【連載】『東九条、死者無き多文化共生の行方≪29≫』

〈雑談その6〉

現代東九条の儀式儀礼供儀 供儀の本懐「復活」

   
 p36 たとえば、われわれが素朴に日常を振り返ってみるとき、そこでは、多少なりとも「儀礼的」と形容するのがふさわしいような現象がけっして少なくないことに思い当たるのではないだろうか。 この場合の「儀礼的なもの」とは、ある意味で「呪術的なもの」とほとんど同義であるが、 要するに、人がなぜ一見したところ「無意味」なことや「空疎」なことや「ばかばかしい」ことや「無根拠」なことにこんなにも固執しているのか、 よく考えたら判らなくなるような事柄がわれわれの身の回りにあふれているということなのである。
 それらは「近代的なものの見方」からすればほとんど「不合理」なことだらけである。このような意味で「儀礼的」な現象は、 それこそ大は国家的な儀礼祭典や政治的パフォーマンスから、小はごく私的で内輪の身振りや観念にいたるまでくらでも見出される。 「不合理なもの」としての「儀礼的なもの」は社会に偏在していると言ってもいい。
   
 p47 第二に、われわれは「儀礼的なもの」が社会再生産の条件であると考える。社会が単に静態的に存在するのではなく、日々不断に再生産されているという点は決定的に重要である。
   
 p48 また社会が再生産されているといっても、それは、ある時点における成員のすべてが同一の社会的記憶の体系を有するような状態が実現され続けるということではない。 そんなことは絶対にありえない。社会の再生産とは、社会関係の一定の安定性や秩序が保たれ続けているということ以上のものではないのであり、 そのかたわらで、膨大な量の記憶が社会のあらゆる地点で不断に生成し、流通し、消滅しているのである。
   
 p48 あらゆる社会システムはたえず変化の途上にあり、時間がたてば非常に多くの事柄がそこでは変化してしまう。 場合によっては、個別の社会的形式の大半がほとんど別物になってしまうこともある。そこでは、通時的な自己同一性の意識すらほとんど失われてしまうように見える。 それにもかかわらず、社会はその「安定性」や「同一性」や「秩序性」を、なんらかのかたちで維持し続ける。 また、社会は常に大小さまざまな利害対立や制度的・イデオロギー的矛盾を抱えているにもかかわらず、一定の安定性を保っている。 「儀礼的なもの」とは、社会のこのような「安定性」を維持する何ものか(entity,Etwas)として必然的に作用せざるを得ないものである。 つまり、それは社会の同一性を産出する媒体であり、条件である。またそれは「変形を通じて不変の特性を保持する」構造に似て、個別具体的な社会的形式としてはどのようなかたちをとろうとも、 自らは常に「儀礼的なもの」としての特性を維持するのである。
   
「儀礼のオントロギー 人間社会を再生産するもの」 今村仁司+今村真介 著 講談社 より引用
   
儀礼。儀式。近代だ現代だと言ったとて、人間は社会的存在である限り「儀礼」からは逃れられない。それは「挨拶」ひとつとってみてもわかるだろう。 儀礼といえば「前近代」的で不合理で、近代的知性を身に着けた現代人にとっては「野蛮」で粗野で無知蒙昧、「反知性」な営みに見えるのかもしれない。 だが、人間はどこまでも「儀礼」的存在である。極論すれば、人間の営みの「全ては儀礼である」とさえ言ってもいいだろう。 それは「全ては身体である」と同義である。儀礼が社会を再生産するというのであれば、身体さえあれば社会は再生産されるのだ。 平山が身体、身体、としつこく言っているのは身体さえあれば社会は再生するからであり、この社会がどんな状況になろうと平山が希望を失う事がないのは、身体が在るからである。
   
人間はどこまで文明や文化や技術を発展させても身体からは逃れられない。と同じく、近代的知性が発展し、科学的思考や合理的判断や人権意識がどれだけ高まろうともこの社会は「儀礼≒身体」からは逃れられない。 選挙のたびに、「国民、有権者は何故こんな愚かな選択を繰り返すのか」と嘆く左リベラルのエリート層がいるが、それが「不合理」に見えるのは選挙が「儀礼」であるということを過小評価しているからである。 もちろんその「嘆き」はわかる。平山自身も志向的には左でありリベラルである。だが、現在の市井の人たちがこの社会が破滅するような選択をするような心情もわかる。 もうこの社会は右も左も下も上も疲れ切り弱り切っているからである。「弱者」ほど「勝ち馬」に乗ろうとする。たとえそれが「破滅の勝ち馬」だったとしても。 いや、それが「破滅の勝ち馬」だからこそそれに乗ろうとする。何故自ら破滅するような選択をするのかといえば、それはその破滅が「破滅の儀礼」だからであり、一種の「供儀」だからである。 その「破滅の儀礼」が社会を再生するための「供儀」だとしたら話の筋は通るだろう。破滅するのだから再生しなさそうなものだが、新生はするのかもしれない。
   
社会が変わる、思想が変わる、そのはるか以前に身体はすでに変わっている。その社会と身体の間隙を調整、調律するのが「儀礼」であり「儀式」である。 故に時代によって「儀礼・儀式」は変化するのだが、社会と身体との間隙が大きければ大きいほど「犠牲」は大きくなる。その間隙が最小であれば「犠牲」は起きなくなる。 だから、儀礼によって犠牲を出さないためには、先に来る身体の変化にどれだけ早く気付くことができるか、ということが肝要である。そしてそれは「非近代的知性」によってしかできないことである。 「非近代的知性」を持たない、むしろそれを蔑み馬鹿にして排除してきた知的エリート層が敗北し続けるのはそれが理由である。
   
だがその「非近代的知性」も現代では伝統的な宗教は力を失い、空回りする「スピ」や「自己啓発セミナー」があふれているだけである。 だが現代は「近代的知性」と「非近代的知性」を両方身に着けていることが肝要で、なかなか難儀な時代である。難儀の儀も儀礼の儀。まさに「儀礼=社会の再生産」が難しいから「難儀」ということである。
   
「難儀」な時代とは社会を再生産する「儀礼」が機能していないということである。なぜ「儀礼」が機能しないかといえば「身体」と「わたし」が著しく乖離しているからだ。 「わたし」と身体が一致してこそ「儀礼」は機能する。そして現代人はその「わたし」と身体とを統合する術をもたない。 だからそのバラバラの心身で社会をつなぎとめようとする空転する努力こそが「多文化共生」や「共生」という思想である。 だが「身体」と「わたし」が著しく乖離していたとしても、それでも「全てが儀礼」であるとするならば、「多文化共生」のみならず、 この東九条地域で起きた一連の事件や出来後も全て「儀礼」や「儀式」として読み解くことができるだろう。それが出来損ないの儀礼や儀式だとしても。
   
旧民衆文化運動・現多文化共生のまつり「東九条マダン」という「儀式/儀礼」
東九条空の下写真展という「儀式/儀礼」
京都・東九条はるまつりという「儀礼/儀式」
京都・canフォーラムという「儀礼/儀式」
浜辺ふう=山崎なしによる九条劇という「儀式/儀礼」
京都市立芸術大学の「共生と分有のトポス」という「儀礼/儀式」
小山田徹氏による「百年の森」という「儀式/儀礼」
多文化共生という「儀礼」
共生という「儀礼」
   
「社会を再生産する」という意味では多文化共生や共生も、今までになかった「社会を再生産する」ための「儀礼」である。 ただその「儀礼」を受け入れることができない人もいるし、実行できない人もいる。 それは思想や考えの違い以前に「身体」の違いであり、「歴史感覚」の違いでもある。それが「新たな儀礼」であるということは現代的な新しい「問題」に対応した「儀礼」である。
   
例えば「多文化共生儀礼」を通過するならば、人の身体は「多文化共生身体」や「共生身体」となるはずである。 つまり「身のこなし」としの「多文化共生」である。本当に多文化共生を実現するには、それは人権意識や反差別意識も大切なのだけれども、それ以前に「多文化共生できる身体」になっていないとできない。 京都市立芸術大学の「共生と分有のトポス」が嘘くさいというか嘘なのは、彼らが「共生できる身体」になってないからである。 というか「共生身体」になるつもりがない。共生なんかする気がさらさらないのに「共生」とか言うから失敗する。そして「東九条多文化共生エリア」を観察しても「多文化共生身体」であるような人はいないように感じる。 「教義」や「ルール」として多文化共生をしているだけで、「多文化共生身体」であるような人はまだ見たことが無い。
   
そして東九条地域における「多文化共生儀礼」に問題があるとすれば、それはこの儀礼が「供儀」だからである。何かを生贄に捧げることで社会を再生産する「供儀」である。供儀には生贄となるスケープゴートが必要となる。 「東九条多文化共生ムラ」においてスケープゴートにされるのは東九条地域に元から住む地域住人である。 東九条地域における多文化共生は「主体性を発揮する東九条地域住人」を排除することで実現される。 2025年4月26日の多文化共生のイベント「東九条春まつり」において、差別に抗議する地域住人平山が身体を拘束されたうえで見世物のように会場から排除されたのは、 語の全き意味において「多文化共生セレモニー」であった。これこそがまさに「多文化共生儀礼」であり「多文化共生の供儀」である。 前川修が平山に「警察呼ぶぞ」と弾圧したのも「供儀」、「平山が暴力をふるった」というデマを流されているのも「供儀」、京都市立芸術大学が平山の申し入れだました上で踏みにじったのも「供儀」である。 自分たちの共同体に馴染まない「他者」、敵対する「他者」を生贄にする「供儀」である。その「供儀」によって「多文化共生ムラ」の絆を強固なものにする。
   
さて、ここで考えてみたいことは、「儀式・儀礼」には大きく二つあるということである。それは、何かが犠牲となる「供儀である儀礼」と、何も犠牲にならない「供儀ではない儀礼」である。 例えば「挨拶」も社会を再生産する小さな「儀礼」ではあるが、「挨拶」によって誰かや何かが犠牲になることは無い。 だが「いじめ」はその集団の中の誰かを「犠牲」にすることでその社会を「再生産」する暗い「供儀」である。
   
「供儀」とは生命における生と死の再生を「生贄」を通して象徴的に実現しているのだと言ったとて、やはりイジメや不当な排除はあかんやろ。 人間はどれだけ人権意識に目覚め、近代的知性を発達させようとも身体からは逃れられない。故に「儀式・儀礼」からは逃れられないのだが、
他者に犠牲を強いる「供儀」はどうにかならないものなのだろうか。
   
大昔は王様が死ねば召使もまた生きながらに一緒に埋葬されたりしたが、のちにそれは人形に置き換わる。人が死ぬ「供儀」の代りにそれを象徴する「動物」を生贄にするという変化だってある。 その動物ですらその代わりの人形や物に置き換わる。やはり、時代が進むにつれ、血なまぐさい「供儀」もできるだけ人間や動物が死なないようにしてきたわけである。 ならば現代においても、社会を再生産するための「儀礼・儀式」から「供儀」を無くすこと、もしくは「供儀」に代わる何かはないのか、「供儀」の犠牲を最小限度にできないのか、 それは現代儀礼が真剣に取り組まなければならないことである。
   
「供儀」の生贄となるのは共同体にとっての敵や「よそ者」である「他者」である。 そしてその「他者」はある種の「過剰」であり、「有限の日常」に対して「無限」のような存在であり、その「過剰」が共同体の「日常」を脅かすからこそそれは「生贄」たる資格を有するのである。
   
という意味では「東九条多文化共生エリア」にとって平山という「過剰」は「生贄」としての資格を有しているわけである。 これは平山だけではなく、「東九条多文化共生エリア」にとって東九条地域住人はある種の「過剰性」を有している。そしてその「過剰性」は「多文化共生」によって「排除」される。 「東九条多文化共生エリア」において東九条地域住人は完全に排除されるか、主体性を剥奪されることで、福祉のサービスを受ける者、イベントのお客さん、教育サービスを受ける者、 という何らかのサービスを受ける受動的で客体的な存在であることしか許されなくなる。
   
平山のように主体性を発揮する地域住人は「東九条多文化共生エリア」にとっては「招かれざる他者」であり、排除排斥、主体性剥奪、存在の抹殺消去をされる。その「他者性」そのものを消されてしまう。
   
ここで問題なのは、「東九条多文化共生エリア」における「多文化共生(儀礼)」が「他者性の消去」として機能しているということである。 多文化共生の本懐とは「他者性の尊重」である。まずもって目の前の人間を他者として認めること、他者として存在することをゆるすことである。 だからこその「共に生きる」である。だが「東九条多文化共生エリア」における「多文化共生儀礼」は逆に「他者性の消去」をしてしまう。 そしてさらなる問題は、その「他者性の消去≒供儀」によって再生産されるのが社会ではなく「わたし」であるということである。
   
浜辺ふうの演劇がそうである。その演劇の中で東九条地域を歪め、在日韓国朝鮮人の歴史感覚を破壊する「供儀」によって再生産されるのは浜辺ふうの「わたし」である。 その「他者抹殺の供儀」は東九条の社会そのものを「生贄」として「わたし」を生み出す。非常に危険な「供儀」である。 東九条多文化共生エリアの関係者が浜辺ふうやレイシスト山崎なしを許容するのは「他者抹殺の供儀」の共犯者だからである。 だから平山は「全身」で怒り狂っているのだが、これは「東九条多文化共生エリア」そのものの体質であることが明らかになった。
   
「東九条多文化共生エリア」は、東九条地域住人、東九条地域社会を「生贄」にすることで「多文化共生(≒わたし)」を生産する「供儀」を実践し続けている。 東九条の社会そのものが「生贄」となっているのだから、その社会は消失し「虚無」となる。平山がこの連載で、東九条で「虚無化」が進行していると言っているのはこの現象を言っている。 これは「身体」のレベルで起きてる現象である。
    
これは京都市立芸術大学の「共生と分有のトポス」もそうである。東九条地域を「生贄」にすることで文化庁の助成金を得るという身も蓋も無い「供儀」である。 京都市立芸術大学が地域住人平山からの申し入れを「だました」上で踏みにじり無視した理由はそれが「供儀」だからである。「供儀」だからこそ地域住人平山を「だまして踏みにじる≒殺す」必要がある。
    
これは大なり小なり、社会のどこにでも起きている現象である。 なぜ正しい事が通らないのか、何故不条理なことが起きるのか、何故人は見て見ぬふりをするのか、何故無能で倫理観もない者ほど責任ある立場につくのか、 何故悪い事をした政治家がのうのうと許されているのか、何故人権意識もあり教養もある人間が差別をするのか、何故、戦争は起き続けるのか、何故ならそれは「供儀」だからである。 「他者」に犠牲を強いる「供儀」だからである。
   
もちろん「社会を再生産」するためといえど、こんな犠牲はあってはならない。 だが問題の本質は、現代における「供儀」は社会を再生産するための「供儀」ですらなく、「わたし」を生成するための「供儀」になっているということである。
   
「わたし」のためにこころが犠牲になり、「わたし」のために身体が犠牲になり、「わたし」のために社会が犠牲になり、「わたし」のために人間が犠牲になる。
   
その「わたし生成の供儀」によって社会の再生産は起きない。現代人がうっすら自覚しつつある絶望とはこの身体レベルでの絶望である。
   
「わたし生成の供儀」のために、身体が消え、こころが消え、社会が消え、人間が消え、「わたし」すら消え、虚無だけが残る。
   
だがそもそも近代という「儀礼」はひたすらに「歴史感覚破壊儀礼」「神殺し儀礼」「大地消滅儀礼」「死者殺し儀礼」「精霊殲滅儀礼」をしてきた。 「わたしを生かすもの」をひたすらに殺しそれを「わたし」に捧げることで「社会=わたし」を「生成」してきた。
   
だがもう遂に、その犠牲にするための歴史感覚も、神も、大地も、死者たちも、聖霊もこの世に居なくなった。現代に至って人類は「破壊儀礼」をし尽くした。 犠牲にする何かがなくなったからついに「わたし自身」を犠牲にした「供儀」をするしかない。だからこの社会の「わたし」の群れがこぞって破滅に向かっている。 「わたし」が「わたし」に「わたし」を捧げるために。そして「わたし」ですらない「虚無」が生成されていく。それがこの社会で現在起きていることである。
   
「わたし」が「わたし」に「わたし」を「生贄」にし「わたし≒虚無」を生成する「供儀」が延々と行われている。
   
社会のどこかしこで。そしてそれは「東九条多文化共生エリア」でもその「供儀」は行われ続けている。
   
もはや「供儀」ですら「儀礼」として機能していない、まさに「難儀」な時代なのだが、だからこそ「儀式・儀礼」の本懐である「社会を再生産」するための機能を取り戻さなければならないのである。つまり
   
「わたし≒虚無」を「生贄」にすることで、「こころ身体」を再生するための「供儀」が必要とされる。もはや「過剰」なのは「わたし≒虚無」である。 そして「こころ身体」が在れば自ずから「わたし」は勝手に生じる。犠牲にされるべきはこころではない、身体ではない、社会ではない。その過剰な「わたし≒虚無」である。
   
「過剰なわたし≒虚無」とは東九条地域においては「東九条における多文化共生」であり、「共生と分有のトポス」であり、「アート」である。 この「こころ身体無き過剰≒虚無」こそが「供儀」に捧げらるべきであり、そうして初めて死者たちは復活し大地は再生する。
   
「万物は流転する」が、人間社会においては「儀式・儀礼」が機能していればこそ社会で「万物は流転」するのである。だからこそ太古から祭りやカーニバルに人間は命を賭してでもそれを連綿と続けてきた。 「万物は流転」する。だが「虚無」は流転しない。「身体無き過剰≒わたし=虚無」「こころ無き過剰≒わたし=虚無」「虚無」は流転しない。現在われわれは「万物が流転しない世界」、「難儀な世界」を生きている。
   
もはや伝統的な「祭り」は観光地化し、神々を感じることも、精霊と遊ぶこともできなくなった。死者たちは打ち捨てられ、大地は消えた。虚無だけを残して。
   
虚無だけが残ったのならば、虚無を生贄に、死者たちを再生し、大地を復活させる「供儀」が必要となろう。
   
この虚無化する社会の「他者抹消の供儀=わたし生成の供儀」の犠牲になりたくなれば、ただ「過剰であるわたし≒虚無」をこの身体に捧げるよりほかない。 身体だけは虚無化できないからである。だからこれまで殺され消された「全て」は身体に逃げ隠れ潜んでいる。
   
殺された神々はこの身体で復活の時間を待っている。大地から追い出された精霊たちはこの身体でかくれんぼをしている。打ち捨てられた死者たちはこの身体で冷たく固まっている。 大地は消されたが、この身体こそがこの世界に残された最後の大地である。この身体だけは虚無化できない。だから平山は全く絶望していない。消され殺され打ち捨てられた「世界の全て」はこの「一つの身体」に在る。
    
実は、この時代は、かつて身体の「外」にあった全てが、身体の「内」に在る時代である。神々も、精霊も、死者たちも、大地も、宇宙すらも、全てがこの身体に在る。そんな未曽有の時代を生きている。
   
身体は「全てひとつ」の「ひとつの全て」
   
誰も何も犠牲とならない、「全てひとつのひとつの全て」
   
キリストは墓からよみがえった、という。
   
なぜか。
   
キリストは「わたし」ではなく、「全てひとつのひとつの全て」だったからである。
   
それこそが「復活」の秘密であり、「儀式・儀礼」における「秘儀」である。
   
「復活」とは「わたし」として再生することではなく、「わたし」は死ぬが「全てひとつのひとつの全て」として再生するということである。
   
そして「供儀」において犠牲に供されるべきは「わたし」であって「他者」ではない。
そもそも「他者」を犠牲にするような「供儀」はその本懐を果たさない。
   
「儀式・儀礼」の本懐とは「社会の再生産」ではない。
「儀式・儀礼」の本懐とは「全てひとつのひとつの全て」の「復活」である。
それは、「わたし」が殺した「全てひとつのひとつの全て」の「復活」である。
であるがゆえに「供儀」において犠牲に供されるのは「わたし」なのだ。
   
ナザレのイエスが死んで、「全てひとつのひとつの全て」が墓からよみがえった。これが「キリストは墓からよみがえった」という「復活」の意味である。
   
その身体が「復活」をとげ、「全てひとつのひとつの全て」であるならば、もはや個別具体的な儀式儀礼は必要ないだろう。
   
この時代が「難儀」な時代であるならば、そして世界のすべてがこの身体に隠れて在るならば、それは逆に誰もが「全てひとつのひとつの全て」として在ることが可能になった時代であるともいえる。
   
「全てひとつのひとつの全て」として在ること。それはかつては特別な宗教的才能をもった者たちにしか体現できなかったことだが、この「難儀」な時代においては万人がその条件を有している。 なんせもうすでにこの身体に「全て」があるのだから。
   
現在進行中の「破滅の勝ち馬の供儀」がもたらす次の時代とは、誰もが「全てひとつのひとつの全て」として在ることに開かれた時代であるだろう。
   
「東九条多文化共生の供儀」による「わたし≒虚無」の生成はその暗い過程にすぎない。その虚無を身体に捧げるためのその祭壇をおれは今こうして綴っている。
   
キリストが墓からよみがえったように、こころも死者たちも大地も精霊も神々も世界もまた墓からよみがえる。
   
だが、よみがえるための墓は必要なのだ。
   
墓すら無ければキリストも世界もよみがえらない。
   
その墓とは身体のことである。
   
身体こそは、全てがよみがえる墓である。
   
虚無を供物に、この身体で、今、世界がよみがえる。
   
   
参考文献
   
「儀礼のオントロギー 人間社会を再生産するもの」 今村仁司+今村真介 著 講談社
   
「歴史・祝祭・神話」 山口昌男 中央公論社

   



    

   

    

2026年2月23日

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