【連載】『東九条、死者無き多文化共生の行方 ≪27≫ 』

〈雑談その5〉

 反ジェントリフィケーションの落とし穴 京都市立芸術大学学長小山田徹氏の「緑の回廊・百年の森プロジェクト」と同語反復

   
オーストラリアのアボリジニーは、大地に対する意識の持ち方について次のように語り、大地をぞんざいに扱ってはならないと教えている。 「私が十六歳になったとき、父親が大地の歌を教えてくれた。 ……ある日、私は父親と釣りにでかけた。父親の後ろを、槍を引き摺って歩いていたので、私が歩いた後の浜には、長い線が描かれた。それを見た父親は、やめろと怒鳴った。 何も理由がないのに、大地にしるしを付けたり、穴を掘ったりしてはならないというのだ。それが大地に眠る祖先の遺骨を傷つけることになるからだ。 大地にしるしを付けたり、穴を掘ったりしたければ、食料を集め、儀式を執り行う必要があった。」(脚注1参照)。
 アボリジニーの考えによれば、夢見あるいは祖先の霊が大地の地形を創り上げているという。 精霊たちは生きていて、今ここで起こっている出来事を夢見ていると考えられているのである。
  
脚注1:サットン他『夢見』、原著一四項参照。
   
「シャーマンズボディ」 アーノルドミンデル著 青木聡 訳 藤見幸雄 監訳 コスモス・ライブラリー p54より引用
   
 最近「歴史感覚」について書いているが、このアボリジニーの父親の感性や感覚はまさに「歴史感覚」そのものである。 厳密に言えば「歴史感覚」以前の「大地感覚」「死者感覚」とでも言うべきか。だがここまで大地に敬意を感じながら生きていくことは現代の都市社会において不可能である。 「>大地にしるしを付けたり、穴を掘ったりしたければ、食料を集め、儀式を執り行う必要があ」るというならば、 少なくとも前近代の生活をしなければならないし、前近代どころか中世よりもっと前、古代文明以前の狩猟採集の生活をしなけばならないのかもしれない。 だから大地に深く深く根差した「歴史感覚」によって生かされて生きるならば、文明や文化が高度に発展することは無い。 逆に言えば、文明や文化の発展というのは「歴史感覚」を切り捨て、大地から離脱することによって可能になったといえる。 大地からどこまでも遠く離れる高層ビルはその象徴だといえるかもしれない。
   
人類は、大地から離れること、死者を忘却していくことでこの文明や社会を築き上げてきたのである。 そしてそれは近代において後戻りできない断絶となった。「大地=運命=呪い」から「解放」され、「わたし」は幸せになったが人間性を失ったのである。 人権は確かに「わたし」を呪いから「解放」した。この「解放」は絶対に必要なものだ。だが、皮肉なことに人権だけでは人間は人間で在ることが出来ない。 やはり、「歴史感覚」が必要になる。
   
連載前回において京都市立芸術大学の企画「共生と分有のトポス」が東九条地域の「歴史感覚破壊活動」であることは指摘した。
   
・「共生と分有のトポス」が東九条地域をネタにした文化庁の助成金目当ての企画であること、
・そのプログラムのひとつとして上演された浜辺ふう主演の「会話劇リリース」において在日韓国朝鮮人への差別扇動デマゴーグ表現があったこと、
・その事に対する抗議にたいして、対応するふりをして11カ月放置して何の責任も果たさず「だました」こと。
   
そして「共生と分有とトポス」による東九条地域への
   
>「分断を越えて人びとのつながりが創出される場をデザイン」し、「地域文化を再解釈、再発明していく語り方を開発」し、 「東九条の中で、実際にその風景のなかに出向き、介入」し、「アートを再び社会の中に再配置」
   
という、「デザイン、再解釈、再発明、介入、アートを再び社会の中に再配置」という活動そのものが東九条地域の「歴史感覚」への破壊活動そのものであり、 「共生言説」による東九条地域の「上書き=支配」と「アートの文脈への組み入れ」だということを指摘した。
   
さてその上で、京都市立芸術大学における東九条に関するもうひとつの言説、小山田徹氏のインタビューを検証してみたい。
   
朝日新聞のこの記事。 https://www.asahi.com/articles/ASTD50SGHTD5PLZB00QM.html    
京都市立芸術大学の学長小山田徹氏のインタビュー「京都駅前の再開発 商業アートはもういい 「百年の森」こそ未来へ」
   
この記事から小山田徹氏の発言をいくつか引用する。
   
以下引用━━━
   
部落解放運動の拠点だった崇仁地区、そして、在日コリアンが多く住む東九条地区はいずれも駅チカで、京都市中心部に残された、ある意味、最後の一等地です。 開発の波によって複雑な過去の歴史が覆い隠され、「浄化」されていく。「ジェントリフィケーション」と呼ばれる現象が、起きつつあると感じます。
…〈略〉…
世界中の都市で起きている問題ですが、まさに今、それが波及しているのが東九条です。
…〈略〉…
芸術大学というところは、単にアートを制作する場所ではなく、遠い未来を見据えた価値観の形成を学生に託す場所だと私は考えています。
…〈略〉…
経済論理で見れば、負の歴史とかマイノリティーの声は邪魔なんですよね。
…〈略〉… このあたりは世界の人々が最初に降り立つ、京都の玄関口です。あくまで私の夢想というか妄想なのですが、京都駅から鴨川まで「緑の回廊」をつくりませんかと呼びかけています。 緑が増えれば幼稚園ができたりお店ができたり、新しい豊かさの軸が経済として生まれてくるんじゃないかと 。100年後、ここに黒々とした「森」ができたとしたら、京都市は世界に誇る財産を持つことになる。願わくば、東本願寺、西本願寺、梅小路公園とも緑の回廊でつなぎたい。 「長尺の投資」を考えましょうということです。
…〈略〉…
これ以上、体験型のアート施設ができても厳しいなと思っています。「アート施設」と言ってはいるけれど、あれは「エンターテインメント施設」の面が強いですよね。
…〈略〉…
開発を進める時に便利だから、やれ文化だ、やれ芸術だ、と言う。これまで活用できていなかった場所に客がたくさん来てにぎわっていると喜ぶ。 でも「にぎわい」とは経済面でのにぎわいだけが大切なのでしょうか。商業アートはいつかは必ず飽きられる。100年後もそこにあり続けること自体、私は全く想像できません。
   
━━━引用以上
   
この小山田徹氏の発言を平山なりに整理してみる。
   
・東九条地域でジェントリフィケーションが起きている
・経済論理で見れば、負の歴史とかマイノリティーの声は邪魔
・京都市立芸術大学もチームラボも「アート」だが、前者は「芸術」で後者は「商業芸術」である
・チームラボをはじめとする「商業アート」の施設は都市開発のため施設である。
・一方、京都市立芸術大学は違う。>単にアートを制作する場所ではなく、遠い未来を見据えた価値観の形成を学生に託す場所。
   
さてここで重要なことは小山田徹氏の認識では、同じ「アート」でも、
   
①ジェントリフィケーションする側の「商業アート」
②ジェントリフィケーションしない側の「芸術アート」
   
に分かれるということである。小山田徹氏は「芸術アート」とは言ってないがここでは論をわかりやすくするために「商業アート」に対して「芸術アート」と呼ぶことにする。
   
小山田徹氏の理路によれば、実質それがジェントリフィケーションであるような都市計画を進める京都市が誘致した 「商業アート」であるチームラボは「ジェントリフィケーション」側だという理屈になる。 だが、同じく他所の地域からやってきたアートである京都市立芸術大学は②の「芸術アート」だということになる。
   
小山田徹氏は早速落とし穴に嵌っている。
   
「反ジェントリフィケーション」だと自認する者が「ジェントリフィケーション」してしまうという落とし穴に。
   
小山田徹氏の発言。
   
>「経済論理で見れば、負の歴史とかマイノリティーの声は邪魔なんですよね。」
   
とある。確かに、経済論理で見れば「負の歴史とかマイノリティーの声」は邪魔。 だが、実はそれは「共生」にとっても「多文化共生」にとっても「アート」にとっても「負の歴史とかマイノリティーの声」は邪魔。なのだ。 「芸術アート」だろうが「商業アート」だろうが、「負の歴史とかマイノリティーの声」は邪魔。「近代」にとって「歴史感覚」は邪魔。なのだ。 それはここ三年ほど「東九条多文化共生エリア」で起きた一連の出来事を見ればわかる。現に平山は「排除」されたわけだから。
   
アートだろうが芸術だろうが、日本においてそれは「近代」の受容として生まれたものである。 そしてその「近代の子」であるアートや芸術が「歴史感覚」を排除あるいは破壊するのは、その「近代」の本性そのものなのだ。 そして「歴史感覚」を排除破壊するのは同じく「近代的知性や技術」をベースとする「共生」も「多文化共生」も同じであることは本連載で書いた通りである。
   
同じ失敗は東九条空の下写真展もしている。東九条空の下写真展はそもそもジェントリフィケーションへの抵抗をその動機のひとつとして始めている。 にも拘らず、逆に東九条地域住人を傷つけ、東九条地域そのものを差別するような表現をした。 何故そんなことが起きたかといえば、東九条空の下写真展メンバーに「歴史感覚」がある者がいないからである。 人権に配慮しようが、法的な問題をクリアしようが、プロのキュレーターがスタッフに入ろうが、 「歴史感覚」が無い者が東九条地域そのものを題材とした写真展をやってうまくいくはずがない。 そして皮肉なことに、人権意識やプライバシーに配慮すればするほどその地域の「歴史感覚」を傷つけてしまう。 「近代的な知性や技術」で「歴史感覚」を扱うことはできない。東九条空の下写真展のようなことをやろうとすれば、「近代的知性」と「非近代的知性」両方が必要なのだ。 それが分からなかった故に、東九条空の下写真展はジェントリフィケーションに抵抗した結果、逆に東九条地域の「歴史感覚」を破壊するような表現をしてしまった。
  
小山田徹氏が、東九条地域に「ジェントリフィケーション」が起きていることを認識し、 そして自らをはじめとする「芸術アート」が反ジェントリフィケーションの側だと自認したとしても、 「歴史認識」が無い者、「非近代的知性」が無い者がその地域に関われば、その地域の「歴史感覚」を破壊することになるだろう。 しかもアートや芸術の近代の宿痾に由来する「歴史感覚破壊」という「近代の本性」を自覚しないままであればそれは必ず起きる。 いや、現に起きたじゃないか。「共生と分有のトポス事件」において。
   
「共生と分有とトポス」による東九条地域への
   
>「分断を越えて人びとのつながりが創出される場をデザイン」し、「地域文化を再解釈、再発明していく語り方を開発」し、 「東九条の中で、実際にその風景のなかに出向き、介入」し、「アートを再び社会の中に再配置」
   
ということば。「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」という目もくらむばかりに光り輝く「近代性」。 これらのことばには「わたしが世界をコントロールできる」という散漫さと「思い上がり」がある。 そしてその「思い上がり」が実際に、「共生と分有のトポス」は東九条地域の「歴史感覚」を破壊し、街そのものに「分断」と諍いをもたらした。 そしてそのことに何の責任も取らなかった。東九条地域住人、在日韓国朝鮮人当事者からの申し入れをまさに「負の歴史とかマイノリティーの声は邪魔」と言わんばかりに踏みにじった。 これこそが小山田徹氏がいう「ジェントリフィケーション」そのものではないのか。
   
そしてもうひとつ。
   
>「経済論理で見れば、負の歴史とかマイノリティーの声は邪魔なんですよね。」
   
これは「経済論理」の話ではなく「階級」の問題なのだ。階級上昇した「二階、三階、…n階…」の世界にとって「負の歴史とかマイノリティーの声は邪魔」ということである。 だから「二階、三階」の世界のお芸術である京都市立芸術大学にとっても「負の歴史とかマイノリティーの声は邪魔」でしかない。事実そのような対応をした。
   
だが小山田徹氏は「階級」の問題を「経済論理」の問題にすりかえて語ってみせる。そしてさも自分は反ジェントリフィケーションの側であるような立場をとる。 だがその小山田徹氏が立っているそこは階級上昇した「三階」の世界なのだ。小山田徹氏は自身が「構造上」そもそもジェントリフィケーションしてしまう側でいることを隠蔽している。
   
「負の歴史とかマイノリティーの声」という「歴史感覚」の問題に触れるならば「近代性」と「階級」。 この二つの視座が必要なのだ。この二つの視座から見る時、小山田徹氏をはじめとする京都市立芸術大学や他のアカデミアもまた、ジェントリフィケーションする側に世界の人間である。 そもそも東九条地域における「負の歴史とかマイノリティーの声」とは底辺層の「一階」の人間の問題である。 その「一階」の世界の問題に「三階」の世界のアートが「介入」する時、搾取や収奪が起きる。 それを「精神的な植民地化」というなら実際に「共生と分有のトポス」によってそのジェントリフィケーション=植民地化は実行された。
   
そこで小山田徹氏の「緑の回廊・百年の森プロジェクト」構想。
   
百年の森。なるほど。あくまで平山の周りしか知らないが、東九条地域でも「あの考えええなあ」という声は聞く。 さすが学長はんや、ええこと言わはる、学長室もオープンにして、がくちょうはん、がんばってはる。というところだろうか。 百年の森。確かにいいかもしれない。「アイデア」としてはいいのかもしれない。 だけど、そこに土地の意志、大地の意志、死者たちの意志はあるのだろうか?その「百年の森」とやらは、その大地が望んだものなのだろうか? 小山田徹氏は、物言わぬ大地に耳を澄ませてその声を聴いてみたのだろうか?
   
大地の声を聞いてみたならば、もしかしたら、その大地は「ビルを建てたい」とささやくことだってあるかもしれない。 もし大地がビルを建てたいのにそこに樹を植えたら、それは確実に大地をきずつけることになるだろう。もう一度冒頭の文章を引用する。
   
>何も理由がないのに、大地にしるしを付けたり、穴を掘ったりしてはならないというのだ。それが大地に眠る祖先の遺骨を傷つけることになるからだ。 大地にしるしを付けたり、穴を掘ったりしたければ、食料を集め、儀式を執り行う必要があった。」(脚注1参照)。
 アボリジニーの考えによれば、夢見あるいは祖先の霊が大地の地形を創り上げているという。精霊たちは生きていて、今ここで起こっている出来事を夢見ていると考えられているのである。
   
われわれ近現代人は狩猟採集民族でもないし、もはや儀式をすることもかなわないし、大地の声、聖霊の声も聴くことはできなくなった。 その大地が聖霊が、森を望んでいるのかビルを望んでいるのか、何を望んで…、何を夢見ているのかはわからない。
   
百年の森。たしかにいい「アイデア」だ。だけど、「歴史感覚」が無い者がそこに「アイデア」だけで樹を植えたって、それは経済論理でビルを建てるのと何も変わらない。 ビルが樹に代わっただけ。京都市立芸術大学が「共生と分有のトポス事件」を起こし、何の責任もとらなかった今や、学長である小山田徹氏のこの「百年の森」構想を額面通りに受け取ることはできないし、 むしろ樹を植えることでその土地の「歴史感覚」を破壊する未来しか見えない。そしてその百年の森による「歴史感覚破壊」は多くの「二階、三階」の人たちに賞賛され絶賛されるのだろう。 それが精神的なジェントリフィケーションでなくて一体何なのか、とおれは思う。
   
共生、アート、多文化共生、反ジェントリフィケーション、新しい公共、…、そういう耳障りのいい言葉ばかりを並べた「二階、三階」のアカデミアやアートの連中がこの東九条地域において、 東九条地域や地域住人を傷つけ差別し踏みにじり、だが自分たちはその活動で「助成金」を得て、実績つくりをする。そしてこの連中は何の責任もとらない。 人間の生活の場である東九条地域はここ最近アートやアカデミアの食い物にされてきた。それを反省しないのであれば、小山田徹氏の「百年の森」も必ず同じ事をするだろう。
   
・自分は「反ジェントリフィケーション」だと自認する階級上昇した「二階、三階、…n階の近代人」が「反ジェントリフィケーション活動」する時、「本当のジェントリフィケーション」が起きる。
   
・「本当のジェントリフィケーション」とは、その地域の「歴史感覚破壊」であり、それは「小さなジェノサイド」である。
   
・「近代的知性」から生まれた「芸術」「アート」「共生」「多文化共生」はその近代の本性として「歴史感覚破壊」をしてしまう。それは近代の宿痾である。
   
・その宿痾を自覚しないまま、特定の地域に関われば、必ずその地域の「歴史感覚」を根こそぎ破壊してしまうことになる。
   
・京都市立芸術大学の文化庁の助成金目当ての企画「共生と分有のトポス」においてなされた、 東九条地域への「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」はまさしく「近代的知性」による東九条地域の「歴史感覚破壊活動」であり、「小さなジェノサイド」である。
   
・その「小さなジェノサイド」は、東九条地域住人で在地に韓国朝鮮人当事者の平山からの申し入れを「騙した」うえで11カ月放置して踏みにじって打ち捨てることによって完遂された。
   
・つまり、京都市立芸術大学のこれからの活動において、同様の差別事案があっても京都市立芸術大学は何の対応も取らないし、何の責任も取らないという「宣言」だからである。 地域住人平山の申し入れを「騙した」上で踏みにじるというのは、この「京都市立芸術大学>地域住人」という「序列をつくった」という事に他ならない。 「三階>一階」という序列を確定させた。だからこれは意図的にやっている。
   
・今後、京都市立芸術大学は、東九条地域「一階」住人に対して差別も侮辱も未来永劫やりたい放題できる。という「前例」を京都市立芸術大学は今回の事件で「確定」させた。
   
・今後「共生と分有のトポス」プロジェクトリーダーの
   
佐藤知久(本学芸術資源研究センター専任研究員/教授)
田中功起(本学美術学部構想設計専攻准教授|本プロジェクトコンセプト・プランニング)
藤田瑞穂(本学ギャラリー @KCUA チーフキュレーター/プログラムディレクター|本プロジェクトプロデューサー)
森野彰人(本学美術学部陶磁器専攻教授)
   
の四人は在日韓国朝鮮人をどれだけ差別をしても、底辺層の人間をどれだけ蹂躙しても、どれだけ東九条地域を壊しても、おとがめなしのやりたい放題できる、ということを「確定」させた。
   
アートの横暴、近代の横暴、「三階」の世界の横暴、ここに極まれりである。 近代において「神は死んだ」といわれるが、神は死んだのではない。「わたし」が「神殺し」をするのが近代である。太古は生贄を神にささげた、大地に捧げた、死者たちに捧げた。今は違う。 「わたし」が神を殺して、その神を生贄として「わたし」に捧げるのだ。 そして現代の「神殺し」とは「歴史感覚殺し」である。しかもそれは「共生」「多文化共生」「アート」「反ジェントリフィケーション」の美麗字句のもとにおいて遂行される。
   
近代以降、「わたし」は「わたしを生かしてくれる存在」を殺し続けてきた。それを神と呼んでもいいし、大地と呼んでもいいし、死者たちとよんでもいいし、歴史感覚と呼んでもいいだろう。
   
アートも芸術も共生も多文化共生も「神殺しの供儀」でしかない。「死者殺しの供儀」「大地消滅の供儀」「精霊滅殺」の供儀でしかない。それを「虚無化儀礼」と呼んでもよいだろう。
   
だから、京都市立芸術大学が、地域住人平山の申し入れを「だました」上で踏みにじったことは「儀礼的な意味」がある。 それは「歴史感覚殺し」という「供儀」である。その「供儀」によって「京都市立芸術大学>地域住人」という序列を確定させ、今後も「歴史感覚殺し」を遂行する環境をつくったのである。
   
「供儀」ということであれば、2025年4月26日の東九条春まつりにおいて、平山が身体を拘束された上で会場から排除されたのも「供儀」である。 「多文化共生」による「歴史感覚殺し」という「神殺し」の供儀。
   
京都市立芸術大学が「共生と分有のトポス」という「神殺し」の供儀によって手に入れたのは11530000円の文化庁の助成金と「京都市立芸術大学>地域住人」という差別的秩序(≒コスモス)である。
   
さて、その京都市立芸術大学の学長さんが提唱する「緑の回廊・百年の森プロジェクト」。
   
小山田徹氏は、次はいったいなんの「神殺し」をするのだろうか。
   
小山田徹氏はどこのなんの神を殺して、どこに生贄ささげて、何を手に入れるつもりなのだろうか。
   
連載前回では京都市立芸術大学の「思い上がり」について書いた。しかし、近代的自我とは「思い上がる」ように出来ている。 なぜなら「神殺し」をして、その神をいけにえとして「わたし」に捧げているのだから。 「わたし」はどんどん肥大し、思い上がっていくだけである。 その「思い上がった」「わたし」がいくら人権だ、平等だ、共生だ、多文化共生だ、アートだといったところで、それは「思い上がり」にすぎない。 そして神々はどんどん殺され、大地は死滅させられ、聖霊は滅ぼされ、死者たちは殺されてゆく。
   
もう、殺される死者すらも、この大地には残っていない。大地は死に絶え絶えだ。
   
その大地に、何の森を植えるんや?
   
小山田はん、
   
その森を植える大地を殺したのは、死者たちを殺したのは、神々を殺したのはあんたのとこの京都市立芸術大学や。
   
森を植える前に、まず、おまえらが殺した大地を復活させることが先とちゃうんかい。
   
百年の森?笑わせんな。おまえらが破壊した百年の歴史をまず再生させろ。
   
ジェントリフィケーションの森は必要ない。虚無の森は、必要ない。
   
商業アートはもういらないというけれど、少なくともいまのところ、チームラボが東九条地域の「歴史感覚」に対して「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」なんてことはしていない。 チームラボは商売であれをやってる。だから東九条地域に何の興味関心も無い。だけど、それがええのよ。難しい問題にむやみやたらに手を突っ込んでこない。 その線引きができるからこそ「お隣さん」になれるわけで、チームラボが来たのは、イオンモールが来たのと何もかわらない。 商業施設が増えました。それだけ。それは東九条の「歴史感覚」になんら影響を及ぼさない。これをジェントリフィケーションやーーー!て騒いでる奴が東九条地域の歴史感覚を破壊するという皮肉。
   
チームラボとか、いろいろできるけど、それはパチンコ屋が増えたのといっしょ。おれはパチンコはしないけど、パチンコ屋は好きなんよ。 おまえらアート様はパチンコ屋みたいなもんは眼中にないんやろうけど、最近東九条からはパチンコ屋が減った代りに商業アートができたってことやんか。これも時代の変化よ。 で、もし仮に新しいパチンコ屋が東九条にできたら「ジェントリフィケーションやーーー!!」て言うか?言わんやろ。いやわかるよ。 これまでの東九条の歴史や文脈と関係のない商業アート施設が東九条にできる違和感は。その違和感はおれにもある。でもそれで言うたら京都市立芸術大学も同じやん。 それが「芸術アート」だろうが「商業アート」だろうが、どっちも違和感しかない。だけど、実際に東九条地域に破壊的な影響を及ぼしたのは京都市立芸術大学や。
   
「商業アート」が必要ないというけれど、それはイコール「商業アートを必要とする人」を必要ない、と言うてるのと同じやん。これな「選民思想」やで。 「商業アート」が好きで楽しんでいる人もいるやんか。パチンコが好きでそれが生きる楽しみだという人がいるように。 「商業アートが必要ない」なんてのは「三階」のエリート層の「思い上がり」そのもの。
   
チームラボが「商業アート」の施設やったからおまえら「芸術アート」はぐちゃぐちゃ言ってるだけ。あれがもし、美術館やったらどうや?文句言うてへんやろ。 水族館でも文句言わんやろ。つまり、「商業アートやーーーー」「ジェントリフィケーションやーー」いうてるのは、おまえら「アート」の縄張り争いでしかない。 そしておまえら京都市立芸術大学による東九条地域を対象とした「共生と分有のトポス」はその縄張り争いの一環なんよ。 で、森をつくるというのもそう。それはただの森ではなく「アートの森」やん。匿名の森ではなく「アートの森」。
   
あんな、森は森だからこそ森、なんよ。わかるか?「森は森」というこの「同語反復性」こそが森なんよ。
   
「森は森の森である」
   
これが「森」なんよ。
   
だから「百年の森」は森ではないの。「~の森」は森ではないの。
   
小山田徹の「署名捺印」が入った森は森ではないの。
   
「百年の森」は「百年の森」であってそれは森ではない。わかるか?
   
「森は森の森である」このことばを百年つぶやけ話はそこからや。
   
小山田はん、あんたがやってることもまた、その土地への「デザイン、再解釈再発明、介入、アートを再配置」なんよ。
   
森のアイデアもいいとはおもうけど、まずは、京都市立芸術大学の、「他人の家の冷蔵庫を勝手にあける」しつけのなってないガキどもをちゃんと怒ってから出直してほしい。 特に佐藤知久田中功起藤田瑞穂森野彰人のこのクソガキ四人はちゃんと指導せなあかんよほんまに。
   
森の話はそこからや。
   
「森は森の森である」
   
ええことばや。
   
歴史感覚復活再生に森は欠かせない。
大地があるから森がある。でも、逆の道もある。森が大地を再生させるという道。森が歴史感覚=大地を再生させるという道、その道も実はある。 だから小山田氏の「森」の構想自体はおれは良い構想だとは思っている。だが、このインタビューでは小山田氏は
   
>緑が増えれば幼稚園ができたりお店ができたり、新しい豊かさの軸が経済として生まれてくるんじゃないかと。
   
と言ってしまっている。結局「経済」なんかい…。幼稚園ができたりお店ができたり、て、ほなそれ森じゃなくてビルでもええやん…。 せめてな、「森ができたらそこには魔女が住む、鬼も住む、精霊たちが帰って来た。人間たちも森のみんなといっしょに踊って歌いました」くらいのことは言えんのか…。
   
あのな、「森」は何かのための「森」ではなくて、「森は森」なんよ。
   
ええか?
   
身体を回復再生するのは「同語反復性」。こころを回復再生するのは「同語反復性」なんよ。
   
なぜなら「同語反復」とは「存在のことば」だから。「矛盾」もそうなんやけどな。
   
森や大地にはその「同語反復性」があるのよ。
   
でも近代的知性において「同語反復」は無意味なものとして意味を形成しない。
   
哲学とか思想で「神の存在証明」てあるやろ。あれどんだけの天才でもできひんやろ。
   
おれはできるで。
   
「神は神である」もしくは「神は神の神である」
   
以上、神の存在証明お終い。
   
同語反復。これでおしまい。
   
ただし、この同語反復をちゃんと体感できる「身体」がなければこの「証明」は「体感」できない、けれども。
   
哲学の本が何であんな難解で長大でたくさんあるか。それは同語反復で生じる無限や永遠を文字で記述しようとするから。そんな作業が終わるはずはない。
   
これが「哲学」の限界で、「哲学」は身体を切り離して思考だけで解をえようとするから絶対に解にたどり着くことは無い。
   
これは神の問題だろうが何の問題だろうが同じ。
   
そして同語反復性をもちうることばとは詩である。詩といいながら同語反復性が無いものは詩ではない。エッセイである。
   
詩でない森は森ではない。
   
「緑の回廊・百年の森プロジェクト」ということばは詩ではない。それはことばの「ビル」である。構築物。小山田徹氏のエッセイ。 「緑の回廊・百年の森プロジェクト」ということばはマンションポエム。
   
だから、実質ビルであるような森をつくってもしゃーないのよ。それは虚無の森や。
   
身体の無い、虚無の森や。
   
虚無の森は必要ない。
   
それは京都弁で、そんなんどっかほっといて、や。
   
「森」のいいところはその同語反復性にある。
   
例えば平山がどこぞの「都市」に居る時、「平山剛志は在日韓国人三世である、清掃夫である、男である、…である、…である」
   
と「平山剛志は~である」というアイデンティティな存在になる。
   
だが、平山剛志が「森」にいるとき
   
「平山剛志は平山剛志である」となる。もしくは「おれはおれである」あるいは「人間は人間である」となる。
   
森のよさというのは、そこに居る全てが仮面であるアイデンティティではなく、「存在そのもの」で在ることができることだろう。
   
それは「大地」もうそうである。だからこそ冒頭引用したアボリジニーの父親は「>何も理由がないのに、大地にしるしを付けたり、穴を掘ったりしてはならないという」のだ。 「大地」は「存在そのもの」だからだ。そこに線を引いたり穴をほるとそれは「大地そのもの」でなくなってしまうからである。
   
「同語反復」とは存在そのものを現すことばである。「森」に居る時「わたし」は存在そのものである。
   
だが、逆に言えば、実際の「森」が無くとも、「同語反復性」があれば、そこに「森」は出現する、「存在」が顕わになる。
   
で、それを顕わにするのがアートの魔術ってもんじゃないんかい。
   
ジェントリフィケーションがどやとか共生がどやとかそれもええやろ。
   
せやけどな、京都市立「芸術」大学なんやったら、アートの魔術を解き放てばええだけやんか。
   
「共生と分有のトポス」てなんやねん。
   
しょぼすぎて涙がでるわ。
   
無理して芸術とか言わんと、「京都市立ブブ漬け大学」に改名したらええ。それくらいのスケール感や。ほんまに。
   
「共生とぶぶ漬けのトポフ」とかいうて。ブブ漬けかトポフかどっちやねん!いうてな。 「ぶぶ漬けなのか、トポフなのか、その問いにとどまり続けること…それが共生です」、とかいうたら助成金ももらえるわ。しらんけど。
   
しゃらくさいんよ。共生とか分有とかトポスとか森とかジェントリフィケーションとか。
   
「アートはアート」である。
   
そう言い切れるような表現なり作品なり、ことばなりなんなりを顕したらええんよ、芸術大学なんやから。
   
「アートはアートのアートである」と、そんなアートを顕したらええんよ。それだけやん。
   
同語反復によって言い現わされるようなアートには共生も分有も森も何もかもが入っとるやろ。
   
それが何のことばであれ、「同語反復」には「世界の全て」が入っている。
   
魚屋は魚屋。定食屋は定食屋。本屋は本屋。アートはアート。
   
そして、
   
「東九条は東九条」
   
なんよ。
   
東九条地域住人は「東九条を生きている」のではない。
   
『「東九条は東九条」を生きている』のよ。
  
こっちは世界の全てを生きとるんじゃ。
   
おやまだ!!!!!
   
共生とか森とかアートとかぐちゃぐちゃ言わんと、
  
おまえらの世界のすべてをぶつけてこんかい!!
   
東九条は東九条じゃ!!!!!!!!!!


    

   

    

2026年2月13日

戻る