【連載】 『東九条、死者無き多文化共生の行方≪20≫』

東九条とは誰なのか、何なのか? その5

 『「共に生きる」ことができない「現実」』  その④アート系共生 その1一般社団法人HAPS

   
もとめよ、さらばあたえられん
   
だが、
   
もとめてもいなければ、あたえられもしていない何かが急にやって来た時、
   
それは「他者」ですらない、
   
「異物」のような何かがやって来た時、
   
それはこの地域に災いをもたらすのだろうか、福をもたらすのだろうか?
   
アート。
   
アート、アート、アート、…、アート
   
「他者」ですらない「異物」が
   
隕石のように
   
二階、三階、四階、…n階から、東九条に降ってくる
   
東九条という地域は、かつては激しい貧困、差別、暴力、収奪があり、それに端を発する劣悪な住環境、教育、福祉、労働環境の問題、等等、様々な問題を抱えていた。 そんな東九条地域だが、地域の外から主に大卒の活動家や運動家あるいはキリスト者がやってきて、東九条の様々な問題解決に力を尽くしてくれた。 当時の大卒者のいわゆるエリート層たちが、自分たちの持ちうる力、知性、教養、社会性、などなどを東九条の「一階」の底辺層のために使ってくれたのである。 平山はそれを「任侠心」だと感じているが、彼女彼らが東九条にやって来た動機はそれは様々だろうがそこにはあまりにも酷い現実に対する「公憤」があったはずである。 現在ではかつての問題は「改善」した。そして現在この東九条地域に外部からやってくるのは「多文化共生」や「アート」の関係者である。
   
かつて東九条地域「一階」の住人の自分たちだけでは解決できない問題を一緒に解決してくれる外からやってきた「二階」の人間は「一階」の住人の「生活」に必要な人たちだった。 だけど、最近この地域にやってくる「二階」の人間は、東九条地域「一階」の住人にとって必要でもなければ、なんら興味関心の無い人たちである。 「多文化共生」「共生」「アート」。どれもこれも、「一階」の生活とは何の関係も無い言葉や営みである。
   
さて、連載前回に書いた東九条地域で活動している「一般社団法人HAPS」について少し書いてみたい。
   
一般社団法人HAPSのホームページ HAPSについて https://haps-kyoto.com/about/ より引用する。
   
以下引用━━━
   
HAPSとは
   
東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(略称:HAPS)は、芸術家と芸術を支える人のためのよろず相談所です。
   
HAPSは若手芸術家が京都市内に居住し、活動し続けることができる環境を整えるために、居住・制作・発表、仕事コーディネートなどの包括的な支援活動をおこなう組織です。
また、2017年からはこうした取り組みを広げ、文化芸術の力を活用して、多様な背景を持つ人々が共に生きることのできる社会のあり方を探り、 その仕組みづくりを目指す事業(「文化芸術による共生社会実現に向けた基盤づくり事業」)を実施しています。 2022年度からは、「障害者等による文化芸術活動推進事業」を文化庁より受託し、公立美術館における障害者等による文化芸術活動を促進させるための事業にも取り組んでいます。
   
━━━引用以上
   
さらにHAPSホームページの アートと共生社会https://haps-kyoto.com/social_inclusion/  より引用する
   
以下引用━━
   
アートと共生社会
   
文化芸術の可能性を追求し、共生社会のあり方を探る。
   
HAPSは、京都市より2017年度「文化芸術で人が輝く社会づくりモデル事業」、2018年度「文化芸術による共生社会実現のための基盤づくり事業」を受託し、実施しました。 これらの事業は、文化芸術の力を活用して、多様な背景をもつ人々が、共に生きることのできる社会のあり方を探り、その仕組みづくりを目指すものです。
   
2019年度からは、上記事業の成果を引き継ぎ、「文化芸術による共生社会実現に向けた基盤づくり事業」として、受託事業からHAPSの主催事業となりました。
   
現在は共生社会実現に向けたモデル事業の実施と、他分野の事業者・文化施設とアーティストの協働を促進する相談事業「Social Work / Art Conference」を主として実施しています。
また、普及啓発講座や先進事例のリサーチ等も実施しています。
   
※本事業についての詳細は各年度の事業報告書をご参照ください。
   
━━━引用以上
   
>文化芸術の力を活用して、多様な背景をもつ人々が、共に生きることのできる社会のあり方を探り、その仕組みづくりを目指す
   
とのことである。
   
HAPSにとっての共生とはまずは「事業」であり、「仕事」である。「仕事」として「>文化芸術の可能性を追求し、共生社会のあり方を探」っているわけだから、それはやはり「共生のための共生」となる。
   
だが、「仕事」として「共生事業」をすること自体は悪い事ではない。共生や多文化共生というのはとてつもなく難しいことであって、それはある種のプロ意識やプロの技術や職業倫理無くしてはできないような側面があるからだ。 だから「仕事」をきっちりやってくれてさえいれば、「事業」として「共生」に取り組もうが何しようがよい。 平山が前回の連載でネットワークサロンの施設長前川修を激しく非難したのは、前川修が「多文化共生の仕事」が全くできていないからである。
   
HAPSを知るアート関係者からはHAPSについていろんな話を聞く。良い話もあれば、悪い話も聞く。HAPSが東九条に招聘したアーティストが、東九条地域住人を侮辱し、著しく傷つけたような事例もある。 だが一方、HAPSが招聘したアーティストが崇仁地域でとても素晴らしい表現活動をしたことも、地域住人と共同でつくった作品が非常にすばらしいものであったことも平山は実際に知っている。 「仕事」と言えど人間がやることなので、良いことも悪いことも両方あるのは当然なのだが、失敗した時にちゃんと調査、反省、謝罪、対応さえすればそれでいいと平山は思っている。
   
その上で、
   
HAPSにとっての東九条地域における『「共に生きる」ことができない「現実」』とは何なのかといえば、やはり「何もない」のだ。
   
それが良いとか悪いとかではなくHAPS自身に東九条と「共生」したいという動機や必然性や想いは無いからである。
   
『「共に生きる」ことができない「現実」』を抱えている人や集団や場が「共生」を実現できるように「アート」によってアプローチするというのがHAPSの「仕事」なのだろうと思うが、 「事業としての共生」には良いところ悪いところ、できる事と「限界」がある。
   
その「限界」を踏み越えて「共生」しようとするとき、排除や収奪が起きる。だからこそ「共生」の「限界」を見定めなければならない。 その「限界」こそが『「共に生きる」ことができない「現実」』そのものだからである。
   
事業報告書なので全てを額面通りに受け取ることはできないのだが、 HAPSホームページにある、共生社会事業報告書 https://haps-kyoto.com/annual_report/annual-report-kyousei/ を読んでみると、 これがなかなかおもしろい。 平山は「地域に近づいてくるアート」に対して「地域を植民地化する軽薄な連中」というステレオタイプな偏見があって、実際そういうアート関係者もいるのだが、このHAPSの共生社会事業報告書は読みごたえがある。 軽薄なアート関係者とは一線を画す真面目さがあって、アート側の人はそんなふうに地域を見ていたのか、そんなふうに動いていたのか、と新鮮な発見がある。ただ属人的な要素は強いとは思うが。
   
平山とHAPS関係者との関わりは、平山の「東九条空の下写真展」への抗議においてである。 HAPSのアートコーディネーターであるC氏が空の下写真展の実行委員のメンバーであったことと、「東九条空の下写真展」はHAPSの「モデル事業」であったことから平山はその抗議をHAPSおよびC氏にも向けた。 「アートのプロが関わっているのに何でこんな酷いことになってんねん」と。 その抗議を受けて、HAPSのC氏とD氏と平山とで直接話をした。C氏とD氏からは自らの不作為は率直に認めた上で謝罪と反省のことばがあり、 平山の質問には隠さず正直に回答をしてもらえたし、率直に話もできたし、HAPSという団体が東九条という地域を食い物にしてやろうとか、 自己実現の踏み台にしてやろうとかそういう邪な動機でやってはいないということはよくわかった。平山が常々言っているような「アートによる地域の植民地化」という問題についても強く自覚していて、 そうならないように苦心していることもよく理解できた。
   
東九条空の下写真展は失敗した。失敗の原因は様々あるけれども、その一番の要因は東九条地域「一階」の人間が実行委員会の中にほとんどいないことである。 東九条空の下写真展実行委員会のメンバーはほぼ、東九条地域外からやってきた「二階」の人間で構成されている。 例えるなら、黒人のスラム街の写真展を、スラム街の外から来た白人のインテリの団体が行うようなものである。そんなやり方でうまくいくわけないだろう。 仮に、実行委員会のメンバーの三割を東九条地域「一階」の住人にするだけで、空の下写真展はましなものになるだろう。たった三割でいい。 「共生」なんてことばを日常で使わない人間を三割入れるだけで「共生」が起きる。
   
そういういびつなメンバー構成になっているのはHAPSのコーディネーターC氏の責任ではないのだが、 この写真展が、「東九条多文化共生エリア」の中だけで完結していたなら成功していただろう。だけど、この写真展は「多文化共生エリア」の外に出てしまった。物理的にも、心理的にも。
   
一年目、空の下には東九条の多文化共生の街があった。だが、二年目、空の下には東九条の死者たちがいた。東九条空の下写真展実行委員会には、この「死者たち」に対応できる者がいなかった。だから失敗した。 そしてこの「死者たち」に対応するのは「仕事」で「共生」している人には困難だろう。なぜならそれは「仕事」や「事業」という「社会性の外」にある事象だからである。
   
これはHAPSのコーディネーターC氏を責めているわけではない。ただ、「事業としての共生」には限界があるということである。その限界とは何かをしっかり見定めなければならない。
   
HAPSという団体はそれが「事業」である以上、既存の社会の中でその枠組みの中で活動している団体である。 その社会の既存の枠を壊したりそこからはみ出したりして活動するような運動団体ではない。 また、京都市から事業委託されている以上その「枠」をはみ出すことはできない。でもそれが一概に悪いわけではなく、社会にはそういう団体も必要であることは確かなのだ。 いずれ改めて書くが、東九条マダンという「まつり」も既存の社会の枠の中でその枠を壊さずはみ出さずなされる「まつり」である。だから平山にとってはいささか窮屈なのだが、そういう「まつり」も社会には必要だ。
   
この社会はそれが良い悪いは別として、現実として「地底、地下、底辺、一階、二階、三階、四階、…n階…」というピラミッドの階級構造をしている。 だから一般の人は今よりもいい暮らしがしたいなら、より上位の階級上昇を目指して努力するし、その階級上昇は数世代かかることもある。もちろん階級上昇したからといって幸せになれるわけではない。 それぞれの階級に「地獄」はある。もちろん「天国」もある。
   
平山はこの連載において、この階級間で生じる差別や抑圧や支配や植民地化のことをずっと指摘している。 この「階級」を壊すというのはいわゆる「革命」である。だが「革命」には血が流れるし、「革命後」はやはり新たな階級ができるだけである。 現実的にはこの「階級構造」は温存しながらもそれをより良い「間合い」や「温度」に関係を調整し続けるという「改善」的な対応をすることになる。
   
平山は、革命でもなく、改善でもなく、この「社会=ピラミッド」の「外」に出ること、そして「社会=ピラミッド」と「外」とを行ったり来たりすることが「階級間」の分断を「無化」するひとつの在り方なのではないかと思う。 「社会=ピラミッド」と外を行ったり来たりすることこそが、社会における自然なかたちの革命や改善をもたらすのではないかと思っているがそれはいささか楽観的にすぎるだろうか。 どんな階級の人間も、「社会=ピラミッド」の外に出てしまえば同じ人間である。 それは何も大げさなことではなく、釣りバカ日誌の浜ちゃんとスーさんのような関係でもよいわけである。 海の上で釣りをすることはピラミッドの外なのだから。もちろんあれはスーさんが「裸になれる」からこそできるわけで、ピラミッドの外に出ることは階級が上の者ほど困難になる。 つけてる仮面や鎧が重すぎるからである。あるいは「じゃりン子チエ」の花井拳骨なんかも、「社会=ピラミッド」と外を行ったり来たりできる人物であろう。
   
そのような「社会=ピラミッド」の外にある「場」というのは実はあちらこちらにある。そしてそのような「場」で「共生」や「多文化共生」ということばが使われていることは無い。 「共生」ということばをつかったとたんそこは「社会=ピラミッド」に組み込まれるからである。 だから「共生」や「多文化共生」という実践や思想はあくまで、「社会=ピラミッド」の中での実践や思想であるということに他ならない。 だから「共生」や「多文化共生」はどうしても「階級」という分断や排除、搾取は温存されたままになる。
   
初期の希望の家のことを少し考えてみる。海の向こうからやって来たディフリー神父やマンティカ神父が、非常に劣悪な環境にあった東九条四ヶ町地域で、 関係者から聞くところによれば、それこそ身銭も切って、深夜でも地域住人から助けを求める声が在ればかけつけ、粉骨砕身、地域のために尽くしてくれたという。 ここまですることができたのはやはりキリスト教という信仰があったからであろうと思われる。2000年の歴史の蓄積があるキリスト教の信仰に支えられた人類愛や隣人愛の精神があるからこそできたことであろう。 このような信仰に支えられた愛は「階級」など何の問題もなくその分断を無化する。基本的に宗教の教義において階級による区別や分断は無い。「貧乏人は救われません」なんて教義は宗教としてはありえない。 神は無限だ。宗教は社会的階層、ピラミッドの「外」にある。だからこそそれは「救い」足り得るし、信じるに値する何かとなる。
   
この、宗教的営為を背景にした「共生」をここでは「無限共生」と呼ぶことにする。もちろん本来それは「共生」ということばで表現できる意味のものでは無いが、論を立てるために仮に「無限共生」と呼ぶ。
   
それに対し、社会=ピラミッドの中で営まれる「共生」を「有限共生」と呼ぶことにする。
   
例えばディフリー神父は「社会=ピラミッド」の外に「キリスト教の信仰」という「精神的支え」があったからこそ、「社会=ピラミッド」の中で活動できたのである。 つまり「無限」が「有限」を支えているというかたちになっている。だから「無限共生」が可能になる。
   
HAPSは、「社会=ピラミッド」の中だけで完結し、実施される「事業」としての「共生」なので当然「有限共生」である。 夜中クライエントから急に呼び出しがあったりしても駆けつける必要は無いし、駆けつけてはいけないし、身銭を切って仕事をしてはいけない。 「事業」なので「無限」に「共生」してはいけないのである。そんな事をすれば働く人間も壊れるし、自他の境界がぐちゃぐちゃになってしまう。
   
「京都市地域・多文化交流 ネットワークサロン」もこれも事業なので「有限共生」である。有限どころか、施設長前川修が地域住人を意図的に排除するのでこれを「選民的共生」と言ってもいいだろう。 それはもはや共生でもなんでもないが。
   
東九条マダンは、「社会=ピラミッド」の中の「まつり」だけれども、「だれもが参加できるみんなのまつり」という事を徹底していることに関しては「無限共生」への志向性がある。 それはやはり東九条マダンが「事業」ではなく理想を求める「運動」だからということもあるだろう。
   
「共生」といっても、有限か無限かでその範囲や定義は変わる。だから一口に「共生」といっても、その場その場によってその「共生の範囲」は決まっている。だからその「共生」の範囲の外の存在は必然的に「排除」される。
   
「無限共生」は文字通り範囲の限定が無く、人類全て、生きとし生ける者全て、世界の全て、この世の全て、全てが全てとの間で共生を実現しているという状態である。
   
つまり、「共生」と呼ばれるような営みはかつてはその共同体における宗教家や、共同体の「掟」が担っていたことであり、「共生」とは本来的には宗教的な営みであり、掟であり、感性なのだ。
   
その宗教的な営みを、
現代の都市社会(=有限)において、
特定の信仰などを持たず、非近代的な「掟」に縛られず、
自立した個人を尊重しながら、あらゆる属性の人が、
「共に生きる(=無限)」という状態を志向するのが「共生」であろう。
   
共生のベースには当然「人権」がある。宗教は「人権」とは全く違う理路で関係する在り方である。 それは時に非近代的で、非合理的で、野蛮で、排他的で、差別的で、都市型近代人にはとうてい受け入れられない内容のものであることも多い。だがその
   
「共生」という非近代的だからこそ可能だったことを、「近代」の枠組みの中でやろうとしているのである。
   
それは
   
有限(=社会)の中で無限(=共生)を成し遂げようとしているのだから非常に困難な事をやっているわけである。
   
何故共生とアートが組み合わされるのかといえば、アートに「無限」を担う役割が求められているからである。 要は、アーティストにはそのプロジェクト限定の「司祭」やシャーマンのような役割が求められているといったところだろう。 もちろんそれは「ピラミッド=社会」を壊さない、外に出ない、という範囲での「仮想無限」でしかないが。
   
ここで東九条空の下写真展の話に戻るなら、何故この写真展が失敗したかというと、実行委員会メンバーのなかに「無限」を生きている者がいなかったからである。 「有限共生」の技術や感性だけでは、東九条地域を直接扱った表現などできやしない。 なぜなら東九条地域はかつてこの地は「社会=ピラミッド」の「外」で生きてきた者が多くいて、その死者たちの「記憶」がこの地域をつくっているのであり、 今もなお、「社会=ピラミッド」の「外」に生きている者たちもいるからである。 HAPSは「京都市地域・多文化交流 ネットワークサロン」の「登録団体」になっていることからもわかる通り、「東九条多文化共生エリア」という「社会=ピラミッド」の「内」の団体である。 だからHAPSが「東九条多文化共生エリア=ピラミッド」の中だけで「活動=有限共生」する分には何の問題も起きないだろう。だが、そのピラミッドから外に出る時、「解決できない問題」が起きる。
   
「社会=ピラミッド」の外には「有限共生」が通用しない『「共に生きる」ことができない「現実」』があるからである。
   
これが、HAPSの「事業としての共生」の限界である。もちろんそれが悪いとかダメだ言っているのではない。有限が、有限を踏み越えて無限に手を出してはいけない。 ピラミッドの中で活動している団体が、ピラミッドの外に出てはいけない、という話である。それをすると必ず事故になるからである。
   
だが、「ピラミッド=社会」の中だけで「有限共生」する限り「階級」は強化され、必然的に差別や排除、植民地化が起きる。厄介なことに「共生」や「多文化共生」ということばはそれを隠蔽してしまう。きれいな言葉で。
   
だから「共生」は非常に難しい。
   
「有限共生」は「共生」を実現したとたん、新たなる『「共に生きる」ことができない「現実」』を作り出してしまう。そしてその被害にあうのは常に、最下層の「一階」「底辺」の人間である。
   
だから「有限共生」だけでは絶対にうまくいかない。「有限共生」と「無限共生」とが組み合わさったり、 共鳴しあったりするようにしなければならないのだが、問題は何によって「無限」を実現するのかだが、それは人それぞれだろう。平山はやはりそれは「身体」だと思うが。
   
さて、今一度整理してみよう。
   
①「希望の家カトリック保育園」の多文化共生保育。…実体や必然性がある「多文化共生」。事業なので「有限共生」
   
②「東九条マダン」の多文化共生のまつり…実体や必然性がある「多文化共生」。宗教的志向性の無い、社会の中の「まつり」なので「有限共生」だが「だれもが参加できるみんなのまつり」という「無限共生」的志向性をもっている。
   
③「京都・東九条CANフォーラム」の多文化共生のまちづくり… 実体無き「多文化虚無生」。行政のひもつきになりたかった「有限共生」
   
④「京都市地域・多文化交流 ネットワークサロン」のビジネス多文化共生…東九条地域を排除し非人間化する、実体無き「多文化虚無生」事業なので「有限共生」だが、施設長前川修が地域住人を選別排除するので「選民的限定共生」
   
⑤「一般社団法人 HAPS」のアートによる共生事業。… 実体はあるが地域にとって必然性はない。事業なので「有限共生」。アーティストやアート活動によって「仮想的無限」を担保しようとする。
   
となる。
   
見ての通り東九条地域の中ですら、一口に「共生」や「多文化共生」といってもその内実は様々で、まさに「多様」であることが伺えよう。
   
 有限だ無限だとえらそうにものを言っても、平山はどこにでもいる地域のうるさい、めんどくさい、ややこしいおっさんである。しかも文章はしつこく攻撃的で読みにくい。 空の下写真展への抗議の文章でおれはHAPSのC氏のことを激しく非難し、その責任を問うた。だが、C氏はD氏をともなって直接平山に話をしに来た。 平山もここ三年ほどいろんな個人や集団に抗議をしているけれども、抗議された側の反応は二つに分かれる。責任をとらずに逃げ去るか、直接話を着けに来るか、である。 これはおれが感じた主観にすぎないけれども、C氏と話をした時、C氏からはプロとしての矜持のようなものを感じた。 自分の仕事に誇りがあるからこそ、ちゃんと検証したり反省したり、謝罪ができる。それは中川眞氏にも感じたことである。 確かに、平山のようなめんどくさいおっさんの抗議に直接対峙するのは怖いことだとはおもうけれども、でも結局は自分の仕事に対する誇りがその恐怖を凌駕するのだろう。 「アートをなめんなよ」と。勿論C氏は「なめんなよ」とは言ってないが平山には、良い意味でそう感じたということである。 自分の仕事に誇りがもてるのは、ちゃんと仕事をしてきたという自負があるからだ。この連載を書くためにHAPSの事業報告書を読んで、それがよくわかった。C氏はちゃんと、「仕事」をしていた。
   
プロであっても無くても、何かそういう意地とか誇りのような何かがなければ、他人とまともに関わることなどできないのだと思う。 それは個人的でかつ小さいささやかなものだが、信仰に似たものであって、それは自分だけの「小さな無限」である。本当に真の意味で「共生」ができる関係というのは、 この「小さな無限」がある者どおしの間にしか起こらないのかもしれない。 現代ではもう昔のような共同体は無い。信じるに値るするような信仰も無い。 今はかつてのように無条件に「無限」を保証してくれるようなものは何もない。今は、個人個人がおのおの、「小さな無限」を育まなけれなばならない時代となった。
   
個々に「小さな無限」があること。これが現代社会においての「共生」の前提である。
   
そして、「虚無」とはこの「小さな無限」が無い「わたし」のことをいう。
   
「虚無」に「共生」などできやしない。
が、虚無ほど共生だの多文化共生だの声高に主張する。    
さて、東九条地域にはHAPSの他にいろいろとアートが入ってきて活動しているが、その 「共生」をテーマに掲げた企画をしながら東九条地域に分断と諍いをもたらした組織がある。 しかもその組織は、平山からの申し入れに対し、当初は対応するそぶりを見せながら、11ヶ月ずるずる対応を引きのばし、 結局一切何の説明もせず、責任も果たさずに非人間的な文章を送り付けて逃げ去った。 芸術を看板に掲げるその組織は、プロでありながら自らがやらかした差別や失敗に何一つ責任をとる「能力」がなかった。 能力がないからまともな仕事ができない。だから仕事に誇りも無い。誇りが無いから反省すらできず虚無だけ残して逃げ去った。卑怯、卑劣、卑屈。
   
東九条のとなりに、大きな虚無がやってきた。
   
次回、京都市立芸術大学「共生と分有のトポス」事件 について書く。
   

   

   

   

   

   

  
  


  

2025年12月7日

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