【連載】『東九条、死者無き多文化共生の行方≪32≫』

〈雑談その8〉

読書感想文 S,Bペレラ 著「スケープゴートコンプレックス」  ー影と罪の神話学への試みー 河東仁 田口秀明 訳 大明堂

   
 われわれは、禍のもとという非難をうけている個人やグループのことを、スケープゴートと呼ぶ。 彼らのおかげで他の人たち、すなわちスケープゴートの作り手は、自分自身の責任を免れ、自らの力と正しさとをより強く実感できるわけである。 またこのような現代的な用法におけるスケープゴート探しは、生の超個人的な次元とのつながりからわれわれを解き放しもする。 というのもわれわれ現代人は、神を無視するという、この元型の歪んだ形式のもとで活動するようになり、生のもつ邪悪さをスケープゴートや悪魔のせいにしているからである。
 今では忘れ去られているが、そもそもスケープゴートは、地下神に捧げてその怒りをなだめ、共同体を癒すために、生贄として選ばれる人間や獣のことであった。 スケープゴートとは、≪薬≫すなわち癒しの仲介者だったのである。儀礼のなかでスケープゴートは神に捧げられ、神と同一視された。それは超個人的な次元の授けをみちびき、共同体を更新する機能を果たしていた。 というのも共同体は、自分たちが超個人的な力に囲まれており、それに左右されているとみなしていたからである。 スケープゴート儀礼はほかの儀礼と同じく、「生の意味を高めるためとか、存在の別の次元に注意を呼び起こすために(営まれた)。…(それは)生と善ばかりでなく、死と悪をも、一元的で壮大な統一的パターンのなかに一体化しうる(ものであった)」
 
現在なされているスケープゴート作りが意味しているのは、共同体の残りのメンバーが、自分には罪がなく集合的な行動規範と調和(合致)していると感じられるよう、悪や間違った行為と同一視でき、その責を負わせ、 共同体から追放することのできる人物ないし人々を見つけ出すことである。禍いのもととみなされた存在を追い払うことによって、責任が転嫁されると同時に、「将来の不幸や失敗に対抗しうる」。
   
S,Bペレラ 著「スケープゴートコンプレックス」 ー影と罪の神話学への試みー 河東仁 田口秀明 訳 大明堂 p1より引用。
   
 この連載において平山は東九条地域のある一群を「東九条多文化共生エリア」と呼んでいるが、実際のところそれは「東九条多文化共生ムラ」とでも呼ぶべき「ムラ社会」である。 どれだけ人権意識が高く、教養があり、共感性があり、傾聴の技術を身に着けていようが、そこがある種の「共同体」を形成する以上、前近代的な「ムラ社会」的な状態になってしまうのはある意味仕方のないことでもある。 そして「ムラ社会」において、イジメが発生し、異分子は排除され、その「ムラ社会」が「持続」するために犠牲、スケープゴートにされる者がでてしまう。 「持続可能な社会」ならぬ「持続可能なムラ社会」にはスケープゴートが必要なのだ。人権や個人の尊重や多文化共生などと、近代的な意識を持ちえたとて、人間はやはり前近代的な存在でもある。
だが「多文化共生ムラ」に限らず、スケープゴートは大なり小なり、どんな共同体においても発生してしまうことである。    
さて冒頭引用した文章を読み解くと、スケープゴートといっても、現代的なスケープゴートと、本来のスケープゴートがあることがわかる。
   
①現代的なスケープゴートとは
   
>共同体の残りのメンバーが、自分には罪がなく集合的な行動規範と調和(合致)していると感じられるよう、悪や間違った行為と同一視でき、その責を負わせ、共同体から追放することのできる人物ないし人々を見つけ出すこと
   
であるが、②本来的なスケープゴートとは
   
>地下神に捧げてその怒りをなだめ、共同体を癒すために、生贄として選ばれる人間や獣のことであった。スケープゴートとは、≪薬≫すなわち癒しの仲介者だったのである。 儀礼のなかでスケープゴートは神に捧げられ、神と同一視された。それは超個人的な次元の授けをみちびき、共同体を更新する機能を果たしていた。
   
ということである。この違いを言うならば
   
①現代のスケープゴートは「共同体を「維持」させるスケープゴート」
   
②本来のスケープゴートは「共同体を「再生、新生」させるスケープゴート」
   
だと言える。
   
この違いとは
   
①は神無きスケープゴートであり、生贄は象徴的に殺されその結果「わたし」や「共同体(われわれ)」が維持される。
   
②は「神々」に捧げられたスケープゴートであり、生贄は象徴的に再生しその結果、共同体が新生するということが起きる。
   
つまり、神あるいは神々があるか無いかの違いがそこにはある。スケープゴートが「再生の儀礼」となるか、ただのイジメや排除になるかはそこに「神々」がいるかどうかの違いなのだ。 だが現代においてもはや「神々」はどこにもいない。だからその「犠牲」は「儀礼」として機能することはなく、ただただ無駄死にとなってしまうほかない。 だが黙って無駄死にするほどこちらは人間が出来ていないわけで、必死に抵抗、抗議、反撃するのは当然である。 だがまさにその抵抗や抗議こそがスケープゴートパターンにハマっているということなのだが、スケープゴートコンプレックスに囚われた者は
   
以下引用━━━p141p
   
非難する告発者ーペルソナに覆われた、影を担う分離した自我ーと隠された生贄にアイデンティティ感覚が分裂した状態
   
━━━引用以上
   
になる。
   
「告発者」と「生贄」との分裂。
   
という意味ではまさに平山の現在の状態がそうである。この連載も然り、ここ三年ほど続けている東九条地域での一連の抗議活動はまさしく「告発者」であろう。 そして「東九条多文化共生ムラ」から排除されたのは「生贄」としての在りようだろう。
   
だからこそここで大切なことは、被害者で在り続けることではない。この平山自身の「告発者」と「生贄」の分裂をひとつにすることである。 だがそれはその分裂を無理やりくっつけることでは無く、その分裂を覗き込み、その分裂の深みへと降りていくことである。その深みへ降りていくならば、
   
以下引用━━━p146
   
こうした経験がなされると、その人物は主張するエネルギーと欲求を追求して、これらの経験の、生を強化する超個人的な源泉にまで到達できるようになる。 そうなると怒りが、自我の背後に立ちそれ本来の姿を保護してくれる、〈自己〉の客観的な経験の一つであることが分かるようになる。 欲求が、「朽ちることのないものの中で安らぎ、それに育まれたいという切望」に基づくものであることが分かるようになる。 スケープゴートと同一化した人々に強くみられる、帰るべき故郷の探求を━━過ぎ去った早期幼児期の中にではなく、超個人的なものとのつながりの中に、そしてこの体験を分かち合ってくれる新しい親しき人々の集団に━━基づくものにしてくれる。 故郷は、自分自身で取り組み探求して初めて創られ発見される。
   
━━━引用以上
   
その分裂の深みに降りていくならば、そこで超個人的な源泉に到達する。この超個人的な源泉こそが、「故郷喪失者」たる現代人にとっての「>帰るべき故郷」である。平山自身は現在も生まれ故郷である東九条宇賀辺町に住んでいる。 「故郷喪失者」ではない。だが、そんな平山にとっても「>帰るべき故郷」はこの「超個人的な源泉」である。スケープゴートパターンにハマって「追放」「排除」されることは、実のところこの「>帰るべき故郷」への追放だといえる。
   
平山がここ数年、「スケープゴートパターン」の型にハマったのは意味がある。平山個人としての意味もあるが、そもそもは東九条地域において、「東九条多文化共生ムラ」が「東九条一階の地域住人」を隠然と排除抑圧しているという構造が生じている。 「二階の東九条多文化共生ムラ」維持のために、「東九条一階地域住人」が「生贄」となっている。そのことに対して「東九条一階住人」である平山が「告発者」となって暴れているわけだが、 その「スケープゴートパターン」の背後で起きていることは、「告発」と「生贄」の運動によって「>帰るべき故郷」への通路が開いたということである。 だからこの段階において、「告発」と「生贄」の問題は本質ではなくなり、今は、超個人的な源泉である「>帰るべき故郷」に降りるかどうかだけがここでは問われている。
   
扉は開いた。だから告発者の役割も捨て、生贄の役割も捨て、この分裂の地下の荒野に広がる「>帰るべき故郷」に降り立つ時が来た。
   
だが、この「>帰るべき故郷」とは幼児退行的なパラダイスや理想的なユートピアなどでは決してない。
   
以下引用━━━p182
   
この奈落の底のように荒々しく恐ろしい力場を覗き込むことには二重の効果がある。それは墳墓(トゥーム)であるだけではなく、子宮(ウーム)でもあるのである。 それは個人を解放して、生まれ変わらせてくれる。自分自身の憎悪や破壊性が、超個人的なものの暗黒の側面を反映したものであることを分からせてくれる。 そしてこの確認は、スケープゴートと同一化した人々には欠かせない。それまで彼らが同一化していた影のエネルギーは、つまるところ彼らの感じている憎悪や破壊性も含めて、存在の暗い側面を映し出したものなのである。 そしてそれは全体性が存在することの確認であり、<自己>がわれわれ一人一人のなかに異様な個性を作り出しうることの確認なのだ、と意識的に主張できるようになる。 ただしこれと並行して、恐ろしい力場を認知することによって、われわれは一個の個人として立たねばならなくなる。 自分自身のなかや他人のなかに湧いてくる暗いエネルギーと格闘するなかで、つまりわれわれ一人一人が巻き込まれている力を済し崩し的に行動してしまうことがないよう意識的に抵抗する術を学ぶなかで、われわれは自分自身に到達するのである。
   
━━━引用以上
   
ここ三年ほど、自身が生まれ育った東九条地域で、信じられないような非人間性に何度も直面し続け、打ちのめされ続けた。 もちろんそれに明確な「加害者」がいるわけだが、それとは別の次元で、その「暗い力」の源泉に降り立つ時、そのような「暗い力」もまた「現実」であり、「世界の一部」であるということを認識し、それを拒絶し、 排除することはできないのだということを体感する。ならばその「加害者」は「暗い力」に動かされた「役者」にすぎなかったということを知覚する。 そして自分自身もまたこの「暗い力」に導かれるように動かされていたことを知る。 もはや興味はこの現象を起こした「暗い力」の方に移っている。
   
現実を生きるにあたって、おいしいとこどりはできないのだ。 もちろん誰だってこの人生を正しいこと、善いこと、美しいこと、たのしいこと、きもちいいこと、豊かなこと、明るいこと、創造的なことで満たしたい。 だが、現実は、偽ったこと、悪しきこと、醜いこと、苦しいこと、痛ましいこと、貧しいこと、暗いこと、破壊的なことが起きる。 世界はその両方で「ひとつの全て」なのだ。明るい世界だけを生きることはできない。 古の神々が世界の明るい面と暗い面の両方を併せもっていたのは、それが現実そのものだからであろう。だからこそ人間も当然その両方を生きるよりほかない。
   
だが、現実の暗い側面を切り離し、「おいしいとこどり」をしようとした結果、「犠牲」となる存在が必要になったのではないのだろうか。「わたし」だけは「真善美、快楽幸、明豊創」でいたい。 だから誰か異端の者に「偽悪醜、病争貧、暗滅破」を押し付け「わたし」や「共同体」の維持のために「犠牲」にしたのだろう。 この精神的な構造がある以上、人権意識があろうが、多文化共生を絶叫しようが、必ずその共同体からは犠牲者が出続ける。 なぜならその現実に対する一面的な態度、「おいしいとこどり」の態度こそが「ゴミ」を引き受ける「犠牲者」を必要とするからである。
   
大なり小なりの「われわれ」から「犠牲」を出さないためには、ひとりひとりが現実の暗い側面も含めた全てを生きる他ない。 「真善美、快楽幸、明豊創、偽悪醜、病争貧、暗滅破」、全てを少しづつ生きるほかない。それが誰かを犠牲にしないということであり、自分自身が犠牲にならないということである。 そしてこの「世界の全て」を生きるということは「神々」の再生に他ならないだろう。なぜなら「神々」とは「世界の全て」なのだから。
   
「神(々)は死んだ」というけれども、それは人間の生が一面的になったからである。「世界の全てを生きる」のではなく「世界からおいしいとこどり」をするようになったからこそ「神(々)は死んだ」のだ。 だからスケープゴートパターンにハマった者が、現実の暗い側面に直面せざるをえず、直接に「世界の全体性」とつながるということが起きるのはまさに「犠牲」という太古的なモチーフであるが故である。
だからスケープゴートパターンにハマった者は、「告発者」「生贄」という一面的な生き方をどこかで捨てて、現実の暗い面も明るい面も「全て」を生きるということをしなければ、その生が救われることはない。 「偽の故郷」から追放排除されることは祝福である。世界の全てである「>帰るべき故郷」へと追放されるのだから。
   
そして現在の世界情勢をみるに、これから現在と同じような便利な生活はもう望めないだろう。それどころか、社会機能自体が壊れ、生命を維持する事すらできないかもしれない。 もう右も左も下も上も、強制的に万人が現実の暗い側面を生きざるをえないのだ。もう世界のおいしいとこどりはできない。だからこそ、万人が腹を決めて、「>帰るべき故郷」へと降り立つ時が来たのだ。
   
これから万人が「犠牲」となる時代に、万人が「世界の全て」を生きざるをえない時代に、本書はその現実と直面させ、かつ希望をもたらしてくれる。
   
以下引用━━━p131~p132
   
スケープゴートーコンプレックスに囚われた人々には、自分の弱々しく劣等な部分と同一化してしまう傾向がある。 彼らは集合的な影の生贄となる、つまり影に自らを差し出してキリストのように贖うものとなる。さもなければ重荷を背負った「苦しむ下僕」と同一化する。 こうして彼らは、「人人の諸々の罪や不幸を取り去るために殺害される人間ー神」の役割を演じきる。
 この死の供儀に処される生贄や下僕との同一化は、本来なら、その補償をなす、再生する「救済王」との同一化につながる。 ところがスケープゴートコンプレックスにおいては、すでに述べたように、この補償が分裂ー排除された無意識的な全能感となる傾向がある。 死にゆく生贄と救済王が合わされると、双生児モチーフが形成される。このモチーフはすでに、そもそものヘブライのスケープゴート儀礼における二匹の山羊と二柱の神のなかに備わっている。
 ここに見られる元型的イメージは死んで再生する神のイメージであり、そもそもこの神はヴェーダ・中東・アフリカ・ヨーロッパの諸神話のなかで主権を授与する、忌まわしくかつ麗しき大女神の配偶者であった。 この神を表象する人間ないし動物が、女神の豊穣をもたらす配偶者として選ばれ、それから「加齢のもたらす衰弱によって汚されることのない、永遠の活力のなかで神の生を維持するため一年ごとに殺された」。 聖化されて神の威力を体現する人間や動物が、このような儀礼のなかで殺され八ツ裂きにされることによって、人間の生と自然界の生(大地の女神と同一視される)のサイクルが更新された。 スケープゴート・死にゆく神・地下界の双生児・旧い年・愚者の王は、死・不毛の地・旱魃・暗闇・冬・地下界の力と同一視される。 再生した神の子・救世主・新しき王には、繁栄・生・健康・喜びの力、肥沃な水、更新された太陽、更新された支配権が託される。
 年の神(イヤーゴッド)のこうしたイメージは、対立物を一つの包含的な循環周期のなかで結合させ、スケープゴートと贖い主を、死と再生を司る大女神の作用過程や権威に結び付けてくれる。 この広範な視野にたつ古代の観点は、ヘブライ人のイメージ(および現代のスケープゴートコンプレックスにおけるイメージ)において公然と排除されている女性性の要素を、 復権させうるものである。…〈略〉…女神崇拝は異教のヨーロッパや多くの地で存在した。本来のスケープゴートのパターンにあった、生の維持者という本来の座にもし彼女が戻されれば、 そのなかでスケープゴートーコンプレックスの分裂ー排除された諸部分を包含して、それを一個の全体ー共同体の可能性・主権・更新・生のみならず分裂状態、 されには悲劇的な疎外や死をも包含する全体ーを構成する諸側面に変容させうる意味連関がもたらされる。
   
━━━引用以上
   
古今東西、まずもって「犠牲」となってきたのは女性、女性性であり、女神の復権こそが「>一個の全体ー共同体の可能性・主権・更新・生のみならず分裂状態、 されには悲劇的な疎外や死をも包含する全体ーを構成する諸側面に変容させうる」という指摘は、「世界の全て」を生きる上で非常に重要な鍵となるだろう。 だがなによりも、「犠牲」とはこの世界の豊穣さのプロセスと循環の中の一部であることを知覚するならば「わたし」は死んでも、世界がある限り何度でも甦るのだということを知るだろう。 その感覚をこの身体によみがえらせてくれるのが、神々の中でもとりわけ大女神であるならば、大女神の復権は「犠牲」をこの世界から無くすのではなく、「犠牲」をこの世界に永遠なる感覚をもたらすものとして作用させるだろう。 それは「わたし」が自然の一部であり、世界のプロセスのかけがえのない瞬間であることを体感させる。それはだれも「犠牲」にならない「犠牲」である。
   
「犠牲」になるということは、「世界の全て」を生きるということに通じる。みなが「犠牲を生きる」ならば、みながみな「世界の全て」を生きることになる。
   
犠牲に「なる」んじゃない。「犠牲」を「生きる」んだ。
   
みながみな、「世界の全て」を生きる時はもう始まっている。
   


   



    

   

    

2026年3月22日

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