最近ちょっとえらそうにいろいろ書いているので、自分自身のことを書いておく。
連載12回で書いたことに間違いがあり、訂正する。
【訂正】
遡れば第二次世界大戦の植民地支配の時代に行きつくのだ。×
遡れば第二次世界大戦と植民地支配の時代に行きつくのだ。〇
「の」と「と」の違いでしかないのだが、要は平山は大日本帝国による朝鮮の植民地支配は第二世界大戦で起こったことだと思い込んでいたのである。史実は
日本による朝鮮半島の植民地支配は1910年の日韓併合に始まり、第二次世界大戦は1939年に始まる
ので、平山が書いた
>遡れば第二次世界大戦の植民地支配の時代に行きつくのだ。
は間違いである。これは連載を読んでいただいた平山の知人からの指摘で気が付いたことである。
平山は【連載】 『東九条、死者無き多文化共生の行方≪12≫』連載においては
>こんな間違いをするのはありえない。中川眞がアートに関心はあっても東九条という地域や在日韓国朝鮮人に何の興味関心ももっていないし、全く調べてもいないということがよくわかる。
と批判を繰り返していたが、平山もこのざまである。まさしく、「こんな間違いをするのはありえない」である。
「平山、お前も偉そうに言いながら、お前自身が在日韓国朝鮮人に何の興味関心ももっていないし、全く調べてもいないということがよくわかる、じゃないか。」と言われそうだが、実はその通りだ。
おれは、朝鮮の歴史や文化や言語に何の関心ももって無かったし、今の今まで学んでも来なかった。その必要も必然も無かったからだ。
この連載において、民衆文化運動のこと、民族学級のこと、いろいろ偉そうに書いているが、全て、最近知ったことである。
これは間違いや無知を開き直っているのではない。本当に、事実、おれは朝鮮や韓国や在日のことに関心がなかった。反差別や朝鮮の宗教や儀式には興味関心はあったが他の事には興味は無かった。
それは事実なので正直に書いておく。
平山自身が実際に生きた「現実」や「生活史」としての在日韓国朝鮮人あるいは東九条住人というアイデンティティはある。
それは歴史というよりは感覚や身体性に宿る「たましい」のようなものに近い。
おれは、「たましい」があるのだから具体的な歴史を学ぶ必要が無かったし、歴史を知らずとも「これまでは」生きてこれたのだ。だから歴史を学ぶ必然性も無かった。
「帰属意識」という言い方をするのであれば、おれは国籍がある大韓民国に帰属意識は無い。日本国にもない。東九条にも無い。
東九条の自分が住んでいる「宇賀辺町」のさらにその自分の家の周辺の一角の土地。その「大地」には「帰属意識」のようなものはある。
五年前から東九条マダンに関わり始めて、自分が生きた「宇賀辺町の一角」以外の東九条はこんなにも違うのかと驚いた。同じ東九条だけど全く別の世界だったから。
それから「東九条多文化共生エリア」のことを調べ始めた。それは東九条の「一階」の住人平山と「二階」の関係者たちとの「出会い」である。
三年前から「東九条多文化共生エリア」が何かおかしいと思い始めた。人権意識も高く、頭もいい、大卒院卒の「二階」「三階」の人たちが差別的な言動や活動をする。
そしてそれを周りが許容する。というか、差別を差別だと認識できない。
何故こんなことが起きるのだろうと思い、さらにいろいろ東九条に纏わる資料を探し、読み、いろんな人の話を聞き、その理由が何となくわかってきた。
実は七年前に母親がたまたま浜辺ふうの公演を見ていて、激怒し、悲しみにくれていたことがある「何で日本人のあんなこどもにあんなことを言われなあかんのや。
周りの大人はなんであの子を止めへんのや」と。
おれはその公演を見てないので何とも言えなかったのだが、それから東九条マダンに参加してから浜辺ふうのことはいろんな人から話を聞いて認識していた。
関わりたくなかったので静観していたのだが、去年の京都市立芸術大学で行われてた浜辺ふうの公演がさすがにマズイということで、今に至る。
浜辺ふうが何かおかしなことを言っている、間違ったことを言っているというのは在日としての「直感」や「感覚」としてわかるが、それが何故間違っているのかというちゃんとした理由は、諸々学ばなければ言語化できない。
だからおれは資料を読み、研究者に会いに行ってわからないことを聞き、いろんな人の話を聞いた。
それで明確に浜辺ふうの活動が何故差別であり収奪なのかを言語化できるようになり、この連載を書いている。
そして民族学級のことを調べるうちにそれは自然と在日韓国朝鮮人の歴史を学ぶことになる。
東九条マダンのことを調べると「民衆文化運動」に行きつく。この「民衆文化運動」は調べてみるとおもしろくて、今でも関連の書籍を読んでいるのだが、おれは悲しいかな基礎教養が全くない。
直感と感覚だけで本を読んでいる。だから時系列や因果関係がわからないまま読んでいるので、ちゃんとした理解ができているわけでもない。だから
>遡れば第二次世界大戦の植民地支配の時代に行きつくのだ。
というありえない間違いをしてしまう。
もちろん植民地支配のことは民族学級で学んで知っていたしそれに対して怒りや悲しみや思うところも多々あるのだが、だけど本当にこれまで朝鮮の歴史や文化や言語に何の関心ももってないし、今まで学んでも来なかったのだ。
おれにとっては「歴史」よりも「生命」の方が大切で、「生命」に興味関心があったからである。
はっきり言って「歴史」なんぞ必要ないとすら思っていたし、むしろ「歴史」は「生命」の邪魔をするものだとすら思っていた。
そしておれが生きてきた「宇賀辺町の一角の土地」は生命力過剰の生命力そのものであるような土地だったからその生命の発露やリズムや跳躍に身を委ねてさえいればいいと思っていた。
だがその考えは今年読んだ渡辺哲夫氏の「死と狂気」と「二十世紀精神病理学史序説」の二冊によって完全にひっくり返された。
おれは「歴史」こそ敵だと思っていたのだが「歴史不在」こそが病いの元凶だったのだ。生命も歴史も、両方大切だったのだ。渡辺哲夫氏が言う「歴史」とは年表としての歴史の事ではない。
生命を「かたち」つくるその力としての「歴史」だ。
偶然だが、「死と狂気」によって「歴史」に開かれたのと同じ時期に、平山と「多文化共生エリア」と本格的に諍いが起こり始め、おれは必然、「歴史」に触れざるをえなくなっていく。
東九条多文化共生エリアで心底苦しく悲しくつらい思いをしなければ、おれは東九条や在日や朝鮮の歴史に触れることはなかったままなので、嫌な思いをさせてでも、「歴史がおれを捕まえた」のだと思う。
今年、明確に俺は「歴史」に捕まった。渡辺哲夫氏の「死と狂気」と「多文化共生エリア」との諍いによって。
そしてそれは「生命」が望んだことでもあるのだと思うし、東九条という土地そのものが望んだことでもある。この大地は血を求めている。
在日韓国朝鮮人は自身の歴史に興味関心が無くても生きていけるし、歴史を知らなくても生きていける。そのまま日本の社会に同化していけばいい。
おれもそうやって生きてきたわけだけど、でもやっぱり三年前、自分自身が生きた「東九条の歴史が歪められる、塗りつぶされる」ことにおれは我慢ならなかったし、強烈に抗議をした。
東九条の歴史とは、東九条をかつて生きた「死者たちそのもの」のことである。だから連中のやっていることは死者たちへの冒涜や墓荒らしのようにおれは感じた。
「帰属意識」というなら、おれの場合それはこの土地をかつて生きてきた死者たちそのものに「帰属意識」があるのだ。だからやっぱりそれは死者たちに申し訳ないと思った。
「死者たちにもうしわけない」という感覚をおれがずっと持ちえたのは、この東九条で無念を全力で生きて死んだひとたちがいたからであり、その無念がおれを生かしているという感覚があるからである。
怨念ではない。無念。だけど、おれはこの無念ってやつが嫌いではない。無念が「わたし」を人間にするのだと思うから。
おれはつい最近まで朝鮮の歴史や文化や言語や歴史に何の関心ももってないし、今まで学んでも来なかった。
だからありえない間違いを犯してしまう。それは、死者たちへの侮辱でもある。おれもまた、罪をひとつ犯している。
だけど、ちゃんと無念を集めるために、
おれが知らなかった無念が在ったことに触れるために
「おれ」が人間になるために
もう少しだけ、歴史に触れてみようと思う。
それは朝鮮人としてのアイデンティティの確立とかそんな話ではない。「わたし」のことはどうでもいい。
ただおれは、今につらなる死者たちにもっともっと触れてみたい。
人間そのものに触れてみたいのだ。
おそらくそれが
20251016記す