【連載】 『東九条、死者無き多文化共生の行方≪30≫』

〈雑談その7〉

読書感想文 本田哲郎 著「釜ヶ崎と福音」 岩波書店

   
人が人としてあつかわれないまま放置されるとき、踏みつけにされるその人の人権が傷つけられるだけでなく、踏みつける側の人々の心を荒廃させます。 自分は直接手をかけなくても、それを見て見ぬふりをする人たちも等しく、人としての尊厳を蝕まれていくのです。
   
本田哲郎 著「釜ヶ崎と福音」p251より引用。
   
平山はこの連載で底辺層の「一階」と、階級上昇した「二階」「三階」の世界の人間との間にある乗り越えがたい分断について書いている。 その階級間の分断を超えて関わることに大変な困難があり、東九条という差別や貧困の問題を抱え、 地域でその問題に何十年も取り組んできた地域ですら「階級間の分断」を乗り越えることはできていない。
   
連載22回において平山は、「一階」の人間には「上昇」が必要で、「二階、三階」の世界の人間には「下降」が必要であることを指摘した。 冒頭に引用した本田哲郎氏の文章はまさにそのことを書いている。
   
「一階」と「二階、三階、…n階…、」とのかかわり方は人それぞれだろう。どれが正解だという答えもマニュアルもない。 だがこの本田哲郎さんが書いた「釜ヶ崎と福音」はまさに「二階、三階」の世界の人間と「一階」の世界が人間が『身体』の重なり合いにおいて関わり共鳴する様が描かれている。 そして「救い」はまさに「二階、三階」の人間にこそ起きるということが理想やきれいごとではなく現実として書かれている。
   
この本は本連載にとっても、そしてあらゆる地域の問題と関わる人にとっても大きな示差を与えてくれる本だが、内容は多岐にわたっている。
   
階級問題について
救援活動について
社会運動について
救いについて
キリストが社会的底辺層であったことについて
聖書解釈について
非常に大切なことが隅から隅まで書かれていてしかもそれらすべてが関連しあっている。特に「階級問題」に関して本書は非常に多くの示唆を与えてくれる。 刮目し読まれるべき本である。その全てをここで紹介することはできないが、 平山はこの本に、宗教書としてかなり重要なことが書かれていてびっくりしたのでそのことをここでは書いてみたい。
   
それは、「シャマイーム」についてである。
   
その前に、この連載を読んでいる方に、ちょっとイメージしてほしいことがある。
   
あなたが有神論者であっても、無神論者であってもかまわない。考えずにイメージしてほしい。
   
「もしこの世界に神がいるとするならば、その神はどの位置にいるだろうか?」
   
それは「わたし」の上だろうか?前だろうか?斜め上?下?後ろ?それとも身体の中にあるだろうか?
    
「そしてその神はどんな姿をしているだろうか?」
    
無神論者であれ、宗教にこだわりが無い者であれ、「神イメージ」はもっている。 そしてこの「神イメージ」は人間のこころに重要な影響をおよぼしている。 「神イメージ」が「わたし」のどこにあるかは世界との関係のあり方を規定し世界を構造化する作用がある。
    
さて、「シャマイーム」である。本文p66~67から引用する。
   
以下引用━━━
   
 だからイエスは「食い意地の張った酒飲み」といわれていた。〈略〉「食べものに意地きたない人」のニュアンスであり、〈略〉。 底辺に生きる貧しい人たちの共通したイメージです。その上、イエスは頭がおかしい、「悪魔つき」といわれて社会から排斥され、最後は十字架の上で殺されていく。 誕生から死まで、底辺の底辺をはいずりまわるようにして生きたイエスでした。〈略〉
 イエスのこの生涯において、どの場面で上から下にくだる、「へりくだり」の模範を示したというのでしょうか。 とことん底辺から底辺に立ち続けたイエス像です。示されたのはつねに低みから立ち上がる模範でした。 〈略〉まず一つ、そこにまやかしがあったのです。神さまはきっと上におられる方に違いない。その神が人間の世界に下ってきたとう、そこがまやかしだったのです。
 詩編一三九編を見る限り、神は「前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上においてくださる」(5節)。 つまり、神はわたしたちみんなを包み込んでいてくださる存在なのだと教えているのです。それがなぜ、上をイメージしてしまうのでしょうか。 「天におられるわたしたちの父よ」と祈ることから、大空の天を考えてしまうのかもしれません。 「天」と訳されてきたヘブライ語の「シャマイーム」は「何層にもかさなってわたしたちを包み込むびっくりするようなもの」のことで、決して上だけを指してはいない。 神がおられるところを意味していて、天に神がおられるというより、神がおられるところを天と呼んでいるわけです。
   
━━━引用以上
   
本書ではこれまでの教会の権威付けのためのような「上から下」の「神イメージ」である聖書解釈を覆し、原典を忠実に翻訳することで、
   
p35
   
>神は、いちばん貧しく小さくされている者を通して、全ての人を救う力を発揮される。
   
という「下から上」の「神のはたらき」を解き明かしていく。しかも本書は本田哲郎氏自身の釜ヶ崎での関わりにおける自身の人生や心境の変遷を通して聖書を読み解いていく。 とても血の通ったことばがそこにある。その詳細はぜひとも本書を読んでほしいのだが、やはり「シャマイーム」である。
   
びっくりした。これは、ほんとうに、すごい事を書いている。もう一度引用する。
   
>ヘブライ語の「シャマイーム」は「何層にもかさなってわたしたちを包み込むびっくりするようなもの」のこと
   
これの何がすごいかって、これは身体が極めて自然な状態のときの意識や感覚の在りようそのものだからである。 この全方向的な意識、あるいは包み込むような感覚は「聴覚」に近い。聴覚は全方向的な感覚だからだ。視覚的な意識はどうしても前方に意識が偏る。 だからこそ「神イメージ」は前方および上方に形成されやすいのだが、「シャマイーム」はそうではなく、 「何層にもかさなってわたしたちを包み込むびっくりするようなもの」なのだという。 偶像崇拝の禁止というのはもしかしたら視覚的に神を捉えてしまうと「全方向性」が損なわれるからなのかもしれない。
   
平山は複数人で即興表現をする時に、相手の身体を直接「聞く」ようにする、あるいは場そのものを直接「聞く」ようにする。 すると、その場に調和した、あるいは共鳴した動きが勝手に生じる。視覚的に相手の動きを認識して反応したり、 相手の出す演奏の音を聞いたりしてはダメで、身体あるいは場そのものを直接「聞く」ようにすると考えたり反応したりしなくても勝手に身体は動き、相手や場と調和する。 そうすると意図して相手に合わせずともドンピシャでタイミングが重なっていく。この感覚は「シャマイーム」に似ている。
   
即興的な「場そのもの」であるような感覚や、「全方向的な意識」は誰でも訓練すれば体現することができる。 そしてこのような意識や感覚である時、「わたしと他者」の関係において、どちらが上とか下とかそんな関係性は消失する。 だから大切なことは、有神論者であれ、無神論者であれ、「神イメージ」を前や上方に限定しないということである。 何故ならその「上や前にある神イメージ」が差別的な世界観を生し、上下の序列である「階級」を形成するからである。
    
「差別はだめ」「貧困をなくそう」「平等に」「公平に」ということは、今の時代殆どの人が頭では理解していることである。 レイシストですら「差別はいけない」なんてことは理解している。だが、その「無差別」を実現する「身体」や「意識」や「感覚」がなければそれが実現することは無い。 思想的にどれだけ左でリベラルであっても、「神イメージ」が前方、上方にある限り「階級による分断」や「差別」を解消するような生き方をすることはできない。
   
どんな高邁な思想も理想も、それを実現する身体あってのものである。「無差別」には「無差別の身体」がある。 「平等」には「平等の身体」がある。「自由」には「自由の身体」がある。言わずもがな、「共生」には「共生の身体」があり、「多文化共生」には「多文化共生の身体」があるのだ。 多文化共生の施設の施設長の前川修が差別に抗議する平山に対して「警察呼ぶぞ」と言ったのは、前川修の身体が「多文化共生の身体」になってないからである。 恐らく、東九条地域住人を見下し差別する前川修の「神イメージ」は上方にあるだろう。 もちろん「共生の身体」になっていればすぐさま「共生」が実現するということではない。 「共生の身体」は、共生を実現する「前提条件」だということである。
   
差別をする側もされる側も、あるいは階級が上の者も下の者も、どちらもこころは蝕まれる。 何故なら、意識や感覚が上下に「偏在」するからである。その意識の偏在が起きる時、身体は硬直し、こころは淀み、世界は豊饒さを失う。 だからこそこの「シャマイーム」が聖書に記述されていたことは非常に重要なことであり、またこの「シャマイーム」が聖書解釈において歪められたことはその社会的影響、 あるいは身体への影響を勘案するならそれは痛恨の極みだといえる。もういちど、冒頭の文章を引用する。
   
>人が人としてあつかわれないまま放置されるとき、踏みつけにされるその人の人権が傷つけられるだけでなく、踏みつける側の人々の心を荒廃させます。 自分は直接手をかけなくても、それを見て見ぬふりをする人たちも等しく、人としての尊厳を蝕まれていくのです。
   
階級の固定化や分断は、階級が上の者のこころ身体も蝕む。そして差別もまた、差別する者のこころ身体をも蝕む。 そして固定化された階級の身体や差別的な身体を「ピラミッド型の身体」としたとき、 全方向的な身体、包摂的な身体を「シャマイーム的身体」あるいは「全体型の身体」ということができる。 現に存在する階級や差別を今すぐどうこうすることはできないのだが、身体を「シャマイーム的身体」にすることならできる。 恐らく、信仰や宗教的な修行とは、「ピラミッド型の身体や意識」を「全体型の身体」にすることだったのかもしれない。 だが、現在は特定の宗派信仰をもたずとも、全方向的な意識、あるいは包み込むような感覚であるような身体で在ることはできる。 もちろんそれは練習が必要だが、神無き時代においても、「神的な身体=全体性」は実現できる。 いや、神が殺されたからこそ、身体は特定の宗派信仰無しに「神的身体」を体感できるようになったのだ。神は死んで、身体として復活したのだ。
   
差別や階級ははるか昔から続く、未だに乗り越えられない問題である。 その解消には社会運動や人権意識の向上も大切なのだが、宗教的な感性や身体的知性といった「非近代的知性」もまた必要になる。 本書はその「近代的知性」と「非近代的知性」の両輪が回って噛み合う稀有な文章であり「一階」の世界の人間にとってはまさに福音であり、 「二階、三階」の世界の人間にとっても救いとなるだろう。そして異なる階級の世界の人間における関わり方のひとつのあり方を提示している。 今、この世界の全てが壊れそうな時こそ読まれるべき珠玉の一冊である。


   



    

   

    

2026年3月8日

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