『東九条、死者無き多文化共生の行方 ≪26≫ 』

〈雑談その4〉

「冷蔵庫を勝手にあけるな」 京都市立芸術大学による東九条地域歴史感覚破壊活動企画「共生と分有のトポス」と「思い上がり」

   
「わたし」個人が何かを無しえることなどない。それは深くは死者たちの愛の成就であり、広くは現代を生きるこの世界の生きとし生けるものたちとの響き合いの結晶化である。
   
と連載前回最後に書いたが、
   
「わたし」個人が何かを成し得たと思うなら、それは「思い上がり」であり、その「思い上がり」が死者たちを殺し、生きとし生ける者たちを腐らせる。
   
「思い上がり」といえば件の京都市立芸術大学の「芸術と社会の交差領域におけるメディエーター育成事業 共生と分有のトポス」。
   
もうこの連載でも散々書いたが、何があったか要約を書くと、この企画内にて浜辺ふう主演の差別扇動デマゴーグ公演「会話劇リリース」が上演された。 その内容が在日韓国朝鮮人に対して差別的であったので平山が抗議したところ、当初「本学として真摯に受け止め、そして向き合わせていただきたいと考えております。」 と対応するそぶりを見せておきながら11カ月待たせたあげく、人を馬鹿にしたような回答をよこして結局何もしなかった。という事が起きた。 要は、京都市立芸術大学は東九条地域住人を騙したわけである。 京都市立芸術大学は自らが引き起こした差別事案に対してきちんと対応する能力もなく、倫理感も責任感もなく、 人間性もなければ社会性もない、虚無そのものであることが明らかになった。
   
今回は「会話劇リリース」ではなくそれをプログラムとして上演した「共生と分有のトポス」について考えてみたい。
   
さてこの企画は文化庁の「大学における文化芸術推進事業」https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/shinshin/daigaku/ の助成金11530000円でなされている事業である。 文文化庁のこの資料、「令和6年度大学における文化芸術推進事業・採択一覧表」にはこう書いていある。 https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/shinshin/daigaku/pdf/94041301_01.pdf
   
以下引用━━━
   
公立大学法人京都市立芸術大学共生と分有のトポス?芸術と社会の交差領域におけるメディエーター育成事業
   
【概要】
   
本事業では、地域・大学・芸術の関係について積み重ねられてきた調停から現れる複雑な関係について思考を重ねる3つの活動を軸に進めます。
   
【テーマ 環境:活動-1 聞くこと~東九条の再開発のなかで】
   
「活動 ①」では、 地域に根付く独自の文化や暮らしに着目する。 土地の歴史をめぐるフィールドワーク、オープンダイアローグ、マダン、アクティ ヴィズム、福祉、演劇など、互いに近接するさまざま領域におけるリサーチ方法を学び、 将来へと受け継ぐべき記憶と課題を探り、分断を越えて 人びとのつながりが創出される場をデザインします。
   
【テーマ ケア:活動-2 物語ること~地域文化の再発明】
   
「活動 ②」 では再開発によって変化していく地域の問題を共有し、地域文化を再解釈、再発明していく語り方を開発する。講師には、 保育士、 キュレーター、カフェ経営者、 政治学者、 演出家、社会学者など多様な領域の専門家を招き、レクチャーを通して、地域社会への実践的なアプ ローチの技術を共有します。
   
【テーマ 公共空間:活動-3 状況の再構築~何が共有され、何が失われていくのか】
   
「活動 ③」では、二つのリサーチ(活動 ①「聞くこと」と活動②「物語ること」)を基盤に、再開発によって急激に変化していく東九条の中で、実際に その風景のなかに出向き、介入する。それは古い課題に新しい光を当てることでもあり、自明に思われることにもう一度目を向けることでもあり、あ るいはアートを再び社会の中に再配置する行為でもあります。
   
【育成対象】
アートマネジメントを目指す大学院生や社会人、行政の文化政策やまちづくり担当者、社会との関わりに意欲をもつアーティスト、開かれた美術館 のあり方を模索する学芸員、創造性を活用した教育を目指す教員や教育学部の大学院生、コミュニティーアーカイブの作成を目指す市民
   
━━━引用以上
   
とある。
   
東九条を生きた人間としては、読むだけで頭がプッチンしそうな文章である。
   
京都市立芸術大学は何様なんだろうか?
   
抜粋してみる。
   
>将来へと受け継ぐべき記憶と課題を探り、分断を越えて人びとのつながりが創出される場をデザインします。
   
>再開発によって変化していく地域の問題を共有し、地域文化を再解釈、再発明していく語り方を開発する。
   
>二つのリサーチ(活動 ①「聞くこと」と活動②「物語ること」)を基盤に、再開発によって急激に変化していく東九条の中で、実際にその風景のなかに出向き、介入する。
   
>あるいはアートを再び社会の中に再配置する行為でもあります。
   
とある。
   
東九条という地域は、まずもって生活の場である。人間が、代々そこで生命をつないできた生活の場である。 飯を食べ、働き、糞を垂れ、恋し、愛し、交わり、生まれ、遊び、戦い、逃げ、とどまり、眠り、目覚め、怒り、奪い、悲しみ、奪われ、痛み、飯を食べ、殺して、殺されて、死んで、呪って、 恨んで、祝って、送って、泣いて、飯を食べ、生命をつないできた、その人生そのものである生活の場に、つい最近やってきた京都市立芸術大学が
   
「分断を越えて人びとのつながりが創出される場をデザイン」し、「地域文化を再解釈、再発明していく語り方を開発」し、「東九条の中で、実際に その風景のなかに出向き、介入」し、「アートを再び社会の中に再配置」するとのことである。
   
京都市立芸術大学、おまえらは一体何様や?
   
デザインする?地域文化を再解釈再発名??風景の中に出向き介入???アートを再配置????
   
おまえらは何の資格があって他人様の生活の場である東九条をかってに「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」しとんねん。
   
京都市立芸術大学様様よ、おまえらは、ひとんちの冷蔵庫を勝手にあけるんか?
    
おまえらはよそ様の家にお邪魔した時に、「地域文化を再解釈」とか言うてその家の冷蔵庫を勝手に開けるんか?
ついでに「アートを再配置」とかいうて、自分の午後ティーを勝手に冷蔵庫に入れるんか?あ?
「介入」とかいうて、冷蔵庫の中にある、おれの週末ご褒美プッチンプリンをシェイクシェイクしてぐちゃぐちゃにするんかい。お?
よそ様の家の冷蔵庫を勝手にあけてぐちゃぐちゃにする。
それがおまえらの「共生と分有のトポス」なんかい。おおううう???
   
で挙句の果てにプロジェクトリーダー田中功起の
   
「共に生きるなんて無理、ってところに立つことからすべては始まる。」って記述。 (「芸術と社会の交差領域におけるメディエーター育成事業 共生と分有のトポス 2024年度活動記録集」 https://gallery.kcua.ac.jp/uploads/2025/02/%E5%85%B1%E7%94%9F%E3%81%A8%E5%88%86%E6%9C%89%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%9D%E3%82%B92024.pdf を読んでみても、全てが薄っぺらい。この程度の内容の事で、東九条地域を「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」できると思ってるんだから「思い上がり」もはなはだしい。これ東九条の人間が見たら失笑もんやで。

これ京都で言うたら、清水寺見ました、金閣寺行きました、京都タワー登りました、嵐山も行きました猿いたで!、三条土下座前で待ち合わせして鴨川で間あけて座ったで!トンビもいたでえ!かつくらでとんかつ食べた! ポルタでお土産買った!市役所の観光課の課長にちょっと深い話を聞きました、京都について「リサーチ」できました!これから京都市を「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」しまーーす!共生と分有とトポスしまーーーす!

ていうたらこいつアホちゃうかてなるわな。アホというか、よくそんな薄っぺらい「リサーチ」で「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」なんかできるな、て。あねさんろっかくたこにしきとか言うて。 その程度の薄っぺらいことしかしてないのよ。この活動記録集読んでも。東九条多文化共生エリアのしかも極限られた関係者の話ちょこっと聞いてほふほふずーずー言うてるだけ。それで何が「リサーチ」できるんかね。
   
こんな薄っぺらい内容で他所の地域に「デザイン(ほふ)、再解釈再発明(ほふ)、介入(ずー)、アートを再配置(ずー)」できると思うのは「思い上がり」以外の何ものでもない。
   
なぜ京都市立芸術大学や佐藤知久はん、田中功起はん、藤田瑞穂はん、森野彰人はんがこのように「思い上がれる」のか。それは「歴史感覚」が無いからである。
   
「わたしは生かされている」という「歴史感覚」ではなく、「わたしが生きている」というアーティストとしてのはち切れんばかりのアイデンティティがまさに芸術が「暴発」しているからである。 『爆発』ではなく「暴発」。岡本太郎という「歴史感覚」があった芸術家はちゃんと『爆発』できるが、「歴史感覚」の無いアーティストは「暴発」してしまう。 その「暴発」があの薄っぺらい「デザイン再解釈再発明介入アートを再配置」である。
   
どこで生まれ育とうと、「歴史感覚」があるならば、他所の地域に土足ではいって勝手に「デザイン再解釈再発明介入アートを再配置」してもいいなんて思うことすらできないはずだ。 まさにこいつらは「大地=死者たちを踏みにじっている」のである。それに加えて京都市立芸術大学ならびに佐藤知久田中功起藤田瑞穂森野彰人には何の人権意識も倫理観も無い。 まさに「虚無」そのものであり、その虚無性において排外主義者とおなじ心象を有していると言わざるをえない。 ましてや藤田瑞穂は事前に「会話劇リリース」が当事者を傷つける危険なものであったことを知っていたのだ。 また、佐藤知久は東九条地域関係者と親交があるのだから浜辺ふうのことを「リサーチ」できたはずである。 それをやるのが「プロジェクトリーダー」の「仕事」とちゃうんかい。¥いっせんひゃくごじゅうさんまんえん¥予算があって何しとんねん。
   
リサーチリサーチいうけどよ、佐藤知久、田中功起、藤田瑞穂、森野彰人、おまえら東九条の「一階」の人間に「友達」いるか?知り合いとちゃうで。 「友達」や。おらんやろ。こんな企画、まずは地域住人と「友達」になれるような間柄になって、何人か「友達」できてからやるもんやで。だけど、こいつらは、絶対に東九条地域「一階」の人間と「友達」になる気などさらさらない。
   
なぜなら、「共生」とは「友達にならないための言い訳」だからである。友達にはなりたくない、だけど関わらなければならない。それが「共生」。
   
共生とか多文化共生とかいうけど、そんな難しい話か?ふつうに友達になったらええやん。
    
おまえらアーティスト(様)がまず向き合い考えなければいけないことは、共生とか共に生きるとかではなく、その前段階の、
   
「なぜ自分たちは東九条地域「一階」の人間とともだちになりたくないのか」
   
ということや。
   
別にな、友達にならんでええんよ。友達なんか無理してなるもんやない。でもな、おまえらは東九条の人間と「友達になりたくない」やろ。本音は。
   
そこやて。
   
プロジェクトリーダー田中功起の
   
「共に生きるなんて無理、ってところに立つことからすべては始まる。」って
   
なんかリアリスト気取りの中学生みたいな「ぼく」のおことば。こんなんいらんねん。これはリアリズムやなくてニヒリズムや。リアリストなら、
   
「友達なるなんて無理、ってところに立つことから全ては始まる。」んよ。
   
でも、共生てそういうことやからな。ほんまに。
   
身内とか友達に「共生」ということばは使わへんのよ。
   
何故なら友達や身内はもうすでに「共に生きている」から。だからわざわざ「共生」て言う必要が無い。
   
「友達(身内)にはなりたくない」けど「共に生きなければならない現実」があるからわざわざ「共生」っていうんやろ。
   
で、おまえら友達に対して「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」するか?せえへんやろ。
   
だってそんなことしたら失礼やから。他者への敬意がないから。そしてそれはまともな人間関係ではないから。だから生身の人間に対して「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」なんかせえへんやろ。
   
相手を人間として見ていないから、その人間が生きている地域に「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」なんてことが平気でできる。
   
ほな逆に、おれが、佐藤知久田中功起藤田瑞穂森野彰人おまえら四人を「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」してやろか?
   
平山が、京都市立芸術大学を「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」してやろか?
   
おまえらの家の冷蔵庫、勝手にあけたろか?
   
どや?こない言われたら嫌な気持ちせえへんか?気持ち悪ないか?失礼やと思わへんか?人間として扱われていない、て思わへんか?
   
じぶんちの冷蔵庫、勝手にあけられたら、嫌やろ。プッチンプリン、ぐちゃぐちゃにされたら、嫌やろ。
   
おまえらがやったことはそういうことや。
   
おまえらな、うすきみわるいねん。
   
でな、おれは「共生」ってことば、恐いことばやなあ、て思うんよ。
   
共生。共に生きる。共に生きるってことは、「共に死ぬ」ってことでもある。生と死はひとつや。
   
そして歴史感覚の深みから照射すれば、「共に死ぬ」はさらにふかく、
   
「共に死んでいる」
   
てことになるんよ。
   
すでに「共に死んでいる」からこそ、今現在「共に生きてる」。
   
「死者たちによって生かされている」という感覚があるならば、すでにわれわれは「共に死んでいる」ことが身体でわかるはずや。
   
そういう、おそろしいことばなんよ、「共生」ってのは。
   
「共生」とは「共死」のことなんやから。
   
もうすでに死んでるの、「われわれ」は。
   
おまえたちは、東九条の「友達にもなりたくない人間」と、共に死ぬの?
   
そんなつもりなかったやろ。でもな、
   
助成金目当ての嘘偽りの建前だったとしても、おまえたちはもう何度も「共生」ということばを口にした。
   
おまえおまえおまえおまえは、もうすでに、「共生」ということばを何度も口にした。
   
他者の冷蔵庫をあけたのはおまえ
   
死者の冷蔵庫をあけたのはおまえ
   
死者たちの冷蔵庫をあけたのはおまえ
   
おまえの冷蔵庫をあけたのはおまえ
   
共生
  
そのことばが、
  
冷蔵庫を
   
あけた
   
冷蔵庫はもう
   
あけ放たれた

    

   

    

2026年2月7日

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