考えたが、私には「特殊学級」に対する差別は見えても、在日韓国・朝鮮人差別の問題としては見えてこなかった。 彼らが「特殊学級」に入ったいきさつや成育歴をつぶさに見ていけばその中に在日の子ども・親のおかれている生活現実が民族差別そのものであり、 「知恵おくれ」とはいえない彼/彼女らが学級に入っていることが民族差別の結果であるということが見えてきただろう。 しかし一九七〇年当時の私には、在日がこれだけ多い学校にいながらそれが見えなかったのである。 学校は在日の子どもにかかわる生徒指導・低学力など多くの課題を抱えていたが、教員研修で在日問題を考える機会は全くなかった。
  
━━━引用以上
  
 これは在日に限った問題では無いが、「教育」の問題の背後には差別や貧困や政治的状況や法律やその街自体の問題や様々な問題が複合的に絡み合っている。 おれの担任だった先生も平山の「忘れ物」の背後に在日の呪いのような運命や家庭環境があることなど想像もしなかったかもしれない。 だからこそ、「民族学級」は在日のこどもに必要だったのだと、おれは思う。たとえそれがそれが週二回一時間ずつのわずかな時間のものであっても、だ。 前回の連載にておれは松下氏、崔氏の論文から朝鮮人の民族教育が「教育問題」としてではなく日本の社会の「治安問題」「国際問題」として認識されていることや、 各都道府県でその対応や反応が千差万別であることを書いた。 「民族学級」とは、そんな複合的な問題を抱えている在日韓国朝鮮人のこども同士だけが集まれる稀有な場所だったのだ。
  
 平山は1980年生まれなので、平山が小学校に通う頃には松下佳弘さんの論文に出てくる「民族差別の結果、健常者なのに障害者のクラスに振り分けられてしまうような子」はいなかったが、 この文章を読んだときにおれはとても身につまされた。 あまりよろしくない家庭環境の時には勉強はおろか必要なものを持ってくることすらできなかったこどもが、 父親の職業が安定しただけで急に勉強ができるようになるのだ。こどもにとって環境の影響は本当に大きい。おれはそれを身をもって知っている。
  
 だけど日本の公立の義務教育が厳しい状況にいる在日韓国朝鮮人の子どもに完全に対応できないのも仕方のない話だったし、 そんな中でも日本人の担任の先生方はほんとに一生懸命に接してくれていた。だからおれは担任の先生に何の恨みも無いし感謝している。 でもやっぱり日本人の先生には分からないこと、見えないことはどうしても出てくる。 だからこそそれが例え週二回一時間ずつのわずかな時間のものであっても、在日のこどもたちだけで集まれる場所、 そして在日のこどものその「人には言えない」厳しい家庭環境を同じく体験している、同じ在日の先生と過ごす時間があるということはそれだけで救いとなる時間だったのだ。
  
 確かに週二回一時間ずつのわずかな時間の教育に実際的な意味はほとんどないのかもしれない。 実際おれは民族学級で習ったハングルなんてもう一文字も書けないし、読めないし、民族教育を受けたとて本国への帰属意識が高まるわけではない。 だけど民族学級ですごしたあの時間は確実におれのこころ身体に生きている。 それは、公立の日本の義務教育の学校の中で自身の複合的な背景を、複合的なままで過ごすことができた時間、である。 そんな時間がこども時代にあったということはとても大きなことなのだ。
  
 これは在日に限った話では無いが、生活の場というのは「局所的混沌」である。きわめて個人的な場であり、外からは見えない秘密の場所であり、かつ、そこは社会の様々な問題の「最前線」である。 他人の生活など外からは伺いようがないし、また覗いてはいけない。だからそれは他人が容易に理解できることではない。 この連載でおれは自身のことや自身の家族のことを書いているけど、それはぎりぎり書くことができる範囲のことを書いているだけで、当然ながら書けないことの方が多いし、本当はここに書いてることだって書きたくはない。 どんな人も生活の場、「局所的混沌」を抱えて生きている。だけど、社会に出る時はその「局所的混沌=生活」には蓋をして出てくるはずだ。その蓋とはつまり社会で演じる役割のことだが、もちろんそれはそれでいい。 全員「局所的混沌」のまま社会に集まれば交通事故の山となる。各々の社会の中での関係性の役割や「仮面」があるからこそ社会は成立するのだ。
  
 小学生のこどもだってそうなのだ。 こどもは小学生を演じているわけではない、が、でもそれでも公立小学校の「義務教育」の定義の範囲内の社会性を身に着けて学校に集まっているわけである。 こどもが全員自分の家庭の「局所的混沌=生活」をそのまま教室に持ち込めば「学級崩壊」である。実際、小学生のころ平山のクラスも「学級崩壊」していた。 教室には「局所的混沌=生活」があふれていた。 東九条をよく知らない他所からやってきたベテランの先生があまりの混沌さを秩序化する手立てなく体調をこわしてしまったこともある。 公立の義務教育の小学校といえど、その地域の特性というものはあり、児童全体の3分の1が在日韓国朝鮮人だった陶化小学校においてはある程度その地域特有の「局所的混沌=生活」に対応した姿勢が必要でもあったのだ。 だからこそ陶化小学校に「民族学級」があったことはとても意味があることだったのだ。 これは民族学級に限った話ではないけれども、あるマイノリティだけが集まれる場というのは、「局所的混沌=生活」をそのまま隠さずに「安心して」持ち込める場なのだ。 しかも公立の小学校の中にそれがあったというのは単なる在日韓国朝鮮人への民族教育の場ということ以上の意味があったのだ。 「局所的混沌=生活=最前線」なのに安心できる場というのはなかなか稀有な場である。もちろんこういう場はマジョリティである日本人にも絶対に必要な場である。
  
 では「多文化共生」はそのような場になりうるだろうか?ならない。「多文化共生」は「民族学級」という閉じた場とは正反対の、極めて「公的な場」であり、かつ「開かれた場」である。 安心や安全の質が全く違う。民族学級は「閉じている場」だからこそ安心感が得られる場である。多文化共生は「開いている」からこそ安心感が得られる場である。 「多文化共生」という「多様な人がひとつの場でともに存在できる場」と、民族学級のような「特定の属性だけが集まることが出来る場」は目的も機能も全く異なるものだが、それは対立するものではなく相補的な関係にある。 両方が必要なのだ。ある特定の「民族教育」をする場があるからこそその民族の「ひとつの文化」が育まれるわけで、その「ひとつの文化」が存在しなければ「多文化」もへったくれもない。 在日韓国朝鮮人に限らずいろんな民族の「民族教育」をすることは「多文化共生」の前提だろう。
   
 だけどこれを混同してしまえばめちゃくちゃなことになる。例えば障害者だけの集まりに健常者が入ってきてはいけないだろう。 女性だけの集まりに男性が入ってはいけないだろう。同性愛者だけの集まりに異性愛者が入ってはいけないだろう。 在日だけの集まりに日本人が入ってはいけないだろう。当事者だけの集まりだから安心して話せることもたくさんある。 マイノリティだけの集まりにマジョリティーが侵入することは多文化共生でもなんでもない。それは「侵入、侵犯」である。
   
 でもそこが「多文化共生」の場なら、当然どんな属性の人も排除されることなくその場にいることができなければならない。 「局所的混沌」の場と「多文化共生」の場を混同してはいけない。マイノリティだけの場にマジョリティが入ってきてはいけない。この混同はかならず暴力や収奪に発展する。
   
 「民族教育」と「多文化共生教育」とは全く違うものである。だけど民族教育があるからこそ多文化共生教育はできる。多文化共生教育があるからこそ、民族教育は閉鎖的にならず社会全体と相互理解し合えることができる関係が築ける。 平山の子ども時代にはまだ多文化共生教育は東九条には存在しなかった。だけど現代は両者があるのだからそれは相補って共同しあうような関係になればいいと思う。多文化共生という施策自体は必要なものなのだから。
   
だけど、
   
だけど、だ。
   
マジョリティ側が「多文化共生教育」と「民族教育」とを混同する時、それは必然レイシズムになるし、それはマイノリティの生活の場の「植民地化」となる。
   
マイノリティの「局所的混沌=生活」の場にマジョリティが侵入することを「多文化共生」とは言わないのだ。それは侵害であり侵略であり収奪である。
改めて書いておく。「民族学級」とは、在日韓国朝鮮人による在日韓国朝鮮人のための「民族教育」をする場である。 「あるゆる人種、文化を越えてみんな仲良くしましょう」という「多文化共生教育」とは全く異なる「場」である。
  
さて、
  
そんな在日韓国朝鮮人のこどもに「民族教育」をするための「民族学級」に入りたい、という「日本人」のこどもがかつて東九条に現れた。
  
東九条の希望の家保育園で「多文化共生教育」を受けて育ったこどもである。
  
そんな「多文化共生教育」と「民族教育」とを混同した「こども」がそのままおとなになった時、
  
まさにそれがレイシズムや収奪という暴力として現代に結実するその様を、
  
それを東九条の多文化共生エリアの「二階」の関係者が許容し、増長させているその様を、
  
そんな「多文化共生系レイシズム」とでも呼ぶべき事態が東九条に起きているその様を、
  
連載次回に書きたいと思う。
  
つづく
   

   

  
  


  

2025年9月28日

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