ドン・ファンもまた、現代の多くのアメリカ先住民のシャーマンとは違い、自分の履歴に執着していない。
自分のコミュニティにさえ、こだわっていない。〈略〉彼は意識的に自分の履歴を消し去り、過去と決別し、自分の心を周囲に対して開いていった。
ヨーロッパやアメリカからの侵略者を憎むアメリカ先住民としての一面的なアイデンティティをかれは完全に超越していた。
彼は自分が祖先から受け継いだものを愛していたが、そのエッセンスだけをつかみ、敵に対する憎しみを手放すことで、それを超越したのである。
彼は自分の両親が悲劇的な死を迎えたのは、メキシコの迫害者に対する復讐の気持ちを手放すことができなかったためであることを認識していた。
彼は語っている。「両親はアメリカ先住民らしく生き、そしてアメリカ先住民らしく死んだ。
しかし、残念なことに、ひとつのアイデンティティだけに執着して生きていくには、人生があまりにも短すぎることの気づくことができなかったのだ」と。
「シャーマンズボディ」 アーノルドミンデル著 青木聡 訳 藤見幸雄 監訳 コスモス・ライブラリー p64より引用
連載において平山が生まれ育った東九条地域のことや在日韓国朝鮮人のことをずっと書いているので、
平山はさぞかしアイデンティティにこだわりがあるのかと思われているかもしれないが、実はそんなことはない。愛着はあるけど、こだわりはない。
浜辺ふうや空の下写真展や京都市立芸術大学がなにをしようとも平山のアイデンティティが傷ついたり破壊されることは無い。
では平山が何に怒っているのかというと、この虚無たちは、アイデンティティではなく「歴史感覚」を破壊しているからだ。
「歴史感覚」とは「わたし(アイデンティティ)」がそこから生じてくる源泉である。歴史感覚が無ければ「わたし(アイデンティティ)」は生じてこない。
アイデンティティとは「生きているわたし」の感覚、
歴史感覚とは「生かされているわたし」の感覚と言ってもいいかもしれない。
そして「生かされている」というのは「死者」に生かされているということであって、
死者は「死者たち」へとつながっているのだから必然それは生命そのものや身体とつながる感覚をもたらす。
例えばネット右翼や在特会などの排外主義者のわかりやすいヘイトスピーチ。
「〇〇人は日本から出ていけ」や「〇〇人は〇ね」などのヘイトスピーチは在日外国人の「アイデンティティ」への攻撃でもある。
もちろんこれも嫌なものだが、少なくとも平山にとってその「歴史感覚」が破壊されるようなものではない。
一方、平山が連載において厳しく指弾している東九条多文化共生エリアの連中がやっていることはアイデンティティを毀損するヘイトスピーチではないが、
こちらの「歴史感覚」を破壊する。だからこそおれは怒り狂っている。
「アイデンティティ=わたし」に過剰にこだわると人間性を失う。「アイデンティティ=わたし」を守るためなら嘘もつくし平気で人殺しすらしてしまうようになる。アイデンティティは中毒する。
在日であることに酔ってしまう。東九条地域住人であることに酔ってしまう。「わたし」に酔ってしまう。酔ってしまえば表現は曇るし、酔ったまま生きていると人間で在ることはできない。
この連載を書くに当たって、おれは「わたし」の事を書かざるをえないのだが、どれだけ気を付けていても「わたし」を書くことに酔ってしまう。
大げさな表現はいつしか嘘となり、いつしか嘘を書くことにもためらいが無くなっていくかもしれない。そういう意味でこの連載は危ない橋を渡っている。
「わたし」を書くことは必然的に「酔う」ことだが、酔っ払いながらも、どこまでも覚めていなければならない。「酔い」に負ければ死が待っている。
だから冒頭に引用したアーノルドミンデルの文章はよくわかるし、戒めとしても常にこの文章をこころの隅に置いている。
その人生において、それが馬鹿気たことだとわかっていても、酔いたくなくても酔わなければいけない時もある。
酔っぱらう時、自覚が試されている。
平山と最近関わり始めた人は、連載が始まるまで平山が在日韓国人であることを知らなかっただろう。
平山の表現にはいわゆる在日っぽさや朝鮮っぽさは全くないし、自身の「アイデンティティ」を表現したことは無いし、これまでSNSで平山自身の「わたし」の話をしたことは殆どない。
何故なら「自明な事」を表現する必要は無いし承認してもらう必要も無いからである。そう、「歴史感覚」さえはっきりと在ればアイデンティティをことさら表現したり他者からの承認を求める必要は無い。
覚めていれば、酔う必要は無い。
昔、とあるライブハウスでの平山の「儀式」を見た年配の在日の方が終演後、「平山さん、あれが朝鮮の歌なんや、あれが朝鮮の踊りなんや!ありがとう、ありがとう!」と言って涙を流しながら喜んでくれたことがある。
平山の「儀式」は全く在日らしさもなければ、朝鮮の文化をトレースしたものでも無い。だけどその人はそこに在日の「歴史感覚」を感じてくれたのだと思う。
おれは表現の場において在日や東九条住人としての「アイデンティティ」は一切表現しないが、その表現は在日としての、あるいは東九条を生きた人間としての「歴史感覚」から生じている。
これは浜辺ふうや東九条空の下写真展と真逆である。東九条多文化共生エリアの表現には「アイデンティティ」はあっても「歴史感覚」が全くない。だから全てが「薄っぺらい」。
表現の問題に限らず、何故かアイデンティティはあっても「歴史感覚」が無い「二階」の「根無し草」の連中が東九条に集まってくる。
だから東九条地域において「多文化共生」ということばや思想は、「歴史感覚が無いわたし」のための思想や「教典」として必要なのだろう。それは「根無し草」のための思想≒教典である。
そもそも「多文化共生」という「施策」が最近外国から日本にやってきたニューカマーへの施策なのだから、その「根無し草」性が日本の社会の「根無し草の日本人」と相性がよいのだろう。
だからこそ「多文化共生」や「共生」ということばが拡大解釈されて、それは施策から思想のごときものにまでなっている。
それは勝手にすればいい。「根無し草」のための思想や場は必要だ。だけど問題は、この「根無し草」が「根付きの人間」の「歴史感覚」を破壊しにくるということである。
「多文化共生」にとっては「歴史感覚」なるものは邪魔でしかないし、「根無し草」の者たちはその本性に従って、この「歴史感覚」を「根絶やし」にしようとする。
例えばレイシスト山崎なしの「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーションでやってるんすよね。」発言。
この発言自体は平山のアイデンティティを直接攻撃しているわけではない。だが、これは平山の、というか在日の歴史感覚を意図的に破壊しにきている。
「在日の一世、二世の怒りや悲し」みとは平山の歴史感覚そのものなのだから。
浜辺ふうの「在日に生まれたかった」発言もそう。日本人である自分が民族学級に入れないのが在特会のヘイトスピーチと重なるという新聞記事もそう。
東九条地域住人が動物の姿で描かれたボードゲームの件もそう。これは全て「歴史感覚」への破壊行為である。
多文化共生エリアの人たちは、アイデンティティを攻撃するヘイトスピーチがダメだという認識はできるが、「歴史感覚」を破壊する表現や活動がダメだということが理解できない。
それどころか、浜辺ふうが舞台で在日韓国朝鮮人の「歴史感覚」を破壊する時、それを見ている「二階の根無し草」の日本人が喝采の声を上げる。
それは、「持たざる者たちによる復讐」である。持たざる者たちの、持つ者たちへの復讐。浜辺ふうという「歴史感覚を持たざる者」からの、在日という「歴史感覚を持つ者たち」への復讐。
もちろんこんな復讐は不当な言いがかかりであり倒錯である。
だが、なぜ浜辺ふうの演劇が「二階の根無し草」の日本人に受けるのかといえばそれはその「根無し草性」への共感、「歴史感覚を持たざる者」同士の「薄暗い共感」がそこに働くからだ。
それ自体は現代的な問題ではあるが、だからといって在日韓国朝鮮人の歴史感覚を破壊してよいわけではない。
浜辺ふうやその支持者たちに「歴史感覚」がない事。それ自体は不幸なことである。在日韓国朝鮮人はその来歴からして、「歴史感覚」を持たざるを得ない。
持つというより、「歴史感覚」に縛られて生きざるをえない。特に一世、二世はそうだろう。三世の平山ですらそうなのだ。それは「歴史感覚」というよりは「呪い」であり、「運命」である。
浜辺ふうは自身の問題を「アイデンティティの問題」だと思っているのかもしれないが、ちがう。
彼女の問題は「歴史感覚」がない事である。自分を「呪って」くれる「運命」すらない事である。
浜辺ふうが東九条という地域の歴史を改竄すること、在日の歴史を貶め歪めること、にも関わらず朝鮮の服を着て、朝鮮の楽器を演奏すること。
これは典型的な「植民地化」そのものであるが、浜辺ふうが何を収奪しようとしているのかといえば「歴史感覚」そのものである。
だけど他者の「歴史感覚」は破壊することはできても「奪う」ことはできない。それは他人の親や先祖を奪うような行為であってそんなことは不可能である。
「血=運命」を変更することなどできない。だから浜辺ふうの「歴史感覚収奪行為」は失敗し続ける上にそれは在日韓国朝鮮人の「歴史感覚」を破壊し続ける行為となる。
では、その浜辺ふうが大きな影響を受けたという「東九条マダン」にはその危うさは無いのだろうか?在日も日本人もいっしょに朝鮮の楽器を演奏して歌い踊り劇をする「まつり」。
それは日本人による「文化収奪」や「歴史感覚破壊」となる危うさは無いだろうか?このことについてはまた後の連載で検討したいと思う。
だがこの事象からわかることは、現在東九条という地域には「複数の持たざる者」が錯綜しているということである。
「ことばをもつ者」と「ことばをもたざる者」
「階級上昇できた者」と「階級上昇できなかった者」
「非暴力の形式を持つ者」と「非暴力の形式を持たない者」
「強い力を持つ者」と「強い力を持たない者」
「歴史感覚を持つ者」と「歴史感覚を持たない者」
ここにどのような錯綜があるのかというと、
「一階」の「階級上昇できなかった」「強い力を持たざる者」は「歴史感覚を持っている」
「二階」の「階級上昇できた」「強い力を持つ者」は「歴史感覚を持っていない」
という錯綜がある。
それは「歴史感覚」以外の全てを持つ「二階」の人間が「持たざる者」として「一階」の人間の「歴史感覚」を奪おうとするという錯綜である。錯綜というかそれは倒錯なのだが。
浜辺ふうや京都市立芸術大学のような二階、三階の「歴史感覚を持たざる者たち」が「一階の人間の歴史感覚」を収奪しようとしては失敗してその結果「一階の人間の歴史感覚」を破壊し続ける。
「二階、三階」という多くの「強い力を持つ者たち」が「一階」の人間が唯一「持つ」「歴史感覚」を奪おうとし、破壊する。
あまりにもグロテスクで非人間的な状況がこの東九条にはある。この非人間的な行為を正当化するのが「多文化共生」や「共生」という「教典」である。
そもそも「一階」の人間にとって「歴史感覚」とは逃れられない運命や呪いの如きものである。平山がその「呪い」を「歴史感覚」と呼ぶことができるようになったのは、その「運命=呪い」を生き切ったからである。
そこには「死者受容」あるいは「死者たち受容」とでもいうべき長年の過程があったわけで、それ奪うことなどできるわけがない。
おまえたちが「歴史感覚」を取り戻したければ、安易に他者から奪おうとせず、自分たちも死者たちの世界に下降していって、死者にまみれ、死者と交わり、生き生きと生きる死者となれ。
死者が「わたし」を生きている。死者たちが「わたし」を生きている。
それは、身体が「わたし」を生きている
ということや。
それが「歴史感覚」や。
共生するならまずは死者たちと共生せなあかんのよ。
だから、「まつり」じゃなくて「祭」が必要なんよ。
「解放」のための「まつり」ではなく
「自由」で在るための「祭」が。
「運命」を生き切るための「祭」が。「運命」を生き切るための祭りが。
冒頭の引用した文章には、
>彼は意識的に自分の履歴を消し去り、過去と決別し、自分の心を周囲に対して開いていった。ヨーロッパやアメリカからの侵略者を憎むアメリカ先住民としての一面的なアイデンティティをかれは完全に超越していた。
彼は自分が祖先から受け継いだものを愛していたが、そのエッセンスだけをつかみ、敵に対する憎しみを手放すことで、それを超越したのである。
とあるが、「一面的なアイデンティティ」を手放すためには、逆説的だが「歴史感覚」が必要になる。歴史感覚がなければ、アイデンティティを手放すことはできない。
平山が「呪いのような運命から「解放」される」のではなく「運命を生き切る先に「自由」がある」というのはこの「歴史感覚」が身体で感じられることを言っている。
運命からの「開放路線」はそれはそれで楽だが、「歴史感覚」から断絶してしまう。東九条マダンは「解放路線」である。だから平山とは身体が合わない。
そして東九条マダンが、民衆文化運動から始まったという「歴史」を手放して「多文化共生のまつり」に乗り換えたのはまさしくこの「歴史感覚」の無さに由来する。
東九条マダンは「アイデンティティを手放さなかったが歴史感覚は手放してしまった」のだ。平山はアイデンティティは手放せるが、歴史感覚を手放すことはない。
いや、「アイデンティティを軽く軽くするために歴史感覚は手放さない」、と言う方が実感に近いか。
「歴史感覚」とは年表としての歴史、歴史の知識のことでは無い。「わたし」が何から生じているかということであり、それは一番近い死者であり、「死者」にとっての「死者たち」であり、
「死者たち」とはこの身体や大地のことである。それは「わたしを生かしてくれる何か」である。その歴史感覚がなければ身体表現はできない。
それは身体表現だけではない表現全般の話だが、だから歴史感覚や身体表現を優先すると、「アイデンティティ=わたし」は邪魔になる。身体表現においては「わたし」は軽ければ軽いほどよい。
「わたし」が軽ければ軽いほど「歴史感覚」は深さと濃さを増し、身体はその豊饒さを顕わにする。
その楽しさ、気持ちよさ、よろこびを知っているなら「アイデンティティ=わたし」に拘る必要が無いのだ。
だからこの文章
「両親はアメリカ先住民らしく生き、そしてアメリカ先住民らしく死んだ。しかし、残念なことに、ひとつのアイデンティティだけに執着して生きていくには、人生があまりにも短すぎることの気づくことができなかったのだ」
これは二重の意味でよくわかる。おれは、人生の途中で運よくこのことに気が付いた。そして気づくことができたのは、おれは在日韓国朝鮮人の三世だからだ。一世二世はその運命が、呪いが強すぎてその執着を手放すことなどできはしなかった。
ひとつのアイデンティティだけに執着して生きていくしかなかった。手放すも何も、歴史=運命に「囚われて」いたのだからそれを手放すことなどできはしない。
一世、二世、三世、と三世代かけて、現在の平山がその呪いをようやく「歴史感覚」と感じることができるくらいになったのだ。
その「歴史感覚」を破壊しにくるならば、怒り狂って叫びまくるしかないじゃないか。
死者たちを破壊しにくるならば、死に物狂いで復活再生するしかないじゃないか。
おれがこの連載でやりたいことは、死者の復活だと書いたが、それは虚無どもに破壊された「歴史感覚」を再生し、二度と破壊させないことであると同時に、
平山自身の在日韓国朝鮮人であること、東九条の住人であること、という「アイデンティティ=わたし」への執着を手放し、「わたし」を軽くするためでもある。
死者は生き続けている。この身体に。一世、二世、三世と続いてい来た「運命=わたし」は、ついにその「アイデンティティ=わたし」すら手放し軽く軽くなる時が来たのだ。
わたしが自由そのものである時、死者たちは百億星年の輝きを放つだろう
つづく
参考文献
「シャーマンズボディ」 アーノルドミンデル著 青木聡 訳 藤見幸雄 監訳 コスモス・ライブラリー
「死と狂気」 渡辺哲夫 著 筑摩書房
2026年1月26日