【物語ることと沈黙を奪うこと】

   
 墓泥棒よ、墓のなかで眠れ。
   
 表現者は特別な存在ではない。いや、特別か。表現者は市井の人に比べて特別に軽薄な存在であることは確かである。 表現者が己の軽薄さに無自覚な時、その表現は市井の人を傷つけ踏みにじり市井の人たちの人生を収奪することになる。 アーティストや表現者や自称語り部とやらが特定の地域や社会問題を「物語る」時、その暴力や収奪が起きる。  「物語ること」は他者の沈黙を奪うことである。その事に無自覚な時、「物語ること」は表現ではなく暴力になり、その暴力はやがて他者の物語を収奪する。 市井の多くの人は表現者のように、自身の物語を表現しようとは思わない。 自身の物語を誰にも語らずこころに秘めて沈黙とともに生きている。地に足をつけて物語を生きる人は物語る必要などないし、物語を真に生きるのに必要なのは沈黙だからだ。 口の軽い軽薄な表現者とやらは物語を生きることはできない。何故なら物語とは自身との秘めたる約束だからだ。沈黙を破ることは約束を破ることに等しい。  沈黙があるからこそ物語は生きられる。だが「表現者」は沈黙できない。「物語る」。表現者が物語る時、沈黙が破られる。その時、今まで沈黙していた人ももう黙ってはいられなくなる。 何故ならその表現者とやらが語る物語が嘘だからだ。その嘘に対して「その物語は嘘だ、本当はこうなんだ」と沈黙していた人々もまた語らざるを得なくなる。 市井の人にとって表現者とやらが押し付けた嘘の物語を生きる事など耐え難いことだ。だが、沈黙を破ると同時に約束は破られる。市井の人は約束を破ったことの傷を抱えて生きていかざるを得なくなる。 「本当のこと」を訴えることと引き換えに大切な何かを傷つけてしまう。

 表現するからこそ生きる事ができる現実があると同時に表現しないからこそ生きる事ができる現実がある。 「物語ること」は表現しなからこそ生きる事が出来た人のこころを殺す。もちろん表現してはいけないわけではない。 ただ、表現するなら沈黙とともにあらねばならない。何故ならその沈黙こそが何を表現すべきで何を表現するべきでないかを教えてくれるからだ。  沈黙はただ黙っている訳ではない。沈黙はただ黙らされているわけではない。沈黙は隠しているわけではない。沈黙は臆病なのではない。 沈黙は、秘めているのだ。秘めたるものは明かされる時が来れば自ずからその秘密を明かす。わたしはただ沈黙してその時を待つ。それが約束だ。 自身の人生との約束、運命との約束、世界との約束、この生命との約束、宇宙との約束。  そんな約束があることを知らない、感じることができない表現者とやらは誰かに聞いてほしい、わかってほしい、共感してほしい、賛同してほしい、賞賛してほしい、愛してほしい、…。 こんな浅ましい動機でぺらぺらぺらぺら嘘を「物語る」。それはもはや表現者ではなくただの墓暴き、墓泥棒にすぎない。
   
 何故自身の本音や本心が受けいてもらえないのか。それはその物語が嘘だからだ。自分でついた嘘を自分で信じているだけの物語。 そんな物語をその土地を生きる者が受け入れるわけはない。「物語ること」に嘘と承認欲求は不要。なぜ表現者は黙ってられないのか。 沈黙すると嘘がバレるから。沈黙すると嘘に直面しなければならないから。自分が嘘つきだと認めたくないから。  沈黙することは自らが自らの墓の中で眠ることである。眠れ、墓のなかで。墓の中でみた夢こそが本当に表現されたがっていること、ほんとうに「物語ってほしいこと」である。 墓泥棒は眠らないから夢をみない。夢を見ないから他人から夢を奪うしかない。憐れなで惨めな墓泥棒。他人の夢見を邪魔するな。眠れ、自身の墓で。夢は墓泥棒すら愛している。