【連載『東九条、死者無き多文化共生の行方≪1≫』】

【前書き】

 ここ三年ほど、平山が生まれ育ち今も生活をしている東九条地域において、酷い出来事が連続して起きている。 平山はずっとそれに抗議し続けてきて、最近もまたとある酷い活動をする集団に抗議をしている。 そのことについて何か被害を訴えたいとか誰かを糾弾したいというわけではない。 ただ、今現在東九条で何が起きているのか、何故そんなことが起きるのか、平山はこれからどうしようと思っているのか、そのことをきちんと文章で記録に残したいと思う。 それはいずれちゃんと一冊の本に纏めようと思っている。そのための下書き。タイトルを仮に「東九条、死者無き多文化共生の行方」とする。
   
ところで映画「仁義なき戦い完結編」の最後にこんなやりとりがある。
  
武田明  「とにかくわしらの時代は終わったんじゃけん、落ち着いたら一杯飲まんかい?おう」
広能昌三 「そっちとは飲まん」
武田明  「なんでじゃ」
広能昌三 「死んだもんに、すまんけえのお」
  
 この広能と武田のやりとりは平山の胸をうった。「死んだもんに、すまんけえのお」。 後悔や懺悔という心境もあるだろうが、広能にとってはまさしく死者たちがその身体(=こころ)に生きている実感があるからこそのことばである。 広能は「死者を生きる」からこそ敵対者とはいえこころを通じ合った武田とは飲まないのだ。それが広能にとっての「仁義」だ。
 状況は違うが、まさしく、平山にとっては、現在東九条でおきていることは、「死んだもんに、すまんけえのお」なことが多発している。 東九条という地域は地域外からきた高学歴のアカデミアやアーティストが様々な動機でやってくる。 そのアカデミアの「かしこ」の連中が東九条の、在日韓国朝鮮人の、被差別部落の、その歴史を知的に学んだとて、 東九条を生きて死んだその「死者にもうしわけない」という感性を持ちえることは絶対にないだろう。 彼彼女らがどれだけ人権意識が高く、知性があって、常識があって、思いやりに満ちていて、共感の技術を身に着けていようとも、 この東九条という土地を生きた「死者への敬意」が無い連中がこの土地で活動する限り、これからもこの東九条という地域の住人を傷つけ踏みにじり収奪することが続くことになる。 死者への敬意の無い「仁義なき多文化共生」「仁義なき共生」「仁義なき多様性」は映画と同じく、無用な犠牲者を出し続けるだろう。
 死者への敬意を欠いた多文化共生。これが何を引き起こすのか、そしてこの東九条という地域において「多文化共生」とやらが何を排除し、何を殺そうとしているのか、 ぼちぼち書いていきたいと思う。
 仁義なき戦いの武田明の「とにかくわしらの時代は終わったんじゃけん、」のセリフのとおり、 東九条で生まれ育った在日三~四世の平山の時代はもう終わる。 おれがどれだけ叫ぼうが何をしようがこれからの「死者無き多文化共生」によっておれは殺され敗北する。 おれはこれから軽薄な連中によって殺され敗北する。それは時代の流れだ。だけど敗北が決まっているとはいえど、叫びすらしなければ死者に申し訳が立たない。
 平山剛志という人格や自我が殺されようが敗北しようがそれはいい。むしろ身体は自我の敗北を望んですらいる。 だけど、このおれを生かす死者のことだけは、守らなければならない。なぜなら死者とは身体そのものだからである。
 多文化共生によって死者を殺させるわけにはいかない。
 人間は必ずいつか死ぬ。人間はいつか死者になる。だけど、死者が殺されては人間そのものが死ぬ。
 だからおれは書く。死者のために。軽薄な連中によって殺された死者を再生するために。
 「わたし」が死んだとて、死者さえ生きていれば、「わたし」は死者の中で何度でも蘇るのだから。
 死者はこの身体そのものだ。

  

2025年8月4日

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