【連載】 『東九条、死者無き多文化共生の行方≪18≫』

東九条とは誰なのか、何なのか? その5

 『「共に生きる」ことができない「現実」』 その②「多文化共生」+「まちづくり」=京都・東九条CANフォーラムとは何だったのか? 

   
「もとめよ、さらば与えられん」
   
キリストが言ったとされることばだが、この連載に即して言うならば
   
「もとめよ、さらば(多文化)共生せん」
   
もしくは
   
「(多文化)共生せよ、さらば与えられん」
   
となる。
   
さて、そのおまえの「多文化共生」は、どっちだ?
   
おまえは本当に「共生」を祈り、願う者なのか、
   
それともおまえは、「共生」することで別の何かを「与えられたい」だけの者なのか。
   
おまえが「共生」を試す時、
   
「共生」もまた、おまえを試している。
   
 東九条地域には五つの「多文化共生」がある。
   
①「希望の家カトリック保育園」の多文化共生保育。…保育園
②東九条マダン …「多文化共生のまつり」
③京都・東九条CANフォーラム
④「京都市地域・多文化交流 ネットワークサロン」…京都市の多文化共生施策を推進する施設
⑤アート系の「共生」「多文化共生」
     
 前回は①②について見ていったので、今回は東九条地域の三つ目の多文化共生、京都・東九条CANフォーラムについて見ていく。
   
④京都・東九条CANフォーラムは東九条マダン二代目実行委員長の朴実氏が中心となって始めた「多文化共生のまちづくり」を目指す団体である。 CANフォーラムは2009年5月にその活動を開始し、2024年4月に休会する。
   
「多文化共生」+「まちづくり」の団体、京都・東九条CANフォーラム会則から一部を引用する。
   
以下引用━━━  
   
(会の目的)
   
1-1、京都・東九条CANフォーラム(以下この会とします)は、東九条における「多文化共生のまちづくり」を志向する個人、団体で構成される連絡会で、 その所在地を京都市南区東九条…〈略〉…におきます。
   
    ━━━引用以上
   
加えて、2009年5月10日 京都・東九条CANフォーラム設立趣旨文 から一部引用する。
   
以下引用━━━
   
◎「多文化共生のまちづくり」をめざして!
   
 東九条は京都市の中で最も多く在日外国人が居住する地域です。戦前から戦後にかけて、この地域では民族差別や貧困にあえぐさまざまな境遇の人びとが肩を寄せ合い生きてきました。 1960年代以降、廃品回収に従事する人々の集落は度重なる大火災により、着の身着のままに焼け出され、人が焼け死に、深刻な社会問題として京都市民が認識するに至り、 当時の京都市長も現地を視察し、問題の深刻さに「東九条対策」を約束しました。
 あれから約40年の歳月を経て人口は減少し(4ヶ町約1/5、山王学区約1/3、陶化学区約1/2)、まちに活気が失われつつあります。 この間、住民運動と京都市の協力により一部住環境で一定の成果を上げたものの、それは東九条の抱える問題の一部にしか過ぎません。 これまで行政主導で東九条は狭い範囲で限定されてきました。 (山王学区四ヶ町、陶化学区東松ノ木町など)が、東九条を捉える場合もう少し広い視点が必要で、特定の地域に限定する必要はありません。 また、東九条が抱えている問題としての民族差別や部落差別、障がい者差別などを無くすための対策は著しく立ち遅れているのがその現状だと思います。 最近ではアジアからのニューカマーや、新たな貧困層の流入などの新しい社会現象が見られます。今こそ東九条を「多文化共生が息づくまち」として再生する必要があります。 私たちはもう一度、東九条の歴史や現状から根本的に問題を見直し、住民・市民運動と行政が共に手を携え、 未来に希望の持てる「多文化共生のまちづくり!」をめざし、ここに「京都・東九条CAN(Community Action Network)フォーラム」を結成します。
   
━━━引用以上
   
さらに京都・東九条CANフォーラム 2009年度活動方針案 から引用する。
   
以下引用━━━
   
■ 基本目標に据える活動
 1.「多文化共生のまちづくり」のために、民間の活動グループと行政の協同による「(仮称)多文化共生コミュニティーセンター」の設立準備活動を行う。」
 2.「多文化共生のまちづくり」の議論を活発化し、内容を豊にし、多くの人が参加できるための「多文化共生のまちづくりを考える市民学習会」の開催
   
━━━引用以上
   
となっている。
   
見ての通り、朴実氏を中心(?)とするこの団体が「多文化共生」を旗印にして、東九条の「まちづくり」を進めようとしたことがわかる。 CANフォーラムが発行したニュースレターを過去から遡って読んでいくとひたすら「多文化共生」という文字が躍っている。 多文化共生のためのワークショップ、多文化共生ための学習講座、多文化共生のためのフィールドワーク、多文化共生のためのトークセッション、多文化共生のためのミニコンサート、 多文化共生のための勉強会、多文化共生のためのシンポジウム、多文化共生のための…、多文化共生のための…、 その活動はひたすら東九条地域を多文化共生のまちにするための機運醸成のために行われていくように見える。 2009年10月に始まったCANフォーラムはひたすらに多文化共生をお経のように唱え続けついに
   
2013年8月20日発行の「京都・東九条CANフォーラムニュースレター第11号」の見出しには
   
>多文化共生のまち東九条から芸大移転について考える
   
と書かれている。>「多文化共生のまち東九条」????
   
「多文化共生を推進」ではなく、もうここでは「東九条は多文化共生のまち」だということになっている。いつから東九条は多文化共生のまちになったのか。 2013年、平山も東九条に住んでいたが、当時平山は多文化共生の「た」の字も聞いたことは無かった。 もはやこうなると自己洗脳なのではないかと思うが、しかし現実と乖離したことばは続かない。
   
2014年12月16日の京都・東九条CANフォーラム学習会「共に生きるまち東九条」のご案内 から一部引用する。
   
以下引用━━━
   
2008年5月に「京都・東九条CAN(Community Action Network)フォーラム」がスタートして6年が過ぎました。 この間、多文化共生のまちづりを志向し、CANフォーラムのホームページをご覧になればわかりますが、多くの学習会を開催してきました。  この間の活動を通じて解ったことは、多文化共生のまちづくりの視点だけではまちづくりを考えることはできないし、地域住民が動くことは難しいということです。
   
━━━引用以上
   
多文化共生ということばでは地域住民は動かないから「共に生きるまち東九条」というタイトルの学習会をする、と。 ようやく「二階」と「一階」の乖離に気が付いたのはいいが、「多文化共生」を「共に生きる」と言い換えた程度ではそのことばは「一階」には届かない。
   
まずそもそも、「一階」を生きる人間は「共生」や「多文化共生」なんていう「生活から乖離したことば」を使わない。 このことば自体が「二階、三階、…n階、…」のことばなのだ。アカデミアやアーティストはそのことがわからない。 「二階」には「二階の現実」があるのだろうが、「一階」には「一階の現実」があるのだ。 その「一階の現実」は多文化共生や「共に生きる」なんてことばで言い現わせるものではない。 「多文化共生のまちづくり」とは一体誰のための何のための試みなのだろうか? 「多文化共生のまちづくり」とは「二階」の人間による「二階」のためのまちづくりでしかないのではないか。
   
2019年8月15日発行の「京都・東九条CANフォーラムニュースレター第21号」から引用する。
   
以下引用━━━
   
◎何ができて、何ができなかったのか
 私たちが目指してきた東九条の「多文化共生のまちづくり」は、他の諸団体と連携して一程度成果を上げ、 京都市は我々の活動を認め「幅広い多文化共生のまち」と定義するようになりました。 しかし2011年8月CANが京都市に対し「提言」した、「多文化共生推進センター設立」と「多文化共生推進室設置」の要望は当時の細見副市長から、 今後も総合企画局を窓口に多文化共生の街づくりを進めていくとの、一定度前向きな回答を得ましたが、具体的な成果には至っていません。
   
━━━引用以上
   
「幅広い多文化共生のまち」と京都市に定義されることを東九条の「一階」の住人が望んだのだろうか?
   
「多文化共生推進センター設立」と「多文化共生推進室設置」を東九条の「一階」の住人が望んだのだろうか?
   
多文化共生がやりたければ勝手にやればいい。だけど、地域住民の「現実」から著しく乖離した「多文化共生のまちづくり」とやらが地域住人に支持されないのは当然である。 支持されないどころか認識すらされていない。当然だろう「一階」の住人は「共生」や「多文化共生」ということばすら知らないのだから。ことばが無ければ認識のしようがない。 それほどまでに「乖離」しているということが、「二階」の関係者には分からないのである。
   
この連載を書くに当たって平山は様々な関連する書籍や、東九条に関する資料を読んでいる。勿論書籍や資料だけで全てが分かることは無い。 資料を読むことと実際に当事者に会って話を聞くこととは天と地ほどの差がある。 だけど、その資料たちからは当時の東九条の人たちの想いや痛みや苦しみや希望や熱が伝わってくる。頭ではなく、胸で文字を読まざるを得ない。 そして手元にはCANフォーラムに関する資料もある。読んでも読んでも読んでも読んでも、何も伝わってこない。読めば読むほど胸が虚しくなる。 胸が「空っぽ」になる。虚しい。ひたすら中身の無い何かを読まされている感覚。なんなんだこれは。 「多文化共生」ということばがひどくたくさん文中に出てくるが、この「多文化共生」ということばがぽっかり空いた黒い穴にしか見えない。 ただひたすら「一階」と「二階」との間にある「乖離」や「黒い穴」のようなものを読まされているというか見せられている気分になる。
   
①②の事例を通してすでに見てきたように、多文化共生というからには、『「共に生きる」ことができない「現実」』があるからこその多文化共生なのだ。 例えば①希望の家カトリック保育園には「民族差別」という『「共に生きる」ことができない「現実」』があるからこその「多文化共生保育」の取り組みがあった。 この多文化共生には必然性がある。だが、このCANフォーラムにはその『「共に生きる」ことができない「現実」』が無いのである。 資料のどこを読んでも、CANフォーラムにとっての 『「共に生きる」ことができない「現実」』が何なのかは全くわからない。
   
現実が無い。「虚無」。
   
何かのために多文化共生をするのではなく、「多文化共生のための多文化共生」でしかなかった。手段のための手段、「虚無」。
   
そして2024年に京都・東九条CANフォーラムは休会する。
   
京都・東九条CANフォーラムとは何だったのか?
   
「一階と二階が著しく乖離した多文化共生」という「虚無」
「「現実」無き多文化共生」という「虚無」
「多文化共生のための多文化共生」という「虚無」
   
これこそがまさに東九条多文化共生エリアに広がる虚無そのものである。
   
平山はこの連載において「多文化共生」を問題視しているわけだが、多文化共生それ自体が悪いわけではない。問題なのは、
   
『「共に生きる」ことができない「現実」』が無い多文化共生
   
である。
   
それは①「希望の家カトリック保育園」の多文化共生保育。②多文化共生のまつり(?)東九条マダンのような「内実=現実」のある多文化共生とは全く違うものである。
   
これを「多文化虚無生」と呼ぶことにする。
   
「共に生きる」のではなく「虚無を生きている」から「多文化虚無生」である。
   
手元にある資料だけで推察し、判断しているので平山のCANフォーラムに対する評価というのは不正確なものになってしまうのだが、それでも平山は、 CANフォーラムによるこの東九条地域での「現実無き多文化共生」「多文化共生のための多文化共生」「一階と二階が著しく乖離した多文化共生」活動をしたことは本当に罪なことだと感じている。 CANフォーラムはこの東九条地域に大きな「虚無」だけを残したからだ。 この「虚無」は当然東九条多文化共生エリア全体に影響し、東九条マダンにも、あるいは浜辺ふうにも、行政にも、東九条にやってくるアカデミアやアーティストにも、 東九条が多文化共生のまちだという「誤認」を与えた。「誤認」だけならまだしも、CANフォーラムは「多文化共生のための多文化共生」=手段のための手段である「虚無」をまき散らしたのだ。
   
それはまさに、「多文化共生」ではなく「多文化虚無生」だ。
   
そして現在東九条には「多文化虚無生」が広がっている。CANフォーラムはその土壌をつくった要因のひとつと言っても過言ではないだろう。
   
では本当に、京都・東九条CANフォーラムに『「共に生きる」ことができない「現実」』は無かったのだろうか?
   
「もとめよさらば与えられん」
   
CANフォーラム…、朴実氏が本当にやりたかったこと、「もとめて」いたこととは何だったのか?ここからは完全に平山の憶測と推断でしかないが書いてみたいと思う。
   
京都・東九条CANフォーラム代表の朴実氏が書いた、ある文章を引用する。
   
2003年5月発行の「東九条マダン10年のあゆみと第10回東九条マダン報告集」のp3 東九条マダン10年を振り返って 実行委員長 朴実 より引用する。
   
以下引用━━━
   
4今後の課題
   
〈略〉…しかし、多勢で楽器やマダン劇の練習ができる練習場や、1世から学ぶ料理教室の場所、チョゴリ縫いを手伝う場所など、ハード面は何も整っていません。 そのために毎回、練習場等の会場確保には苦労します。東九条は京都で最も在日韓国・朝鮮人が多く住む街であり、ここから生まれた民族交流の東九条マダンは、歴史的な文化だと言えます。 この文化をさらに発展させるには、その拠点となる施設が絶対必要です。 現在、京都市が進めている「東九条まちづくり」のなかに、「東九条民族文化会館」(民族の交流会館)のような施設を実現させていきたいと思います。
   
━━━引用以上
   
2003年…「東九条民族文化会館(民族の交流会館)」
   
2009年…民間の活動グループと行政の協同による「(仮称)多文化共生コミュニティーセンター」の設立
   
両方とも朴実氏が「もとめて」いた何かだが、「民族文化会館(2003年)」と「多文化共生コミュニティーセンター(2009年)」とでは大きな隔たりがある。 「民族」と「多文化共生」。全然ちがうものである。
   
これは完全に平山の推断でしかないが、朴実氏がほんとうに「もとめていた」ものは「民族文化会館」だったのではないのか。 シンプルに、東九条マダンの練習がこころおきなくできる練習場や集会場。それこそが、朴実氏の「もとめよ、さらばあたえられん」ではなかったのか。
   
恐らく、「多文化共生コミュニティーセンター(2009年)」や「多文化共生のまちづくり」とはこのような「練習場」をつくるための「方便」にすぎなかったのではないか。 京都市が「多文化共生」の施策を積極的に打ち出す中、予算を取ろうとするなら「多文化共生」という文脈の中で「東九条マダン」の「練習場」を要求するのが実現可能性が高いのかもしれない。 だからこそ朴実氏は2008年あたりから東九条マダンを「多文化共生のまつり」と積極的に言及するようになる。 事実、資料をつぶさに見ていくとこの年以降から東九条マダンは何のためらいもなく「多文化共生のまつり」を自称し始めるのである。 そして東九条マダンは他の要因とも相まって「民衆文化運動」では無くなり「多文化共生のまつり」となった。 この過程において東九条マダンの「民衆」は「市民」となったのだ。朴実氏のこの罪は重い、とおれは思う。 「水平方向の民衆文化運動」この是非はともかく、これは東九条地域に独特な「思想=精神」の萌芽であった。 それは「精神=歴史」であった。しかし朴実氏はこれを「多文化共生」で上書きして消し去った。 ここに明確な「歴史の断絶」があったのだ。そしてこの「断絶」は在日と本国との「断絶」をも意味する。「歴史」を失ったものは、必ず「虚無」と化す。 「歴史」を失うことは「死者」とのつながりを失うことだからである。現在の東九条マダンにおいて「民衆文化運動」のことばを口にする者はいない。
   
変遷、いや、変節したのだ。この変節こそが、人間を「虚無」と化す。
   
防音施設をそなえたある程度の広さがある練習場を東九条につくるとするならば、民間の力や資金だけでは確かに不可能だろう。 京都市の施策に「乗っかって」「多文化共生のまちづくり」という文脈でその予算をとってくるというのは現実的かもしれない。
   
だが、
   
それでも、
   
だ。
   
「もとめよさらばあたえられん」
   
ほんとうにもとめていた「民族文化会館」をもとめるべきではなかったのか。
   
「多文化共生コミュニティーセンター」ではなく「民族文化会館」をもとめるべきではなかったのか。
    
東九条マダンの練習場が無い。それこそが東九条マダンと東九条地域との間にある『「共に生きる」ことができない「現実」』なのだから。
   
だからそれを「もとめ」るべき先は京都市ではなく、東九条地域住人であったはずだ。
   
平山が指摘し続けている通り、東九条マダンは東九条地域のまつりではない。それはメンバーも自覚していて、「東九条マダンは地域のまつりになろうとしているまつりだ」とよく言われている。 だから東九条地域住人でも東九条マダンに関心の無い人の方が多いし、東九条マダンのことを知らない人すらいるし、30数年続いた今でも東九条マダンに警戒心を抱ている地域住人もいる。
   
だが、そんな地域住民にこそ直接話をして、「民族文化会館」を「もとめる」べきだったのだ。「多文化共生」や「共生」なんてことばは東九条地域の「一階」の住人には響かないし届かない。 だけど「民族文化会館」ならば、拒絶反応も含めてそのことばは響いたし届いただろう。 ほんとうに「もとめる」ものを、無理解無関心な地域住人にこそ話をし「もとめ」続けるべきだったのだ。何故なら地域住人も「もとめて」いるからだ。 何かを。共に「もとめ」れば、それはいっしょにみる「夢」となったはずだ。
   
それが本当に地域の「夢」となってこそそれは行政を動かす「力」になりえたのではないか。
   
多文化共生や共生ということばに何の「夢」があるのだというのか。こんな薄っぺらいことばを人間は生きていない。こんな中身の無いことばを、人間はいきることなんてできやしない。
   
「もとめよ、さらばあたえられん」
   
「もとめる」先も、「もとめる」何かも間違った。だから「あたえられなかった」
   
東九条マダンは、確かに地域の外からきた「二階」のかしこが始めた「まつり」だ。だけど、彼女彼らは、ちゃんと東九条地域住人に、「もとめた」。だから「あたえられた」のではないのか。
   
多文化共生や共生ということばや取り組み自体が悪いとは思わない。
   
だけど、多文化共生は、人間から「夢見ること」を奪ったのではないのか。人間からほんとうの「力」を奪ったのではないのか。 そして、「愛すること、愛されること」を忘れさせたのではないのか。
   
夢、力、愛
   
おれは人間だ。
   
もとめよさらばあたえられん
   
おれは人間であることをもとめる。
   
人間に。
   
身体に、
   
死者に
   
大地に
   
ことばに
   
   

     
   
自分にとって、いや、人間にとって、とても大切な何かを捨ててしまえば、あとは「虚無」を生きるしかなくなる。
   
多文化共生ということばに踊らされて、わたしにとって、人間にとって大切な何かを捨ててしまった人や集団が東九条地域にある。
   
多文化共生は社会の「理解」をえやすい。多文化共生は「共感」されやすい。そして多文化共生には「予算」が付く。
   
「理解」「共感」「予算」。確かにそれは必要だろう。
   
だけどそれは大切なものを、魂を捨ててまで得るようなものなのだろうか?
   
わたしがそこから生じてきた「歴史」を断絶させて、かつてこの地を生きてきた死者たちを打ち捨てて、多文化共生だ何だ謳うこと。
   
それは虚無だ。
   
そんな虚無が東九条多文化共生エリアにぽっかり穴をあけて広がっている。
   
「わたし」はいるが人間はいない、それを虚無という。
   
この東九条地域で、多文化共生という非人間的な何かが人間を喰らっている。
   
希望はあるのだろうか?
   
希望はある。
   
が、
   
希望を掴むためには、かつて希望だった希望を終わらせなければならない。
   
希望の葬式を
   
もとめよ、さらばあたえられん
   
つづく
   

   

   

   

  
  


  

2025年11月30日

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