【主体と「反日」と身体】

   

【主体と「反日」と身体】 何故石破茂が支持されず、高市早苗が熱狂的に支持されるのか、あれやこれやと言われているが、高市早苗が支持されるのは、高市早苗は責任をとらないからである。 責任を取らないというのは、「主体化しない」ということなので、正確に言えばそれは「主体化の拒絶」である。 石破茂は責任を果たそうとするし、それは「主体化する」ことを意味する。 この「主体化する意思」がこの社会の人には嫌われる。さらに言えば、「主体化する者は反日である」といったところか。 高市早苗が支持されるのはその内容を見ているわけではなく、高市早苗が「反日ではない」からである。 その「反日ではない」というのは「気分」である。 ちなみに「中道」なる政党が左リベラルから支持されないのは「主体性」を放棄して「反日ではない」という「気分」に乗ろうとしたからである。 あんなみっともない政党はない。そしてデモや「戦争反対」に対して嫌悪感を示す人が多いのも「(政治的)主体として生きること」への嫌悪感の表明である。 「主体」はキモイと感じるわけである。
   
この社会を蝕んだことばのひとつが「反日」ということばである。 主に韓国や中国などが「反日国家」として規定され、日本国内でもいわゆる左やリベラルな思想の者にも「反日」ということばが投げつけられることがある。 「反日」ということばは熱狂的な愛国者や排外主義者のみならずいまや一般の特に支持政党の無いような人もカジュアルに使う。 それは必ずしも強い排外的な意志や歴史修正的な意図をもって使われるわけではなく、「われわれ」を批判する、非難する何らかの集団や個人に対して不快感や嫌悪感を表明するための「気分」や「感覚」を表現するようなことばである。 「反日」ということばを使いだすと、この世界には「反日」か「親日」か、という存在しかいなくなる。 実際はそんなことは無くて、一つの集団、一人の個人の中にも反日も親日も混ざり合っていたり階層になっていたり、葛藤があったり和解があったりする。 それを単純に「反日」だ「親日」だと二項対立で判断するのは楽でいいだろう。「葛藤」する必要がないからだ。
   
「葛藤」するというのは「主体」があるからこそできることで、逆に言えば「葛藤」するからこそ「主体」は形成されるといえる。 それは「わたし」が世界の複雑さや多様さ豊饒さを引き受けるということであり、理解不可能な「他者」ともなんとかかんとか関係するという世界への責任を果たすということである。 だがそれは非常にめんどくさい。できればやりたくない。
   
「反日」ということばは他者や世界への責任放棄を許してくれることばである。「反日」ということばは主体性の放棄を許してくれることばである。 それは「他者消去」のことばである。だがこの国の人は「主体性の放棄」を望んでいるのだから、高市早苗が支持されるのは当然のことである。 そしてあくまで世界への責任を果たそうと「主体化する」石破茂は「反日」に見えるのだろう。
   
今この社会が崩壊しようとしているのは、反日ということばを放置し続けてきたからである。反日という「他者消去」するためのことばがこの社会そのものを消去しようとしている。
   
だが、確かに「主体」であるということは苦しいししんどいことなのだ。実を言うと過度な主体化は身体に悪い。身体が自然に心地よい状態であるならば、主体は形成されない。 だから今この社会で起きている現象を「身体」から見るならば「反日」という反応は、「主体化≒身体の硬直」の解除をしようというもがきにも見える。 ただ「反日」というアプローチは別の身体硬直を形成してしまうので、それが自然な心地よさを生むことは無い。 そしてその「他者消去」的な指向性は当然身体の硬直を生じさせ、社会そのものを消去する。
   
アルコールやギャンブルや薬物や性に過度に依存するのは、「過度な主体性=過度な身体の硬直」を解除しようとする「過度な試み」である。 身体の必死のもがきあがきである。自殺とは究極の身体の硬直解除のこころみであるともいえよう。
   
この社会は破滅に向かっている。集団自殺にすら見える。だがそれは、それだけこの社会に「過度な主体性=過度な身体の硬直」があるということでもある。それは思想の右左、階級の上下問わずそうなっている。
   
健全な主体を形成するためには、身体は適度にゆるんでなければならない。病的な硬直がある身体にきもちよくたのしい主体は形成されない。
   
この社会が滅びるが先か、身体がゆるむのが先か、なんにせよ、世界の再生は身体にかかっている。






  

  

20260429記す

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