【無傾化する社会。他者無き世界、世界消失の時代を生きること】

   

先の選挙以前からもうこの社会が「右傾化」していると言われて久しい。だが、平山には「右傾化」しているようには見えない。 勿論表層を見れば「右傾化」といわれる現象が起きているのかもしれないが、深層ではもっと深刻な事態が起きているように感じる。
   
先の総選挙では「左」が大敗北したと言われているが、敗北以前にまず左が勝手に自分から消滅した。もちろん立憲民主党だけが左なのではない。 だがそもそも立憲民主党はずっと選挙協力してくれている共産党に対する不誠実で敬意の無い言動を続け、それに加え今回の立憲を解党した上での中道への参加も、 まずもってそれは立憲民主党支持者への裏切りであって、そんな不誠実なことを繰り返す党は左翼だリベラルだという以前にその人間性が嫌われて当然なのだ。 だから中道が支持されないのは思想や政治的立場以前に人間性が疑われているからである。負けたのではなく自滅自壊自業自得である。
   
それはともかく、理由は何であれ、今回投票前に「左・リベラル」が大きく「消失」した。 だからこの社会が大きく右傾化したわけではなく、「左・リベラル」が勝手に消えたのだ。 最近「なぜ左が嫌われるのか」「これからリベラルはこうすべきだ」というような議論や言説が飛び交っているが、それも大事な議論なのだが、そういう問題ではないように感じる。
   
この社会は「右傾化」しているのではなく「無傾化」しているのだ。傾くこと自体が無くなっている。だから「無傾化」。
   
昨今、右だろうが左だろうが何かに「傾く」こと自体が忌避されているように感じる。 多くの市井の人からは、自民党の裏金問題や統一教会との関係、週刊誌で報道された高市早苗氏の裏帳簿問題や政治的失言などを批判し追及する側が「傾いて」見える。 その「傾き」自体が忌避され嫌われている。だが逆にその批判にまともに答えず躱し続けるその姿こそが「傾き」の無い姿に見え、支持を受ける。 だから「左・リベラル・野党」が嫌われるのはその思想や言動が嫌われているのではなくその「傾き」が忌避されているのである。 そしていわゆる「右派」は「傾いている」ように見せないのが上手い。
   
さてこの「傾き」とは何なのか。この「傾き」とは「他者性」のことである。
   
現代は、「他者性」自体が嫌われ忌避されている。平山はこのことをここ三年、地域との関わりの中でうっすら感じていたのだが今回の総選挙を見て、確信を持った。
   
この社会には「わたし」はあるけど「他者性」は無い。どれだけ「わたし」が肥大していようと、他者性さえ消せていればその「わたし」は許される。
   
だから、昨今の政治家が、批判や追及には一切まともに答えないのに支持されるというのは、この「肥大したわたしと他者性の消去」という現代のこの社会に求められる在りように応えているからだ。
   
相手の批判を受け付けないというのは、相手を「他者」だと認めない、認識しないという事である。 それは逆に、相手にとっての他者にもならない、ということでもある。批判を受け付けないということは、絶対に「わたしは他者性を引き受けない」という在りようである。
   
だから選挙が政策や主張ではなく、候補者のキャラクターを選ぶ「推し活」になったのもそういうことである。 あれは有権者が「わたし(候補者)を推すことはできる」が、「他者(他の候補者)の話は聞きたくない」ということである。 選ぶという行為は一応「他者の話」も聞いてみるということである。「推す」なら他者の話など聞く必要もない。 アイドルならそれでいいだろう。だが政治家を選ぶのに「他者の話」を聞かないというのはマズイだろう。
   
「他者性」が忌み嫌われているのは政治の場だけではない。右も左も上も下も、生活の場でも労働の場でも遊びの場でもどこでももはや「他者性」は忌み嫌われている。 他者性を出せばウザい、キモイ、さむい、あるいは「怖い」と忌避される。
   
もちろん「他者」とは警戒すべき対象であり、恐怖感を抱くという感覚は誰しもある。 だからこそ「日本ファースト」や「外国人労働者受け入れ反対」という言説が日常にまで飛び交う。 だけどこういうわかりやすい外国人差別のみならず、いわゆるマジョリティの日本人同士の関係においてももはや「他者性」は意味嫌われている。批判されること、意見されること自体が忌避される。 それは、「他者として扱われる」こと自体への忌避である。そして「わたし」にとって「他者」であるような存在とは一切関わらないし拒絶し排除する。 「わたし」も「あなた」も絶対に「他者化」しないさせないという強い「念」を感じる。
   
だから昨今薄っぺらい「共感」がもてはやされる。そして「思想が強い」という嫌味もそれは「傾き」への忌避そのものである。
   
相手が他者であることに耐えられない、自分が他者であることに耐えられない、そんな「わたし」が社会にあふれている。
   
だが他者性が無ければ人間は狂う。他者がいるからこそ人間は狂わずにすむ。「わたし」と他者の関わりがこの世界や社会を形成している。
   
「左/右」という「傾き」が消失し、あとは「下/上」という「階層・階級」が残る。
   
「他者性の消去」はより「上」の階級に有利に働く。カネも権力もあれば「わたしの他者性の消去」も「あなたの他者性の消去」も「力」にまかせて思いのままである。 その「強者の力」によってこれから「他者性の消去」「他者性の剥奪」という事態はより加速して進行するだろう。 その犠牲になるのはより下層の人間である。だが当然ながら、下層が「消去」されれば「上層」も消える。力にまかせた「他者性の消去」を続けている限り、結局は「下も上も」消えることになる。
   
ちなみに平山が【連載】において批判している「東九条地域における多文化共生」もまた、本来相手の他者性を尊重するはずの多文化共生が、 「他者性消去」による多文化共生という倒錯した方向で運用されている。だから「他者性消去」は左・リベラルな現場でも見られる現象である。
   
この社会はみんなで破滅に向かっている。それは経済的な破滅や政治的な破滅、もしかしたら戦争という破滅かもしれない。もちろんそれも恐ろしいし、そうならないようにしたい。 だが、もっとも恐ろしいことは、この世界から他者が消えるということである。だがこれから「他者無き世界」を生きなければならない。 それは「世界消失」という狂気そのものを生きなければならないということである。
   
「他者消去」という「破滅の勝ち馬」に乗ることは、「世界消失」への道である。
   
だがおれは、これからも忌み嫌われながらも他者として生きるし、煩わしくとも「あなた」と他者として関係する。 それは「負け戦」かもしれないが「世界消失」するよりは、その「負け戦」をやりぬくことで「世界」を在らしめたい。




  

  

20260212記す

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