【連載】『東九条、死者無き多文化共生の行方≪33≫』

〈雑談その9〉

映画感想文 「難波金融伝 ミナミの帝王」

   
   
「人からゼニ借りて利息も払わんほうがよっぽどえげつないやろが。わしは命より大事なゼニ貸しとるんや。あんたも命がけで返さんかい!!」
    
( 難波金融伝 ミナミの帝王 劇場版 XIII リストラの代償 セリフより引用) 
    
萬田はん。ミナミの鬼、萬田はん。十日に一割の利子を返さなければいけない「トイチ」の金貸し萬田はん。 利子すら返せない者には容赦のない取り立てをし、逃げた者は地獄に突き落とし借金は必ず回収する。 だが、腹を決めて返済のために全てを捨てる覚悟をした債務者には再生の道を示す。 また、その借金が詐欺にあってだまされた故の借金であったりした場合はその悪人や組織から金を奪い返し、その金で借金をちゃらどころか債務者に大金を渡すことさえある。 萬田はんは死神のような男である。死、だがその死は覚悟を決めた者の人生を再生する死となる。 萬田はんから金を借りた者たちは地獄をくぐった後、萬田はんによってその人生が回復再生新生している。 
    
なぜ金を貸すこと、そしてその金を回収することが人間の再生や新生とまでなるのかといえば、萬田銀次郎が貸して取り立てているものは、 「ゼニ」ではなく「ことば」だからである。 冒頭の引用したセリフ「人からゼニ借りて利息も払わんほうがよっぽどえげつないやろが。わしは命より大事なゼニ貸しとるんや。あんたも命がけで返さんかい!!」の 「ゼニ」という部分を「ことば」に書き換えてみる。 
    
「人からことば借りて利息も払わんほうがよっぽどえげつないやろが。わしは命より大事なことば貸しとるんや。あんたも命がけで返さんかい!!」 
    
どうだろうか?この文章をよく味わってみてほしい。 このセリフだけでなく、萬田銀次郎のセリフの中の「ゼニ」を「ことば」に変えてみるとこの「ミナミの帝王」という物語が一体何なのか、その奥で駆動している何かが見えてくる。  
    
萬田はんから金を借りる際には当然だがまず「ことば」のやり取りがある。 「十日後には元金〇〇円の利息の▲▲円を払う」「利息が払えない場合は全額回収」「必ずお返しします」などの「ことば」の「貸し借り」がある。 この「ことばの貸し借り」とは何の担保もない「信用」や「信頼」でしかない。 「ことば」はいくらでも嘘をつくことができる。実際に「ゼニ」が利息を付けて返されるかはとりあえずは十日後にしかわからない。 だから「ゼニ」の貸し借りの前にまず「ことば」の貸し借りを債務者と萬田はんはしている。 カネを借りに来た者たちは、たしかに「必ず返します」と萬田はんに誓っているのである。債務者は「ことば」によって萬田はんから金を借りている。 もちろん萬田はんも担保をとったり保証人をつけたりするのだが、だが、それでも、萬田はんは債務者の「ことば」に対して「信用」して「ゼニ」を貸しているのである。 そしてよく言われる話であるが、「カネ」も「信用」で成り立っている。この長方形の紙、や円型の金属で何かが「買える」のはそこに「信用」があるからだ。 その「物体」が「貨幣」であるというのはまず「ことば」による「信用」によって成立しているのである。 
    
「梶川はん。世の中、人信用せえへんかったら、生きていけまへんやろ。わしかて人を信用してゼニを貸す。ただし、裏切られた時のことまで考えとる。」 
    
(難波金融伝 ミナミの帝王 長編版5 逆襲 セリフより引用) 
    
と、萬田はんは基本的には債務者を、いや、人間を「信用」している。性善説ではなく、「信用」しているのだ。 そして「信用」とはもちろんその「ことば」を「信用」しているわけである。金貸しという萬田はんの仕事は「人間への信用」「ことばへの信用」「貨幣への信用」この三つの信用がなければ成立しない。 そしてそれは萬田はんだけではなく、この社会に生きる者すべてがそうであるはずである。 「世の中は人を信用しなければ生きていけない」というのは人間のこころの基本というかある種の「健全さ」なのだ。 萬田銀次郎において借金が返済されるというのはこの「健全さ」の回復、主に「人間への信用」「ことばへの信用」の回復と再生に他ならない。 
    
例えば、もう解決済みだが平山は京都市立芸術大学が「真摯に対応します」という「ことば」を「信用」して11カ月待った。 だがちゃんと対応しなかったから、今年に入って平山はその「京都市立芸術大学に貸したことば」を回収しに動いたわけである。 その動きはこの連載にも書いていないことも多々あるのだが、どうやって「ことば」を回収していくのか。 絶対に回収不可能だと思われるカネを不屈の精神と知恵で回収する萬田はん。 去年の年末からこの「難波金融伝 ミナミの帝王 シリーズ」を1から全てを見ることで平山は萬田はんから多くを学んだ。 それは取り立てとは「悪を成敗する」とか何がなんでも謝罪させるとかそういうことではなく、この「人間への信用」「ことばへの信用」を回復再生させるということが根本なのだということである。 世界が再生しなければ、その取り立ては非人間的な悲惨な物語でしかない。 
    
ほぼ、毎日毎日、ミナミの帝王を観る。萬田はんをシャワーのように浴びる。 すると、街を歩く人々が「債務者」に見えてくる。 このサラリーマンにはいくら貸した、この学生にはいくら貸した、このおっちゃんにはいくら貸した、…、道行く人々が債務者に見える「マンダーズハイ」と呼ばれる状態になる。 この「マンダーズハイ」の状態で京都市立芸術大学にいろいろな手立てでアプローチをしていったのだが、だから一応「抗議活動」と平山は称しているが、感覚としては「貸したことばのとりたて」である。 
   
地域の人からは、「何でそこまでやるんだ」とか「そこまでやらなくてはいいじゃないか」「抗議にしてもやりすぎなのではないか」と言われることもあるのだが、「ヒラヤマンダ銀次郎」の答えは
   
「人からことば借りて利息も払わんほうがよっぽどえげつないやろが。わしは命より大事なことば貸しとるんや。あんたも命がけで返さんかい!!」
   
である。
   
ここ三年ほど、東九条地域で起きていることは「ことばの破壊」だと平山は感じている。 そしてそれは社会を成立させている「信用」や「信頼」の破壊でもある。「借りたことばを返さない」「貸したことばが帰ってこない」そんな事例が起きている。
   
萬田はんが、債務者本人から取り立てるにしろ、債務者を騙してその借金の原因を作った悪人から取り立てるにしろ、その借金が利子をつけて支払われることで、世界の回復が起きる。 萬田はんからゼニを借りる理由はそれぞれで、会社の運転資金、ギャンブル、女遊び、人を助けるため、選挙資金、他の借金を返すため、夢を叶えるため、…いろいろある。 利息を払い続けることは「世界の維持」である。 そしてその借金を返せない場合は「世界が壊れる=(会社が倒産する、家庭が崩壊する、人間関係が壊れる、生活が壊れる)」わけだが、世界が壊れて後この借金が返済されることは「世界の再生」なのである。 そして萬田はんはこの「世界の再生」を債務者の代りにやってしまう。 その鬼の慈悲心に圧倒的な母性すらを竹内力演じる萬田銀次郎に感じてしまう。 その母性とは「奪い殺す母性」であると同時に「与え生かす母性」の両面性を兼ね備えたまさに、死と生とを両方司る「死神としての母性」である。
   
シリーズ一作目から順にみていくと、初めは若く、喜怒哀楽の感情を出す人間味あふれる萬田銀次郎も、シリーズが中盤のころには口数が減り、その代わり銀次郎の舎弟や周りの人間が雄弁となる。 萬田銀次郎は世界や物語の中心にあるがそれは「沈黙する中心」としてそこにある。そしてティアドロップのサングラスをかける萬田銀次郎はその顔がまさに骸骨の死神にも見える。そう、顔が変わっていくのだ。 その「顔」とは一体何なのか?
   
「ミナミの萬田の顔に泥塗られて黙っとられるか。」
   
(難波金融伝 ミナミの帝王 長編版4 屈辱 セリフより引用)
   
「顔に泥を塗られる」というこのセリフを一般的にとるならば、メンツをつぶされプライドを気づ付けられたということになる。が、その「顔」とは「ミナミの萬田の顔」である。 この「顔」は大阪の「ミナミ」という「土地」に根付いた「顔」なのだ。その「顔」が土地性をもっている「顔」であるならばそれは「死者の顔」である。 この「顔」は萬田銀次郎という「名前のある生者の顔」であると同時に「ミナミ」という土地の「名前の無い死者の顔」でもあるのだ。 それはミナミという土地の「歴史感覚」そのものの「顔」である。シリーズ通して、萬田銀次郎が自己紹介する際には
   
「わしぃ、ミナミで金貸ししとる、萬田ゆうもんですわ。わしも貸したゼニ回収するのが仕事ですよって、時と場所は選びまへんのや。」
   
(難波金融伝 ミナミの帝王11 嘆きのニューハーフ セリフより引用)
   
と、殆どが「わしぃ、ミナミで金貸しやってる萬田いうもんですわ」という定型のセリフである。 「東京中央銀行の半沢直樹です」とは対照的である。萬田銀次郎にとっての「われわれ」は「ミナミ」という「土地」であり、半沢直樹にとっての「われわれ」とは「東京中央銀行」という「組織」だ。 土地と組織の違い。この違いは大きい。そして銀行員は転勤もあり、出向もある。だが半沢直樹にも父親が不遇の死をとげた故郷はある。 そして半沢直樹にとっての死者は父親という「名前のある死者」である。 という意味では萬田銀次郎と半沢直樹は同じ金貸しでも好対照であり、同じ再生であってもタロットカードでいうなら萬田銀次郎は「13死神」で半沢直樹は「20審判」になるだろうか。
それはさておき、萬田銀次郎は「ミナミ」の「名前の無い死者」という土地性や土着性を強くもっている。 それは作品のタイトル自体が「ミナミの帝王」であることからも理解できるだろう。 そして「ミナミの帝王」は関西ローカルの土日の昼すぎに放映されていた。方や半沢直樹は全国放送である。ここには「ローカル」と「全国区≒東京」という対称性がある。
   
萬田銀次郎 ①底辺層   ②土着性(顔のない死者)  ③ローカル ④「他者再生→世界復活」(悪党に謝罪は求めない)
   
半沢直樹  ①エリート層 ②組織(顔のある死者) ③全国区≒東京 ④ 「世界再生→他者復活」(悪党に謝罪させる)
   
だが二人ともやっていることは「世界の再生/回復」「他者の再生/回復」であり毀損された「信用」の回復再生である。
   
そしてこの対比を平山と東九条多文化共生エリアに当てはめるなら
   
平山剛志  ①「一階」 ②土着性(顔のない死者)  ③ローカル ④他者再生 世界復活
   
多文化共生エリア ①「二階」 ②根無し草(顔のある死者) ③グローバル ④他者消去 世界の虚無化
   
となるだろうか。そして問題は、東九条の多文化共生側の者たちが、多文化共生だとか言いながら「人間への信用」「ことばへの信用」を著しく毀損するような活動や言動をしてそれを指摘されても答えないということである。 だから平山は「抗議活動」という名の「ことばのとりたて」をやっているのだが、ここで問題がひとつある。
   
「東九条多文化共生エリアの者たちは、一体誰からことばを借りたのか?」
   
という問題である。例えば浜辺ふうや京都市多文化交流ネットワークサロン施設長の前川修が顕著だが、彼女彼らは平山からの抗議に一切応答しない。 それどころか平山の抗議は「暴力だ」「脅迫だ」とレッテルをはって終わらせる。 だが、これは一つの仮説だが、彼女彼らにしてみればこの無視とは「平山からことばを借りた覚えはない。だから平山にことばを返す必要は無い。 なのにことばの返済をせまる平山のやっていることは脅迫だ」という感覚なのかもしれない。もういちどこの問いを重ねてみる。
   
「東九条多文化共生エリアの者たちは、一体誰からことばを借りたのか?」
   
そもそも「多文化共生」や「共生」ということばは東九条地域には無かった。かつて東九条を生きた「死者たち」はこんなことばを使ってはこなかった。 「多文化共生」ということばは生きた人間の最近の「造語」であり、それは「全国≒中央集権」的なことばである。 「多文化共生」なることばは東九条の死者たちのことばでは無い。だからこそこの連載のタイトルの「死者無き多文化共生」なのが、 例えば浜辺ふうはその表現の題材として東九条という地域や在日韓国朝鮮人を「使っている」。だが、彼女は東九条という土地の「名も無き死者」からそのことばを借りているわけではない。 もしそのことばが「死者たち」から借りたことばであるという実感があるならば、東九条を生きた人間を侮辱したり踏みにじったりするような表現をするわけがない。 だから浜辺ふうはそのことばを「死者たち」から借りてはいない。借りてはいないが「収奪」している。 これは他の多文化共生の連中もそう。確かに「ことばは借りてない」が「ことばを収奪」している。
   
ことばを死者たちから借りていないからこそ収奪が起きるのだ。
   
本来ことばは全てが借り物である。 それは「顔のある死者からの借り物」であり、「顔の無い死者たちからの借り物」である。だからこそわれわれは、死者たちから借りて使わせてもらっていることばを、いつか利息をつけて死者たちに返さなければならない。 その利息とはまずは、おはよう、ありがとう、ごめんなさいであり、このことばが世界や他者性や死者たちを回復再生する。
   
だが、東九条地域の多文化共生エリアの者たちのことばのそれは「顔の無い死者たちから借りたことば」では無いのだ。ここ三十年ほどで出てきた多文化共生なる造語でしかない。 そこには何の土着性も大地性も無い。だから彼女彼らの「ことば」や活動、表現にはこの東九条という土地への敬意や謝意が何もない。そして薄っぺらい。 ただ多文化共生の素材やネタとして東九条地域に関わっているだけ。それを「収奪」や「植民地化」というのだ。 そして彼女彼らは「収奪」しているが故に、「ことばの借金はしていない」だから「平山に応答する必要は無い」という理路になっているのではないか。 勿論彼女彼らの収奪は、「多文化共生」というきれいなことばで隠蔽されているがゆえにその収奪を自覚することは無い。 ましてや「多文化共生」は「階級間の分断」を隠蔽するのでそれを自覚できることはない。
   
半沢直樹自身はエリート層といえど出身は金沢という地方の町工場の「一階」の出身である。そして「二階」の世界の冷酷な仕打ちによって父親を殺されたという経験もある。 であるがゆえに「収奪」や「階級間の分断」の問題に自覚的であり、その自覚が銀行本来の使命≒「掟」に自分を従わせ動いているのだ。これは萬田銀次郎もそうで、
   
極道には極道の、金貸しには金貸しの、掟があるいうことですわ。
   
( 難波金融伝 ミナミの帝王 スペシャルVer.50 金貸しの掟 セリフより引用)
   
とやはり萬田はんも「掟」に従って生きていることが伺える。「掟」という非近代的なことば。この「掟」とはその土地や血縁の「歴史感覚」に由来する「絶対的な法」であるといえよう。 半沢直樹の場合は銀行の在りようそのものに「掟」を見出し従っている。恐らく半沢直樹は「銀行」そのものにあるいは社会そのものに「顔の無い死者たち」を感じているのだろう。 その「死者たち」の「掟」に従って「倍返し」しているのだ。
   
では「多文化共生」にそのような「掟」があるのかといえば、無い。東九条多文化化共生エリアに「多文化共生の掟」に従って生きているような気合の入った根性すわった「多文化共生モヒカン」はいない。 東九条地域において、「掟」にしたがって「運動」を続けている尊敬すべき人はいる。 だが、「多文化共生」を自称する者にそれはいない。想えば「希望の家」を立ち上げたディフリー神父もまたその信仰に由来する「掟」に従えばこその活動である。現在の施設長の前川修にそんな「掟」は無い。 彼女彼らは「多文化共生」という「死者無きことば」によって、東九条地域から一方的に収奪するだけであり、収奪したことばや生命を東九条という土地や死者たちに返すつもりはない。 そもそもそれが返さなければならないものだという「掟」を理解すること自体ができない。
   
ミナミの帝王に出てくる債務者たちは金儲けのためなら何をしてもいいという悪人たちに騙されたり食いものにされた者たちである。だが萬田はんは騙された債務者に対して
   
「そんなもんわしのしったことやあらへん。それに詐欺っちゅうのは、だまされる方が悪いんや。」
   
(難波金融伝 ミナミの帝王 劇場版 XII 逆転相続 セリフより引用)
   
と断罪する一方で、やはり「掟破り」をした悪党を追い込みきちんと「ゼニ」を回収するのである。
   
そう、「ゼニ」も「ことば」も根本的には「わたし」のものではなく、死者たちのものであり、世界のものである。「ゼニ」も「ことば」も「わたし」が生きている間だけ少し借りてるものにすぎない。 その感覚こそが「掟」の根本である。
   
死者たちから切り離され、世界から切り離され、歴史感覚から切り離された者にはその「掟」がない。 ゆえに己の欲求のままにどこまでも他人や世界から収奪してもよいと思っている。だから「他者」が存在しない。 だから自身の表現や言動に責任をもたない。そうやって世界はどんどん壊れていく。 浜辺ふうや東九条で活動する多文化共生やアートやら何やらの人たちの「死者無きことば」で生きているものと、平山のような「死者から借りたことば」を生きている者とではその認識や感覚に深い深い断絶がある。 ましてや平山が「掟」などという非近代的で野蛮な法を掲げれば今ではそれは暴力だ、脅迫だ、となる。
   
問題の所在が明らかになった以上、東九条多文化共生エリアの者を責め立てたり非難しても仕方がない。問題の所在は
   
「ことばを死者たちから借りていないからこそ収奪が起きる」
   
ということに尽きる。
  
カネにもことばにも世界にもまつりにさえも、どこにも死者がいないこと。
   
これこそが問題の根源である。
   
「死者無きことば」「死者無きカネ」「死者無きまつり」がすごいスピードと巨大さで回り続けている。この世界にことばやカネが返されることなく、「だれも返さない負債」だけがひろがっていく。 収奪だけが進んでいく。
   
「死者無きわたし」が果てしなく世界を「わたしのもの」にしていく。
   
そうして全ての「他者」は「負債」となる。
   
だがその負債を返す者はもういない。
   
その負債は返さなければならないことであることを知る者はもういない。    
もうだれも、「他者」にことばを返す者はいない。
   
そして世界は再生しなくなる。それは東九条も然り。
   
もう一度冒頭のセリフを引用する。
   
「人からゼニ借りて利息も払わんほうがよっぽどえげつないやろが。わしは命より大事なゼニ貸しとるんや。あんたも命がけで返さんかい!!」
   
萬田はんは、「命より大事なゼニ」という。このセリフはシリーズを通して繰り返し何度も出てくる。「命より大事なゼニ」といっても萬田銀次郎は守銭奴でもカネの亡者でもない。 「ゼニ」が死者に属するもの、死者たちから借りたものだと知っているからこそ「命より大事なゼニ」なのだ。だから萬田銀次郎は死者たちから借りたゼニを債権者に貸しているのである。 だからそれは「命がけで返さ」なければならない。
   
萬田はんは債務者がどれだけ逃げても必ず捕まえてゼニを回収する。必ず、絶対だ。それは生命も同じ。どれだけ死から逃げても死は必ず「わたし」を捕まえて命を回収する。
   
「ゼニ」も「ことば」も「いのち」も、同じく「死者たち」からの借り物なのだ。萬田銀次郎は死者たちの使いであり、死神である。
   
死神は言う。
   
「あんたがゼニかした相手はすぐそばにおるんや。ほんまにこのままでええんでっか。
 〈略〉
ゼニの貸し借りは法律や紙切れだけで動いとるんとちゃいまっせ。貸したゼニは必ず回収する。貸した相手に引いたそん時が負けや。引かへん限り、貸した側に負けはありまへんで。」
   
(難波金融伝 ミナミの帝王 劇場版 XVII プライド セリフより引用)
   
と。
   
現在、世界が本当に壊れようとしている。だけど、引いてはいけない。萬田銀次郎は絶対に引かない。死神は引かない。
   
この連載を始めてから、いや、東九条での抗議活動(ことばの取り立て)を始めてから、ずっと死、いや、死神の元型が駆動していた。 連載を書き始めてからははっきりとこどものころ、日曜日の昼下がりにテレビで見たあの萬田銀次郎という死神の原像が生き生きと動きだしていた。 昔から竹内力演じる萬田銀次郎が好きで、よくモノマネをしてちょけていたのだがその死神の原像がまさかここまで平山に具体的な力と知恵を授けてくれるとは思いもしなかった。
   
抗議活動なんて言ってるけど、おれはそんな真面目なことは性に合わない。やっぱり、東九条の人間は「取り立て」という方が性に合う。 社会運動ではなく「ことばの取り立て」。竹内力演じる萬田銀次郎の原像が、象徴作用が、イメージが、エネルギーが、平山の東九条での闘いに楽しさ、筋、型、息吹、リズム、間、勢いを吹き込んでくれた。
   
やってることは同じでも、それを「抗議活動」と呼ぶのと「ことばの取り立て」と呼ぶのではずいぶん意味と勢いが違う。 ましてや東九条の人間が東九条で活動するならば、土着のことばは「ことばの取り立て」がしっくりくる。
   
現在、世界から、社会から「死者たち」が消え去ったその代わりに「死体」が大量生産されている。なんておぞましい時代を生きているのかと暗澹たる気持ちになる。
   
だがそれは、「死神」がいなくなったからだ。「わたし」を殺しもするけれど「世界」と「他者」を再生する死神がいなくなったからだ。
   
誰しもが必ず「死神」の原像をもっている。ただその原像が駆動しなくなった。「死者無き時代」であるが故に死神も姿を消したのだ。
   
平山はたまたま、萬田銀次郎という死神が駆動し続けていた。恐らくそれは平山が東九条に住み続けていたからだろう。萬田銀次郎という死神が駆動する土着性と必然性が平山が生活するこの土地にはある。 ここはまさに「ゼニ」「ことば」「いのち」が人間を殺し人間を生かし続けてきた土地だからである。
   
平山の中の「死神」はこの「時」を待っていたのかもしれない。
   
どの土地にもその土地土地に駆動する死神があるはずで、「死者たち」とこの世界、「わたし」をつなぐのはその「死神」を駆動させることから始めなければならない。
   
これ以上世界に「死体」を作らせないために、「死神」を駆動させなければならない。
  
「カネ」「ことば」「いのち」を、利子をつけて「死者たち」に、返す時が来た。
   
死神の取り立ての時が来た
   
参考文献(影響文献)
   
難波金融伝 ミナミの帝王 シリーズ
   
渡辺哲夫 著 「死と狂気」 筑摩書房
   
永守伸年 著 「信頼と裏切りの哲学」 慶応義塾大学出版会

   


   



    

   

    

2026年4月06日

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