A氏「平山君がふうちゃんの演劇に怒るのもわかるし、在日の一世、二世の方がふうちゃんの演劇に怒りや悲しみを感じるのもわかるし…」
山崎ナシ「そういうのに反発するのがモチベーションでやってるんすよね。」
平山「…」
この会話は東九条の関係者A氏B氏の立ち合いのもと、
2025年7月12日土曜日に、平山と「劇団 九条劇」の演出家山崎なしと劇団の関係者F氏と話し合いをした時の山崎なしの発言である。
「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーションでやってるんすよね。」
平山も45年ほど生きてきて、インターネットの世界でも、現実の世界でも様々な差別発言、ヘイトスピーチを浴びてきたが、山崎なしのこの発言以上に酷いヘイトスピーチは無かった。
この発言を聞いた瞬間、おれは、怒りと、悲しみと、底なしの気味の悪さで目を開けていることができなかった。
この発言をした人物のあまりの薄気味悪さにその人物を正視できなかった。
在日の一世、二世の無念を思うと、東九条のド真ん中でこんな発言を許してしまったこと自体が、ほんとうに死者たちに申し訳ないという気持ちになる。
この発言に対して平山は「今その発言を撤回するなら許してやる」という旨の発言をしたが、山崎なしは撤回せず「あなたはまた誤解している」などとほざいたので、
この発言は勢いでついうっかり言ってしまったのではなく本気でそう思っているということがよくわかった。
山崎なしはマジョリティである日本人である。
その日本人が、マイノリティ集団の在日の、しかも壮絶な差別、貧困、暴力の世界を生き抜いてきた在日の一世二世の怒りや悲しみに「反発」するのがモチベーションだと言う。
大多数者のマジョリティが少数者であるマイノリティに「反発」するというこの「倒錯」。
しかしこの「倒錯」は実は、ネット右翼や排外主義者のレイシストによく見られる「倒錯」なのだ。
自分たちや日本という国は在日から奪われている被害者で、在日から奪われた日本を取り戻すために活動しているというのがネトウヨ排外主義者レイシストの理路だが、
山崎なしの「反発」という言葉もこの理路と同じであることを指摘しておく。
さて、「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーション」の劇団九条劇とは一体いかなる団体なのかを見ていこう。
劇団九条劇とは、2018年につくられた東九条出身の1993年生まれの浜辺ふうのソロユニットということになっている。
浜辺ふうという人物はいかなる人物なのか。その「物語」を見ていこう。
2024年6月15日、明治学院大学にて浜辺ふうが出演した会話劇『リリース』(作・演出:FUFUNI)のレビュー
https://artscape.jp/article/16590/から引用する。
以下引用━━━
浜辺の「怒り」とは何か。幼い浜辺が通っていたのは、着せ替えごっこ遊び用のハンガーラックに浴衣とチョゴリの両方がかかり、
日本語と「ウリマル」のバイリンガルで挨拶し歌を歌うような保育園だった。
「ウリマル」とは韓国朝鮮語で「私たちの言葉」のこと。だが浜辺は「あんたは日本人やねんから、ウリマルじゃないやろ」と言われてしまう。
「ウリハッキョ」(私たちの学校=朝鮮学校)に通えないこと。自分には二つの名前がないこと。民族教育を受けられないこと。それらは幼い浜辺にとって理不尽な線引きでしかなかった。
そうして幼い浜辺は自らが生まれ育ったコミュニティの内部にあって疎外され、そのことに対して理解されない怒りを抱えていくことになる。
なぜ自分はほかの子と違う扱いを受けなければならないのか。なぜこの怒りは理解されないのか。怒りの原点を吐露するリリックは激烈だ。
いまはもうそれほど怒ってはいないという浜辺の、しかしかつて確かに抱いた生々しい感情がそこには刻まれている。
━━引用以上
連載前回の最後に書いた
>「民族学級」に入りたい、という「日本人」のこども、
>東九条の希望の家保育園で「多文化共生教育」を受けて育ったこども、
>そんな「多文化共生教育」と「民族教育」とを混同した「こども」がそのままおとなになった、
と書いた人物はこの浜辺ふうの事である。
浜辺ふうは両親とも日本人で、日本人は当然「民族学級」には入れない。レビューによれば
>そのことに対して理解されない怒りを抱えていくことになる
だそうだ。朝鮮人のための朝鮮人の「民族教育」をする「民族学級」に日本人が入れないのは当然のことである。
連載前回にも書いたが、マイノリティだけの集まりにマジョリティが入ってはいけないのである。
そのことに怒りを覚えることの方がおかしいのであって、なぜこの怒りに正当性があると思えるのか平山にはさっぱり理解できない。
浜辺ふうがやっていることはただのマジョリティからマイノリティへの「不当要求」である。これが差別や収奪でなくて何なのだろうか?
当時周りの大人たちは何をしていたのだ?こどもといえど、在日韓国朝鮮人への差別や収奪をすればきちんと怒らなければならないはずだ。
これは当時の大人たちの怠慢でもある。そしてたとえ当時の浜辺ふうが小学三年生であっても、大人がきちんと何故日本人は民族学級に入れないのかをことばを尽くして説明すべきだったのだ。
こどもの浜辺ふうの感情にきちんと大人のことばを尽くして全力で答えなければならなかったのだ。
それを怠った当時浜辺ふうの周辺にいた大人の罪は大きい。そして当然、いちばんそれをしなければならなかった浜辺ふうの両親の罪がいちばん大きい。
浜辺ふうが現在も「永遠の小学三年生」でいなければならないのは当時の大人が浜辺ふうの感情を切り捨てたからである。
それには同情するが、だからといって現在にそれを持ち越して在日韓国朝鮮人を差別し、それを扇動するデマゴーグ演劇をしてもいい理由にはならない。
レビューにはさらに
>「ウリハッキョ」(私たちの学校=朝鮮学校)に通えないこと。自分には二つの名前がないこと。民族教育を受けられないこと。それらは幼い浜辺にとって理不尽な線引きでしかなかった。
とあるが、
>自分には二つの名前がないこと
とは「通名」のことである。在日韓国朝鮮人には朝鮮語の名前である本名と、日本名である「通名」と二つの名前がある。
何故二つ名前があるのか、非常に簡潔に書くと、かつて大日本帝国が朝鮮への植民地支配による皇民化政策の際に、朝鮮式の姓名を廃して日本式の姓名を名乗るように半ば強制したことに由来する。
それを「創氏改名」というが、戦後、創氏改名は無くなり、元の民族名を名乗る事はできたけれども、日本で生活する際に「本名」を使えば就職もできず商売にも不利であったため、
多くの在日韓国朝鮮人は自身が在日であることを隠すために日本名である「通名」をしようした。
本名を名乗ることも、通名を名乗ることもどちらが良い悪い正解不正解は無い。だが、在日にの一世二世の世代はこの通名をめぐって激しく葛藤してきたし苦しんできた。
そのことを浜辺ふうも知っているはずである。にも拘わらず、
>自分には二つの名前がないこと。それらは幼い浜辺にとって理不尽な線引きでしかなかった。
と宣う。何が「理不尽」なのだろうか。
理不尽な思いをしてきたのは在日であって、
日本人である浜辺ふうが二つ名前が欲しいだのなんだの言うことが在日韓国朝鮮人に対してどれだけの侮辱なのかを浜辺ふうは理解したうえで言っているわけだから、
これはド真ん中のレイシズムである。
また、このレビューには記載されていないが、去年の2024年の9月14日に京都市立芸術大学にて行われた同内容の公演を見た平山の在日の友人からはそのセリフにおいて
「在日になりたかった」「在日に生まれたかった」
というセリフがあったと聞いた。ぞっとするほどおぞましいセリフである。在日に限らず、だが、マジョリティがマイノリティになりたかったなんてことを言ってはならないだろう。
例えば「被差別部落に生まれたかった」とか「障害者になりたかった」なんてことをマジョリティが言えば、それは当事者にとってどれほどの屈辱であることか。
「在日になりたかった」という浜辺ふうは、暴力と収奪が支配するような在日の家庭に生まれたかったのだろうか?例え日本人であっても、
在日の現実をよく知っている人なら絶対にこんなセリフは出てこない。つまり、浜辺ふうは在日韓国朝鮮人のことなど何も知らないのである。
だからこそ「在日になりたかった」「在日に生まれたかった」なんてことを平気で言うことができる。
東九条出身でありながら在日韓国朝鮮人のことを何も知らない浜辺ふうは東九条の「多文化共生エリア」に属する者である。
多文化共生教育をする「希望の家」出身で、東九条マダンの母体となった「ハンマダン」にも参加している。
そして東九条マダンにもこどもの頃から参加し、大きな影響を受けている。
浜辺ふうが「なりたかった」と言っている在日とは、「多文化共生エリア」の「二階」の在日のことである。
浜辺ふうは「狭域の東九条=多文化共生エリア」を東九条そのものだと思い込んでいる。それ以外の東九条のことなど何も知らない。それを如実に表す新聞記事がある。
赤丸で①と書かれた新聞記事。これは第31回東九条マダンの記事だが、最後に浜辺ふうのインタビューが乗っている。そこにはこう書かれている。
以下引用━━
浜辺ふうさんは「東九条は多文化共生社会の結果であり過程です」と話した。
━━引用以上
ここまで平山の連載を読んだ人ならもうわかるかと思うが、東九条は多文化共生社会の結果でもなければ過程でもない。
東九条には「多文化共生エリア」と「その他の地域」があるだけである。「その他の地域」にとって多文化共生など一切関係は無い。
おれのバアサンも、ジイさんも、母親も父親もおれも、近所のオッサンおばちゃんも誰も、その人生において多文化共生なんて一切関係ない。
それに多文化共生とは1970年代から出始めたことばである。東九条は多文化共生の結果であり過程なら、1970年代以前の東九条は無かったことになる。
この発言は浜辺ふうが「多文化共生エリア」以外の東九条のことなど何も知らないことの証左である。
この記事をある東九条マダンの関係者に読ませたところ、顔をしかめて「これはまずい…」と言った。それはそうだろう。
100歩譲って「東九条「マダン」は多文化共生社会の結果であり過程です」と言うならまだわかる。
だけど、東九条マダンの関係者が東九条マダンの記事で「東九条は多文化共生社会の結果であり過程です」なんて発言をすることは、
東九条地域への無理解に基づく著しい地域軽視であり、不遜で尊大な態度に見えるだろう。
東九条マダンに深く関わっていればいるほど、東九条の多文化共生エリア以外の地域は多文化共生の街では無いということをよく知っている。
それをひとまとめに雑に「東九条は多文化共生社会の結果であり過程です」と断言してしまうこの無神経さ。薄っぺらさ。
しかもそれを東九条マダンの記事のインタビューで答えてしまう配慮の無さ。自分が知っている世界が全てだと思い込める幼稚性と他者性の無さ。
さらに言うなら浜辺ふうは東九条マダンに大きな影響を受けたと言いながら東九条マダンのことなど何もわかっていないのである。
先の連載で平山が示した通り、東九条マダンにおける「多文化共生」のバックボーンには、梁民基さんが輸入してきた「民衆文化運動」があった。
その「民衆文化運動」も韓国の、下から上の抵抗としての垂直の民衆文化運動から90度傾いて水平方向になった「連帯」の民衆文化運動となったこと。
またその民衆文化運動もさかのぼれば「マダン劇運動」やその源流の「タルチュム復興運動」にさかのぼる。
そしてそれは当時の韓国の、朝鮮の民衆が封建制の抑圧から、そして独裁政権の支配的状況から人間性を回復するための「人間が人間であるため」の衝動であり、表現であり、運動であった。
そのことを踏まえるならば山崎なしの
「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーションでやってるんすよね。」
というあまりにも人間性を踏みにじるようなレイシズム発言は絶対に出てこないのだ。
この発言は単なる在日への差別や侮辱ではなく、人間そのものへの侮辱である。山崎なしのこの発言は人間そのものを破壊している。
「マダン劇運動」の流れを汲む東九条マダンの「民衆文化運動」。それは東九条の「一階」の住人とは連帯できなかった「空回りした民衆文化運動」であったこと。
その「空回りした民衆文化運動」が「多文化共生のまつり」と呼ばれたこと。
そのような東九条マダンの「歴史」をふまえるなら、浜辺ふうが京都新聞の取材で答えた
「東九条は多文化共生社会の結果であり過程です」
という解答は絶対に出てこないのだ。繰り返すがそれは「空回りした民衆文化運動」だったからである。
だから浜辺ふうは東九条マダンのことなど何も理解もしていなし、知ろうともしていない。浜辺ふうは東九条マダンのいいとこどりをしているだけ。
在日も日本人もともにひとつの「まつり」をつくる「東九条マダン」。
だが「東九条マダン」の場合はあくまで、在日韓国朝鮮人、日本人、障害者、被差別部落、…、それぞれの「違い」を尊重したうえで「みんなでひとつのまつり」をつくるのだ。
そしてそのことを長年丁寧に議論をしながらやってきている。それはおれがよくわかっている。
しかし浜辺ふうにとって「東九条マダン」は「在日も日本人も同じ」という「自他の区別がつかない」だけの幼稚性を発露できる場でしかなかった。
浜辺ふうがやっていることはこれまで30数年東九条マダンが丁寧に積み重ねてきた議論や、丁寧に築いてきた地域との信頼関係を全てぶち壊す行為である。
だからこそこの記事を読んだ東九条マダン関係者は「これはまずい…」と言ったのだ。浜辺ふう、東九条マダンを私物化するな。恥を知れ。
多文化共生エリアの「二階の在日」のことしか知らない浜辺ふう。日本人にとって都合のいい「在日像」しか知らない浜辺ふう。
在日韓国朝鮮人の無念など何も知らない浜辺ふう。そんな薄っぺらい在日像をこれまでの九条劇の公演で浜辺ふうは開陳してきた。
つまり浜辺ふうのやっていることは東九条地域在日韓国朝鮮人の歴史の「植民地化」であり「歴史修正」である。
当然、その演劇を見た、あるいは関わった東九条地域の在日も、日本人も、様々な人が浜辺ふうに苦言を呈してきた。
浜辺ふうの主張が在日韓国朝鮮人にとって侮辱的で差別的で収奪であること、浜辺ふうの在日像は在日の現実とは著しく乖離していること、
浜辺ふうの主張が在日韓国朝鮮人の社会に破壊的な影響を与えてしまう事、
浜辺ふうがやっていることは「収奪」であること、そんなことを浜辺ふうを良く知る在日も、日本人も、浜辺ふうに直接言ってきた。
そのことはおれは様々な関係者から直接聞いている。
だが、浜辺ふうは一切聞く耳をもたない。
「なんでわかってくれないのーーー」の一点張り。あるいは無視。全く話にならない。
浜辺ふうは全く他人の話を聞かないし受け入れない、と多くの関係者から平山は聞いた。
「なんでわかってくれないの」って、そんなんわかるわけがないしわかる必要が無い。
日本人である浜辺ふうが「民族学級」に入りたいなんていう「不当要求」は差別であり、侵略であり、収奪なのだから、そんなことわかる必要がない。はっきり言って気持ち悪いし気味が悪い。
連載前回にも書いたが「多文化共生教育」と「民族教育」は違うのだ。多文化共生教育は「開かれた安全性」、民族教育は「閉じた安全性」。
その「閉じた安全性」の中で民族教育をする場に日本人を入れろという主張が在日韓国朝鮮人の精神の危険性を脅かす行為であることが浜辺ふうはわからないのだろうか?
例えば男性が「男も女も同じ人間なのだから男性も女子更衣室を使わせろ」と主張したら気持ち悪いし、女性にとっては身の危険を感じる主張だろう。
確かに女性と男性は同じ人間ではあるが女性と男性は「違う」のだ。
浜辺ふうの主張は全くこれと同じである。気味が悪い。マジョリティがマイノリティのクローズドな集まりに侵入してくるなよ。
だからこそ浜辺ふうは地域の人間から怒られているのだが、その怒られたことを浜辺ふうは東九条の在日(及び日本人)から排除された、抑圧されているという逆恨みをしている。
だからこそ冒頭の山崎なしの
「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーションでやってるんすよね。」
という「倒錯」したレイシズム発言につながるのである。構図としては九条劇のやってることは在特会をはじめとするネトウヨレイシストと全く同じ。
「不当要求」して怒られたら被害者ズラして反発するのがモチベーション。何がモチベーションだよ。薄気味悪い。
浜辺ふうもそのパートナーである山崎ナシも、ネトウヨレイシストと同じで自分たちは「被害者」だと本気で思い込んでいる。
そしてそのことを逆恨みし、東九条の在日に対して憎しみを持っている。
その倒錯した憎しみをぶつけられた時の気味の悪さと恐怖感は今までに味わったことのない感覚と感情だった。その瞬間、ただ、「こいつらとは絶対に関わってはいけない」という身体の反応だけがあった。
繰り返すが、日本人である浜辺ふうが在日の「民族教育」をするための「民族学級」に入れろというのは「不当要求」である。
その「不当要求」は差別であり、収奪であるから東九条の住人は怒っているのだが、その自分たちに向けられた怒りを「不当に排除された」「迫害」されたと思い込んでいるのである。
そしてそのことを何年にもわたって演劇で表現しているのである。劇団九条劇ははっきり言って気味の悪い倒錯集団でしかない。変質者に近い薄気味悪さを感じる集団である。
そして何より在日韓国朝鮮人にとってこんな恐ろしいことは無い。浜辺ふう=山崎なしの主張や行動は、ネトウヨレイシストと全く同じだからである。
在日韓国朝鮮人はマイノリティである。マイノリティが圧倒的多数のマジョリティである日本人を排除したり抑圧したりできるわけがない。
東九条という地域がいくら在日韓国朝鮮人が多いからといって、日本人の方がはるかに多いのだ。
それを浜辺ふうが「民族学級」に入れなかったことを理由に自分は在日から「逆差別」された、在日から攻撃されて「排除」されたと騒ぎ立て、
現在においても「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーションでやってんすよね。」とまで言う。
この手口は「在日特権」があるとデマを流し、「日本人は在日に支配されている」と倒錯した主張をし、在日韓国朝鮮人の社会に攻撃を加えてきたネトウヨレイシストと同じである。
恐ろしいことは、東九条という地域の事を知らない人はこの浜辺ふうが捏造した「物語=デマ」を信じてしまうということである。
浜辺ふう=山崎なしの卑怯なところは、「日本人も民族学級に入れないのはおかしい」という主張が一見正当な主張に見えてしまうところである。
というのは前々回の連載で書いた通り「民族学級」は公立の小学校の「課内」に設置されていた授業だからである。
何故公立の小学校の課内に「民族学級」があるのかその歴史的経緯を知らない日本人からすれば「公立の小学校の中にあるんだから日本人も入ればいいではないか」と素朴に思ってしまうのである。
実際平山も同じことを日本人に言われたことがある。だけど、民族学級設立の歴史的経緯を知ってもらえば、それは間違った主張だということも理解してもらえる。
浜辺ふう=山崎なしは、民族学級がどのようにして成立したのかを学んで理解した上でこの主張をしている。
浜辺ふう=山崎なしが卑怯なのは、観客が民族学級設立の歴史的経緯を知らないという、観客の無知に付け込んで、さも自分たちの主張に正当性があるかのように見せているところである。
これもまた、ネトウヨレイシストと手口が同じである。
ネトウヨレイシストが「在日特権がある」という主張をするさい、在日の事など知らない、興味のない一般の日本人の無知に付け込んでこのような荒唐無稽な主張を広めていく。
人の無知に付け込んで人間の劣情を煽る。つまり、
浜辺ふう=山崎なしがやっていることは表現ではなく「デマゴーグ」なのである。
これは在日韓国朝鮮人にとっては恐怖感を覚える展開である。
上記のような主張を演劇という「表現」を通して、東九条はおろか、関東の大学でも上演し、去年は京都市立芸術大学主催でこの公演をしている。
浜辺ふうの「不当要求」および民族学級に関する知識の格差を悪用したデマ的主張がアカデミアやアートの「二階」「三階」「四階」の世界で受容され、それに「お墨付き」が与えられていく恐怖。
しかもそれが「多文化共生」の文脈においてなされていく恐怖。ちなみに去年京都市立芸術大学が主宰にて上演させたそのメインタイトルは「共生と分有のトポス」である。
またもや「共生」である。「共生」が冠されたイベントで浜辺ふうのレイシズム公演がデマゴーグ演劇が上演され、絶賛されることの恐怖。
ちなみに平山は現在この公演に関して京都市立芸術大学に「申し入れ」をし、現在回答待ちである。
ちなみに浜辺ふうは意図的にアカデミアやアートの世界で公演をしている。要は「一階」の在日に見つからないために。
そして東九条や在日のことや民族学級のことを「知らない」アカデミアやアートの世界で自分の「物語」をデマゴーグし、
その「物語」を既成事実化するために。やってることが悪質すぎるし卑怯卑劣卑屈極まりない。
浜辺ふうの書いたものや書かれたものを読んでも「反差別」ということばは出てこない。代わりに出てくるのは「多文化共生」である。
浜辺ふうは、自身の「物語」を常にこの「多文化共生」の文脈で問う。これは多文化共生の悪用である。何度も書くが、浜辺ふうの主張や言動は「差別」である。
まごうことなき差別と収奪と在日の歴史の植民地化である。
だけど、浜辺ふうのそれは「差別」として認識されない。何故か。周りの大人の持っている「世界観=他者理解」のモデルが「多文化共生」だからである。
本来浜辺ふうの言動は「差別・反差別」の問題として対処しなければならないのに、「多文化共生」の問題や文脈でそれを処理しようとするからこんな浜辺ふうの差別的言動がまかり通るのである。
そしてこれを浜辺ふう=山崎なしは「意図的」にやっている。
日本人が「民族学級」に入りたいという「不当要求」も東九条の多文化共生の文脈で語る事でさもそれが何か正当性があるかのように見えてしまうのだ。
さらにそれを東九条の新世代の「複雑なアイデンティティ」のような言い方をすることで何か正当性があるように見えてしまう。
断言しておく。浜辺ふうの主張はマジョリティからマイノリティへの「不当要求」であり、差別であり収奪であり植民地化でしかない。
浜辺ふうの主張は日本人と在日韓国朝鮮人との区別がつかない幼稚性の発露でしかない。それは多文化共生の問題でもなければ、アイデンティティの問題でもない。
浜辺ふうの主張とは、いつまでたっても成熟できない、「永遠の小学三年生」のたわごとにすぎない。
もう一つ、新聞記事から引用する。
赤丸で②と書かれた新聞記事。
書き出してみる。
以下引用━━━
幼いころから遊び場だった公園に、拡声器で「日本から叩きだせ!」などと怒声が響く。
京都地検はその後、南区にあった朝鮮第一初級学校で2009年に在特会メンバーが押しかけ授業を妨害したとしてメンバーを起訴。
民事では京都地裁が「在日朝鮮人に対する侮辱的発言を多数伴い、人種差別」と認定、在特会側メンバーが敗訴した。
…略…
浜辺さんには、国という概念もなくコリアン文化に囲まれて育ったのに、市立小学校に設置されている民族学級に行きたいというと、
「日本人やったらいけません」と教員に告げられた衝撃が、在特会の事件と重なる。
━━━引用以上
最低最悪のレイシズム扇動記事である。京都新聞はよくこんな記事を書いたなと思う。京都新聞恥を知れ。
浜辺ふうがこどものころ民族学級に入れなかったことが在特会の事件と重なるとのことだが、最低最悪だというしかない。
戦後、日本の政府や自治体、GHQからの弾圧に合いながらもあきらめず、時には死者すら出しながら抵抗し、妥協に妥協を重ねながらも繋いできた「民族学級」が
>在特会の事件と重なる
と浜辺ふうは主張している。そんなわけがない。こんな主張が許されるわけがない。ふざけんなよ。
浜辺ふうの「不当要求」を正当化するために「民族学級」をレイシストの「在特会」と重ねているのだから、浜辺ふうのやったことはレイシストよりも酷い醜悪な所業である。
何が「重なる」だよ。重ねてるんだろ、意図的に。浜辺ふうも、京都新聞も、恥を知れ。この記事で浜辺ふうがやっていることはレイシズムの「扇動」である。
ありもしない「民族学級や在日から迫害された」という虚言を公の新聞紙上で書くことの意味。
当時レイシスト集団の在特会が猛威を振るっていて、在日に何の興味もない一般の日本人ですら「在日特権なるものがあるのではないか?」という疑惑の目を在日韓国朝鮮人に向けていた。
そんな最中での
>市立小学校に設置されている民族学級に行きたいというと、「日本人やったらいけません」と教員に告げられた衝撃が、在特会の事件と重なる。
という記事である。要は浜辺ふうは東九条の在日に「逆差別されている」という主張をしているのだ。それを、新聞紙上で。最悪である。
もしこの記事がレイシストに悪用されることも当然浜辺ふうは理解した上でやっている。そして一般の日本人が「東九条に逆差別があるのだ」と思い込んでしまう事も浜辺ふうは理解した上でやっている。
要は「犬笛」を吹いたわけだ。この記事が在日韓国朝鮮人の社会をどれほど脅かし、破壊的な影響を与えるものなのかを京都新聞は理解した上でやっているのだろうか?最悪のレイシズム扇動記事である。
そしてこの記事は「民族学級」の存続をも脅かす記事である。連載前々回にて「民族学級」の歴史について書いた。
そこでは在日朝鮮人のこどものための「朝鮮学校」がその時々の国際情勢や政治的な思惑や法律の改正や様々な理由で常に存続が危ぶまれ、
そのたびに妥協に妥協を重ねて現在の「民族学級」という形になったことを示した。
現在においてももし京都市や日本の政府が「民族学級」を廃止すると決めれば「民族学級」は廃止なのだ。
それに抗する手立てはない。そんな非常に危うい立場で運営を続けている民族学級に対して浜辺ふうは京都新聞を通して「民族学級が在特会と重なる」と書いたのだ。
もし仮にこの記事がきっかけとなって、民族学級が、あるいは在日韓国朝鮮人が日本人に逆差別をしているというような世論が形成されたら民族学級は終了である。
大阪ではそのような主張や抗議が教育委員会によせられたと聞く。そしてこれは「在特会」などのネトウヨレイシストと同じ主張である。これを浜辺ふうと山崎なしは意図的にやっている。
何故なら山崎なしはおれに「阪神教育闘争のことも勉強したんですよ~」とおれにほざいた。
そして浜辺ふうも松下佳弘氏の論文を読んでいる。つまり、浜辺ふうも山崎なしも、民族学級の歴史や経緯、その危うい立場を理解した上でこの記事を京都新聞に書かせたのだ。
そして、京都の民族学級も「在特会」からの攻撃を実際に受けているのだ。
京都の場合は教育委員会が、民族学級および児童や学校を守るために在特会を教育委員会に呼び寄せてそこで抗議を受けたということだが、
浜辺ふうのこの主張と京都新聞の記事は在特会の主張をアシストするものでしかない。それを浜辺ふうは完全に理解した上でやっている。浜辺ふうは意図的に民族学級を潰しにいってる。
浜辺ふう、山崎なし。おまえらは多文化共生の皮をかぶった最低最悪のレイシストじゃ。恥を知れ。
ではなぜこんなレイシズム扇動記事がまかり通るのか?東九条が「多文化共生」の地域とされているからである。
もし、東九条が差別は絶対許さないという「反差別」の地域ならこんな記事は絶対に書かれないしそもそも浜辺ふう事体がこんな活動ができていない。
だけど、浜辺ふうの虚言や捏造物語は「多文化共生」という文脈で読み取られてしまうからこそこんな発言や記事が何の疑問も無く許容されてしまうのだ。この状況の全てをおれは
「多文化共生系レイシズム」
と呼んでいる。
そして連載次回で書くがこの浜辺ふうの虚言捏造物語の事をおれは「浜辺ふうの東九条多文化共生お花畑史観」と呼んでいる。
浜辺ふうがやっていることはネット右翼がやっている「歴史戦」と同じである。妄想と捏造でこの東九条や在日の歴史を歪めて塗りつぶしていく。
それを多文化共生の文脈でやっていくその悪質さ。
「多文化共生」という誰もが反対できない文脈に自身の妄想捏造物語を組み込むことで、自身に疑問を抱かせず、かつ反論もさせにくくするというやり口である。
だからそれは「物語」ですらなく「史観」なのだ。浜辺ふうのやっていることは「表現」ではなく「政治」である。京都新聞に記載された
>市立小学校に設置されている民族学級に行きたいというと、「日本人やったらいけません」と教員に告げられた衝撃が、在特会の事件と重なる。
という文章は在日韓国朝鮮人の社会、そして民族学級の存続すら脅かすための極めて政治的な意図をもった記事であり、そしてレイシズム扇動である。
さらにこの記事から引用してみよう。
以下引用━━━
「周りの大人はそんなん理解してくれへん。あんたは在日、あんたは日本人って分けられる時があるやん…。
自分の文化やと思っていたものが実は朝鮮からきたもので、でも私は日本人。
しかもその二つが植民地支配した方とされた方。私はどの立場で何をしゃべったらいいのかって、アイデンティティの崩壊や」
━━━引用以上
崩壊しているのはアイデンティティではなく浜辺ふうの「自他の区別」である。読んでいて恥ずかしくなる、イノセントと幼児性をはき違えた痛いセリフ。
>あんたは在日、あんたは日本人って分けられる時があるやん…。
あるやん…。じゃなくて、あるんだよ。在日と日本人は違う人間なんだよ。在日と日本人は「他者」なんだよ。女と男が違うように。障害者と健常者とが違うように。わたしとあなたは「他者」なんだよ。
浜辺ふうにはこの「他者性」が一切無い。
だからこそ民族学級に入れろなんていう「不当要求」が平気でできるのだが、浜辺ふうも浜辺ふうを支持する連中もこの「他者性の無さ」をイノセントだと勘違いしている。
浜辺ふうのそれはイノセントなのではなく、「自他の区別がつかない」幼児性の発露でしかない。いい年して在日と日本人とは違う人間だということがわからないこの「幼児性」。
「わたし」と「あなた」は違う人間だということがわからない知性の無さ。起きていることは
>アイデンティティの崩壊
ではなく、知性と人間性の崩壊である。
浜辺ふうのような「他者性」の無い者に多文化共生はできない。なぜなら他者との違いを認め、その違いを尊重するのが多文化共生だから。
だから「他者性」の無い浜辺ふうは絶対に多文化共生はできない。多文化共生できないどころか、浜辺ふうのやっていることは「多文化共生」を悪用したレイシズムである。
であるがゆえに、この浜辺ふう、山崎なしを「多文化共生系レイシスト」とおれは呼ぶ。
さらにこの記事から引用する。
>浜辺さんには、国という概念もなくコリアン文化に囲まれて育ったのに、
とあるが、さすがにこれは作り話が過ぎる。
>国という概念も無く
そんなわけがない。希望の家カトリック保育園は「多文化共生教育」をしているのだ。国と言う概念がそこに無いわけがない。
国という概念が無いのにどうやって多文化共生教育ができるのだろうか?小学三年生ならさすがに国という概念だって理解できるはずだ。で、
>コリアン文化に囲まれて育った
とは具体的に何のことなのだろうか?繰り返すが東九条という地域には朝鮮の文化は日常にあふれているわけではない。そんな光景見たことが無い。嘘をつくな。
東九条という地域は在日韓国朝鮮人の集住地域ではあるが「コリアンタウン」ではない。
まさか東九条マダンやハンマダンでチャンゴ叩いたくらいのことを>コリアン文化に囲まれて育った、と言っているのだとしたらお花畑も甚だしい。
そしてそうだとしたら、それを
>国という概念も無く
と言ってるのだとしたらそれは「多文化共生」の否定であり、ハンマダンの否定であり、東九条マダンの否定でもあり、東九条という地域そのものの歴史の書き換えでしかない。
浜辺ふうのやり口はすべてこれ。イノセントと幼児性の発露を混同した悪質な印象操作で「日本人だけど民族学級に入りたい」という「不当要求」に正当性があるかのように見せているだけ。
だから浜辺ふうのやっていることを、デマゴーグだとおれは言っている。
浜辺ふうのデマゴーグにまんまと乗っかった京都新聞も間抜けだとしか言いようがない。でもこういうイノセントに見せかけたただの幼児性の発露にみんな弱いんだよ。いい大人が情けない。何が
>国という概念も無く
だよ。浜辺ふうに無いのは「他者性」なんだよ。浜辺ふうに無いのは、他者を尊重し大切にするその人間のこころだよ。
通名が無いのが理不尽、在日になりたかった、在日に生まれたかった、民族学級に入れろ、民族学級が在特会と重なる…
現在の東九条ではこんなあまりにも酷いことばの数々が、「多文化共生」の名のもとにまかり通るのだ。いや、「多文化共生」だからこそまかり通るのだ。
自他の区別がつかない、他者性の無い、幼児性とイノセントをはき違えて、いつまでも在日韓国朝鮮人に「不当要求」し、怒られたら「排除された、迫害された、逆差別された」と被害妄想を抱き、
「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーションでやってるんすよね。」と得意げに息を巻く、
そんな浜辺ふうが東九条の「多文化共生エリア」の中心にいる人物の一人である。
こんなふうに書くと、浜辺ふうが悪人に思えるかもしれないが、浜辺ふうは悪人ではない。浜辺ふうがエゴイストに見えるかもしれないが浜辺ふうはエゴイストではない。
浜辺ふうは悪人ではなく虚無である。浜辺ふうはエゴイストではなく虚無である。浜辺ふうには「わたし」が無い。
浜辺ふうに「他者性」が無いのは「わたし」が無いからである。幼稚な浜辺ふうは「我がまま」に見えるが実はそうではない。
「我がまま」のその「我が」が浜辺ふうには無いのだ。「わたし」が無いからこそ浜辺ふうは
「わたし」「わたし」「わたし」「わたし」「わたし」…と「わたし」を主張し続けるしかない。
しかしその「わたし」すら危うい虚無。
「わたし」「わ し」「 たし」「わ 」「 たし」…「 」
「 」という虚無についた名前。それが浜辺ふうである。
自我は脆弱なのに主体性は過剰にある、そんな迷惑な虚無が浜辺ふうである。
自我は脆弱なのに主体性は過剰にある、関西弁でいう「いらんことしい」という奴である。
浜辺ふうはそんな「多文化共生エリア」によくいる「いらんことしい」の虚無の一つなのだが、「いらんことしい」は浜辺ふうだけではない。
連載次回は、この浜辺ふうという「虚無」について考えることで、東九条の多文化共生とは一体何なのかを明らかにしていきたい。
2025年10月5日