【こころ身体と人格】
コンプレックスとは人格の影のことである。だが、こころ身体にとっては人格が影である。こころ身体が非常に調子がよく、輝きを増す時、
人格(=「わたし」)は影として認識される。この人格、この「わたし」がこころ身体の影に過ぎないと知った時の衝撃は計り知れないものがある。
正真正銘本物だと思っていた「わたし」が影に過ぎなかったのだから。今まで自分は太陽だと思い込んでいたのに自分は実は月だったと知ってしまったような衝撃。
だが、こころ身体が眩く輝くならば、影は消え去るのが運命である。影(「わたし」)が消えたくないと反乱を起こす時、影(「わたし」)はこころ身体を閉ざす。
「わたし(影)」が「わたし(影)」で在り続ける為に。閉ざされたこころ身体は硬直し、淀み、朽ちていく。こころ身体を殺した影はついに死とともに消え去る。
逆説的だが影(「わたし」)が生き残るためには、影(「わたし」)は心身体の輝きの中に溶け去るしかないのだ。
こころ身体の調子がよく、波に乗っていると人格が邪魔になる。こころ身体は常に全体性を実現しようとするのに対して人格には偏りや傾向があるからだ。
人格の偏りは全体性を実現する際に邪魔でしかない。だからこころ身体の調子が良い時はとにかく「わたし」は余計なことをせず
こころ身体の邪魔をしないように気を配らなければならない。
心身の調子が悪いというのは当然苦しい。だけど心身の調子が悪い時というのはある意味で分かりやすい。
マイナスをプラスにもっていってゼロ(自然体や普通の状態)に収束させるだけだからだ。とりあえずまずは反転すればいい。
だけどこころ身体の調子がすこぶる良い時の苦しみというのは人格を消さなければならないという苦しみがある。
消す、といっても人格を完全に消すことなどできないので、丸く磨くという感じだろうか。今まで自分が拘ってきた事、執着してきたこと、
許せないこと、そういう尖りを丸くしていく過程が必要になる。
こころ身体の調子が良いとき、この人格のエッジにぶつかりそれを丸くできなくなるとそこから反転してこころ身体は調子が落ちる。
まるで影が光を呑み込んでしまうように。人格というのは「わたし」の歴史そのものだし、わたし個人のみならず家族や先祖代々、
その土地そのものの歴史でもあるのだからそれを消したり執着を無くすと言うのはなかなか困難ではある。
尖りのある人格を球体に研磨するのは生まれ育って今まで培ってきたアイデンティティや人格を手放して、
こころ身体に由来する自然な人格へ移行する営為だとでも言えるだろうか。それはもはや人格ではなく心格や身格とでもいうべきものかもしれない。
「わたし」が抱える問題はすべて人格である「わたしらしさ」が作っている。「わたし」はわたしらしい苦しみをもつし、
わたしらしい問題をくりかえすし、わたしらしく不幸になる。もちろん、わたしらしい幸せも享受しているわけだが、
それはやはり角のある尖った幸せでどこかぎこちなくぎくしゃくしている。端的に、「わたし」の幸せとこころ身体の幸せは違うのだ。
「わたし」の幸せを追求するとこころ身体が犠牲になる。こころ身体の幸せを追求すると「わたし」は邪魔になる。
だがこころ身体あっての「わたし」なのだからこころ身体の幸せを追求するのが自然であるし健やかだ。
だけど「わたし」が執着する「わたし」自身を手放したり角を丸くすることは難しい。齢を重ねれば重ねるほど難しい。
が、丸こそ一番尖っているという事を理解するなら、丸くなるのも受け入れやすくなる。この、丸や球こそ尖っているのだという体験を重ねていくなかで人格への執着は薄れていく。
それは人格から心格、身格への移行の過程である。表現者や宗教家はその特別な営為の中でそれを体験することが多いだろうからそれを掴みやすいかもしれない。
が、それは日常のなかでこそ試されなければならない。非日常のどさくさに紛れて人格を丸くしてもあまり意味はない。
そんなものはまたすぐに元に戻る。日常での変化は微々たるものだが永続する。
人格が不要なのかといえば勿論そんな事は無い。夜に月が必要なように、こころ身体の闇を照らすのは人格なのだ。
「わたし」がいるからこそ立つ身体もある。「わたし」がいるからこそ立たない身体もある。ただ、夜を照らす月も尖った月よりは丸い月の方がいい。
丸や円は全体性へと導くかたちだからだ。尖った月はこころ身体を偏らせ硬直させ、病してしまう。月が丸い時、人格とこころ身体は調和する。