【連載】『東九条、死者無き多文化共生の行方≪31━2≫』浜辺ふう氏からの『返す言葉』はありませんでした。

   
3月15日に、九条劇の浜辺ふう氏山崎なし氏への抗議ならびに要求を送りましたが、回答期限である2026年3月29日日曜日午後00時までに回答はありませんでした。
   
これまでも、東九条地域住人や関係者、在日韓国朝鮮人も、日本人も、浜辺ふう氏の表現や活動に対して様々な抗議をしています。 ですが、浜辺ふう氏はそれらの抗議や指摘を全て無視し、「無かったこと」にしてきました。そして平山からの申し入れおよび抗議を無視したのはこれで二回目です。
   
さて、浜辺ふう氏の活動は
   
「①差別扇動公演」+「②他者消去」=「③物語(わたし)の捏造」
   
という式により成り立っています。
   
これまでの浜辺ふう氏の活動を極めて単純な式にすると、
   
①「差別扇動公演」をする→地域住人および在日韓国朝鮮人から非難される。
  
②その非難や抗議を全て無視して「他者消去」する。
   
③「他者消去」したうえで、抗議や非難を受けたことを、東九条地域から排除された、在日から逆差別を受けたという「物語を捏造する」。
  
①´「捏造した物語」を使ってさらなる「差別扇動公演」をする。
   
②´…以下くりかえし
   
という式とサイクルによって成り立っています。
   
今回、浜辺ふう氏が平山からの抗議を二度にわたって無視したのも②の「他者消去」の過程なのですが、ところがどっこい、 平山はどこまでも、とこしえに、はてしなく、∞に性格が悪いので「無かったこと」にはさせませんでした。 まず一回目の「他者消去」に対してその是非はともかく、東九条春まつりにて「絶叫」して「無かったこと」にはさせませんでした。 「他者」を在らしめました。「人間」を在らしめました。 そして徹底的に調べ、人と会い、話を聞き、関係各所に抗議をし、文章を書き、浜辺ふうの表現の何が差別なのか収奪なのか捏造なのかをきちんと示しました。 また、まだ全てではありませんが、関係者にはきちんと対面で会って浜辺ふう氏の悪質性、差別性、危険性をことばできちんと伝えています。 浜辺ふう氏を変えたり説得するつもりもありません。だけどとにかくこの「②他者消去」をさせない、それが肝要でした。
   
浜辺ふう氏のような「他者消去」をする者が「他者消去」出来ない時、自身が消えるしかなくなるのです。
   
だから今回、公開の抗議文に何の返信もしなかったことで、「無かったこと」になったのは浜辺ふうの方です。 浜辺ふう氏は自らの表現に責任をもたなかった、そして自らの表現を守らなかった。ここまで明確に差別性や捏造を指摘されても弁明すらしなかった。 このことによって、浜辺ふうは消えました。今回、消えた「他者」は平山でもなく、在日韓国朝鮮人でもなく、東九条地域住人でもなく、「浜辺ふう」です。 その「他者」を消したのは浜辺ふう本人です。
   
①差別→②他者消去→③捏造⇒①´→②´→…
   
というこのプロセスを一般化すると
   
①「問題」→②他者消去→③世界消失⇒④「わたしの捏造」
   
となります。
   
①の「問題」にたいするリアクションとして②「他者消去」をしてしまうと③世界消失が起きて、世界に根拠を失った「わたし」は④「わたしの捏造」をせざるをえなくなる。
   
当然ですが、「捏造されたわたし」は新たな問題を起こします。それに対してまた「②他者消去」をするとさらに③世界消失が広がる、と。あとはこの繰り返しです。
   
だから「他者消去」をしてしまうと、結果的に「わたしが捏造されてしまう」ことになり、結果苦しむのは「わたし」です。いや、苦しむ「わたし」すらもうそこにはいなくなる。 だから他者消去してはいけないし、他者消去されそうになったら徹底的に「在らねばならい」「在らしめねばならない」のです。
   
浜辺ふうのように「捏造されたわたし」を長年演じてきた者は、オリジナルをたどる旅をしなければならない。 だけど、もはやたどれることが出来るオリジナルの「わたし」はどこにも存在しないでしょう。 これまでさんざん他者を消し続け、世界を消失させてきたのですから。 その他者や世界にこそ「わたし」の痕跡があるというのに、それを消し続けていったのだから、もうそれをたどることはできません。 そしてそれは今回の平山からの抗議を「無かったこと」にすることで決定的なものとなりました。
   
それが何かは具体的には書きませんが、去年山崎なし氏と話をした時に、山崎なし氏が言うことがあまりにも地域関係者の証言と真逆のことを言っていたのですが、 浜辺ふう氏は近しい身内にすら「捏造した物語(わたし)」を伝えていたのでしょう。 その偽りの関係を想像するとうすら寒い気持ちになります。どこにも本当の関係性が無い。実感として、「カルト」に近いものを感じました。
   
今回の抗議文で平山は、浜辺ふう氏に謝罪するように要求しました。 それはもちろん、東九条という地域の名誉の回復ためでもありますが、自らが「他者消去」した他者や世界が回復するのは「ごめんなさい」のことば以外にないからです。
   
消された平山自身、消された平山の世界は平山の身体が再生回復します。 ですが、浜辺ふうが消した浜辺ふう自身、浜辺ふうの世界は、浜辺ふうの「ごめんなさい」のことばでしか回復再生しません。
   
「ごめんなさい」とは、他者が他者であることを認めることばです。
   
「ごめんなさい」とは、世界が世界であるからこそ発することができることばです。
   
おれは、罰を受けろと言ってるのではない。だけど、罪をおう必要はある。罪を負うことは、世界の一部をその背中におうことだ。その苦しみ、その重みは決して罰ではない。
   
いやしくも表現する者は、世界を表現してしまったことの罪をおうものではないのか?そしてその罪をおうことは表現者にとってよろこびではないのか?
   
だが浜辺ふうはその罪をおうことはない。浜辺ふうは表現者ではないからだ。世界をあらしめているのではなく、世界を消しているのだから。
   
それは表現者ではなく「消去者」だ。
   
浜辺ふうは表現者ではなく、「消去者」だ。
   
「消去者」はぜったいに「ごめんなさい」を言わない。ごめなさいのことばが世界を在らしめることを知っているから。
   
浜辺ふうが平山からの抗議に応答しなかったこと、謝らなかった事は浜辺ふうが「消去者」であることを証明した。
   
だが、今回消え去ったのは浜辺ふうだ。
   
そして現在この世界で「消去者」たちが世界を消去している。
   
あれは戦争なんてことばすら生ぬるい、「世界消去」だ。
   
高市早苗を見ればわかるだろう。絶対に謝らない。あれはエゴとか無能とかではない。「世界消去者」としての仕事を遂行しているのだ。トランプもしかり、ネタニヤフもしかり。 「消去者」は絶対に謝らない。そして今、本当にこの社会が消えそうになっている。
   
そんな社会のてっぺんの話だけではなく、小さな社会、狭い社会でも「消去者」が大手を振って歩いている、「消去者」が世界を「無かったこと」にし続けている。
   
何でおれがこんな東九条という小さな地域のさらに小さな「多文化共生エリア」での出来事に抗議し続けるのか。 それは「世界消去」が起きているからだ。小さな世界で起きたことは大きな世界でも起きる。大きな世界で起きたことは小さな世界でも起きる。
   
抗議とは、世界消去をさせないための、世界再生のための営みである。
   
世界は消滅しようとしている。
   
だが他者消去させないために、平山みたいに激しく抗議したり戦う必要は無い。 そんなめんどくさいことは平山が底意地が悪いからできることであって、「消去者」なんか本来かまう必要は無い。
   
おはよう、ごめんなさい、ありがとう。
   
それだけ言えたら世界は消えない。他者は再生する。
   
ごめんなさいは、罰じゃない。世界の再生、新生だ。
   
半沢直樹は「土下座して詫びろ」という。それは半沢直樹が「世界を再生してから他者をあらしめる」からだ。
   
萬田銀次郎は「土下座なんざしても一銭にもなりまへんで」という。それは「萬田銀次郎が他者を再生してから世界をあらしめる」からだ。
   
偽物の謝罪は必要ないからこそ萬田銀次郎は「謝罪はいらない」と言う。世界の再生のためには「本物の他者」が必要だからだ。 一方半沢直樹は自身が世界を再生してその謝罪が本物になる状況を作ってから「謝罪しろ」という。他者の復活のためには「本物の世界」が必要だからだ。
   
半沢直樹の「世界再生→他者復活」か、
   
萬田銀次郎の「他者再生→世界復活」か、
   
という順序がちがうだけだが、どちらも世界への、そして他者への深い深いやさしさと愛に満ちている。 そしてふたりとも「他者消去」した奴はどん底まで突き落とす。「消去者」は自らの「捏造された物語(わたし)」が「消えて」はじめてその他者性が回復するからだ。
   
一方はエリートの世界の金貸し、一方は底辺の世界の金貸し。
   
エリートの世界も、底辺の世界も、彼らが本当に貸しているのは、カネじゃない。ことばだ。
   
半沢にとっても萬田にとっても大切なことはそのことばが「本物」なのかどうか、である。 であるがゆえに借金を返さず逃げて「他者消去」する債権者を萬田銀次郎は絶対に許さない。 カネを返さないから許さないのではない。「他者消去」をするからこそ許さないのだ。半沢直樹における「粉飾決算」もまた「他者消去」であり、半沢直樹も当然これを許さない。
   
萬田銀次郎は十一の利息、半沢直樹は倍返し。
   
借りたカネには利子が付く。それはことばもしかり。
   
ことばが世界を再生し、他者を再生する。
   
ことばに利息がつくからこそ、世界は再生するのだ。
   
だから、借りたことばは利息をつけてかえさなければならない。
   
他者から借りたことばは利息を付けて帰さなければならない
   
死者から借りたことばは利息を付けて帰さなければならない
   
世界から借りたことばは利息を付けて還さなければならない
   
それが、
   
ごめんなさい、だ。おはよう、だ。ありがとう、だ。
   
残念ながら浜辺ふうから謝罪のことばは無かった。何の「返すことば」も無かった。
   
浜辺ふうが消えたと言えど、貸したことばは返ってこなかった。
   
こんな時、萬田はんなら「貸した人間に返せるゼニが無いなら、とれるところから取る。カネ貸しの常道や。」 (難波金融伝 ミナミの帝王 スペシャルVer.40 裏金略奪 より引用)と言うだろう。
   
東九条多文化共生エリアで起きた「他者消去」。浜辺ふうがことばを返さないというならば、「とれるところから取る」しかない。
   
世界再生のために、他者復活のために、死者を生かすために。


   



    

   

    

2026年3月30日

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