【身体技法はなぜ効かなくなるのか】

   
 【身体技法はなぜ効かなくなるのか】  世の中にはたくさんの「技法」がある。身体の技法、心理療法的なこころの技法、宗教的修行をベースとした神にまつわる技法。 これらを身体、心体、神体、の技法とする。どのジャンルの技法もやってみるとわかるが最初は何か効果があるのだがやがて効果がなくなっていく。 まるでクスリのように。そこでまた違うジャンルの「技法」に飛びついてはそれを試しては効かなくなって、また次のジャンルの「技法」へ… と「技法」の遍歴の旅を繰り返す。もちろんその探究自体は悪い事ではないが、ここで探求の方向を変えて何故「技法」は効かなくなるのだろうか? という事を探究することもまた大切になる。
   
 「技法」が「効く」という「効く」はもちろん「効果、効用」の事である。その「技法」を実行することで何らかの変化があるということだ。 すなわちその「技法」を使うことで「問題が→解決する」ということが起こるわけである。 どのようなジャンルの技法であれこのような「効果」、すなわち「問題が→解決する」ということは実際に起こる。 「悪い姿勢が→良くなった」「病気が→治った」「無職から→職をえた」「愛されない→愛された」…。 このような「技法」の「効果」は枚挙にいとまがない。
   
 だが「技法」はやがて効かなくなる。何故か。これは逆説的なのだが、「問題を→解決」しようとすると「技法」は効かなくなるのだ。 矛盾した話なのだが「問題→解決」の為に「技法」を使うのだが、「問題→解決」の為に「技法」を使うと「効果」は無くなる。 これはどのジャンルにも、どのような「技法」にもこのような事体が起こる。 では「技法」には何の意味も意義も無いのではないかいう話になるがそうではない。
   
 身体、心体、神体の「技法」が「問題→解決」の為にあるのではないのだとしたらそれは一体何のためにあるのか。 例えば身体技法であるなら、身体技法というのは「わたし」が身体そのものとひとつになる為に身体技法はある。 心体技法ならば「わたし」がこころと触れ合い、こころそのものとひとつになるために心体技法はある。 神体技法ならば「わたし」が神、とはざっくり全体性のことだがそれを世界といってもいいし、宇宙といってもいいし、 神と言ってもいわなくても何でもいいが大きく自分を取り巻く全体性とのつながりを取り戻すためにある。 あらゆる「問題」の根源は「わたし」がこころ、身体、世界から切り離されたことにある。 だから「わたし」が切り離された「全て」ともう一度つながりを取り戻す事こそ「技法」の本懐なのだ。
   
 つまり「技法」は個別の問題を解決するためにあるのではなくからだそのもの、こころそのもの、 せかいそのものとの触れあい、調和し、一つになるためにある。その過程において個々の「問題が→解決」するという現象が起こることがあるということである。 個々の「問題→解決」はあくまでオマケにすぎない。だがこの「技法」の本義本懐を忘れて「技法」を個々の問題解決に使用、 乱用するとその技法は効力を失い全体性を損ねそして「わたし」は世界から切り離された惨めなままの存在に留め置かれる。 そしてまた「技法」の遍歴の旅にでることになる。
   
 だがもちろん「わたし」が「技法」を探し求めるのは個々の「問題→解決」のためである。 その事自体は切実な動機であり、大切にされなければならない。だがあらゆるジャンルの「技法」がこんな効果があった、 ああ効果があった、何だかんだと強調するあまりに「技法」はその本懐を見失いそして「わたし」はずっとこころ≒身体≒世界から切り離されたままだ。 「わたし」と「技法」は出会っているのにすれ違ったまま。
   
どんなジャンルの「技法」にも優劣はない。その「技法」に固有のこころからだせかいとの繋がり方があるだけだ。 だから真の問題は「技法」を使う「わたし」の構えの方にある。その「技法」に特有の傾向や方向性はあれど、 特定の効果を狙わない、意識しない。まるでこどもの遊びのように。こどもの遊びは「問題→解決」のためにするわけではない。 ただただ手段と目的が一致している。こどもの遊びは「問題即解決」だ。このような構えであればどんな「技法」を使っても「わたし」は世界と調和し一致する。 そのとき「わたし」は わたし になり、「技法」は あそび になる。わたしがあそぶ時、わたしは一致して調和し、共鳴している。 あそびがないとき、すなわち世界が「問題⇔解決」に分裂している時は一致や共鳴が損なわれている。 その分裂や裂け目こそが「わたし」そのものだ。個々の問題はその分裂から生じた悲鳴である。 悲鳴を無くそうとするのではなく、分裂を再びひとつにして再生し、共鳴させる。これこそが人が人生をかけての全身全霊のあそびだ。 「技法」はこのあそびを思い出すためのかけがえのないきっかけである。だから効く効かないにこだわる必要は無い。 自分に何か合うと感じた技法があればやり続ければいい。技法があそびになった時、それはもう効いていなくても効いている。