世の中全体が右傾化しているとか、いや、左が嫌われているのだ、いやいやこれは右左の問題ではなく、階級や格差の問題なのだということもできるけれども、左というか、
弱者の側に立つとか、強者に対して抗議する、抵抗する、戦うというのは基本的には「負け戦」である。
もちろん敗北主義ではだめで、全力で勝ちに行って負ける、ということを繰り返さなければならない。これはなかなかしんどい。誰だって勝ちたい。負けたくない。
だけど負け戦を続けなければならない。
負け戦すらやらなければ殺されるからである。負け戦をやることで少なくとも殺されずにすむ。
だけどもうこの社会の底辺層から上層も含めて、負け戦をする体力が無いのだと感じる。だから弱い側に立つ左側に立とうとはしない。
左の方に立つと、実際に戦わなければならないというのがもうしんどい訳である。右の方に重心をよせていれば、戦う必要もなく、負けることも無い。
だから右傾化しているというよりは、負け戦を避けるため右に寄る人が大多数でそれが「全体化」している。
だからもし仮に、「左によれば勝てる」となれば、一気にみんな左によるだろう。だから思想や理想なんかが明確にあるわけではない。「負け戦」がしたくない。
それだけ。そしてその気持ちもよくわかる。誰だって勝ち馬に乗って楽したい。
だけど、その勝ち馬は破滅の勝ち馬で、勝つけどいずれ全体で破滅する。
現在この社会の大なり小なりあちこちで、破滅の勝ち馬が疾走している。
負け戦、といっても戦う相手や意味はいろいろで、破滅の勝ち馬そのものとの戦い、破滅の勝ち馬に乗ろうとしている人との戦い、
破滅の勝ち馬に乗せようとしている者との戦い、破滅の勝ち馬から逃げるための戦い、破滅の勝ち馬を破滅させるための戦い、…それは人それぞれいろんな負け戦がある。
だけど、負け戦は負け戦でも、戦い切れば、生き残ることはできる。
そして、破滅の勝ち馬と戦うことはあっても、破滅の勝ち馬に乗った人を責めてはいけない。もちろん責任はある。
この社会を破滅させた責任はとらせなければならない。
だけど、もうみんな体力も無いし、弱っている。この社会は、下も上も右も左もみんなが弱っている。
その「全体的な弱さ」の側に立つならば、それは左ではなく、負け戦をたたかうということに尽きる。
おのおのの生活の場にこそその「負け戦」の戦場がある。殺されそうになれば、全力で逃げればいい。
逃げることこそ「負け戦」の花。ただ、破滅の勝ち馬に乗るという「逃げ」ではなく、戦場から撤退するという「敗北」をしなければならない。
敗北を受け入れるということ。破滅の勝ち馬に乗って幻想の勝ちを手に入れない。幻想の「強さ」に幻惑されてはならない。
他人の「強さ」にすがってはいけない。「強さ」はあくまでこの身体にある。そして「強さ」はいつだって、「弱さ」の芯から立ち上がってくる。
だから徹底して「弱さ」の側に立たなければいけない。「弱者」ではない。「弱さ」に立つ。ということ。
それが負け戦を戦うということであり、破滅を破滅させる道である。
20260207記す