【連載】『東九条、死者無き多文化共生の行方≪34≫』

〈雑談その10〉

映画感想文 「極道の妻たち」

   
   
最後の戦い、覚悟しいや、惚れたら地獄、赫い絆、危険な賭け、決着(けじめ)…
   
死者たちのこころを震わせる、格調高いことばが並ぶ。
  
凛として血血の詩詩
   
ここに並んだことばは映画「極道の妻たち」のサブタイトルである。
   
この連載も34回目になった。連載ではあるが、純粋な文筆ではなく、東九条地域での運動として書いている文章である。 運動というか、戦いなのだが、この連載を始めた当初はまさに『最後の戦い』のつもりで始めた。 連載の1~10までは自分のこと、東九条のこと、東九条マダンのこと、民族学級のことを書いて、これは戦いのための準備のような文章だった。 そして11からが浜辺ふう、京都市多文化交流ネットワークサロン、春まつり、デマ事件、…と、具体的な人物と出来事に言及し、抗議し、戦う。 まさにあんたら『覚悟しいや』である。そして東九条地域の六つの(多文化)共生について書き、 「共に生きることができない現実」とはまさに『惚れたら地獄』のことであり、真の共生とは『赫い絆』であることを書き知る。 去年末から京都市立芸術大学に具体的にいろいろ行動を起こし、今年ようやくその『危険な賭け』は成就した。 そしていよいよこの連載も『決着』(けじめ)」の時を迎えようとしている。
   
この連載のアニムス(内なる男性性)が竹内力演じる萬田銀次郎ならば、アニマ(内なる女性性)は岩下志麻演じる極道の妻たちだ。 この連載は様々な書籍、資料、映画、他者との会話から影響を受けて、助けられて書かれているが、「極道の妻たち」と「ミナミの帝王」がこの戦いに勢いと形をもたらしてくれた。 己を駆動する地下的なエネルギーはそのままではただの狂気にしかなりえず、そのエネルギーに形やイメージや象徴やことばが与えられてはじめてそれは「わたし」として駆動する。 そしてそのことばのひとつが「極道」である。
   
極道。物騒なことばだが、「極まった道」とはいいことばだ。「道を極める」ではなく「極まった道」である。極道はもうすでに「極まっている」。これから「道を極める」職業人とは違う。 「極道」とは有無を言わせず、選択の余地なく、努力すらする暇もなくすでに「極まった道」だ。それはもう絶対であり、決まっていることである。 「なぜあなたはそんなことをするの?」と言われても「そう決まっているから」としか言いようがない。それが「極道」。 もうすでに「極まった道」を生きることを運命に強制されることが「極道」である。そこには自由意志も選択の余地も無ければ、努力や成長という「前に進む時間」すら無い。 極道にとって「時間は極まっている」ものであって進むものではない。
   
だが世間のたいていの人は逆の「道極」である。「これから道を極めていく」のだからそこには個人の意思や努力や選択が介在する余地がある。 時間は過去から未来へ進んでいる。そして「道を極めない」という選択もあるのだ。「道極」は自由意志を謳歌する近代人の姿そのものである。 だが幸か不幸か「道極」の道が極まることは絶対にない。時間は過去から未来へ進み続けるからである。だからその時間が極まることは無い。
   
そんな多くの「道極」者からは「極道」の生き方はあまりにも不可解だろう。損得など全く意に介さず、時に生死を賭してまで「極道」としての「筋」を通す。 そしてそれは「そう決まっているからだ」という。それは全力で生きている姿ではなく、全力で死んでいる姿である。
   
そんな「極道の妻たち」。あくまで極道「の」妻たち、なのだ。妻たちは本来「極道」として生きる必要は無い。「の」なのだから。 だが、その「の」が「妻たち」の運命性を否応にもなく高めてしまう。「妻たち」は「極道」そのものではないが、「の」によって「極道」に捕らえられてしまった人間だからだ。 運命に捕まってしまった人間。
   
だから「わたしは極道」という自己認識ではなく、あくまで「わては極道〈の〉妻」という自己認識になる。 そしてその自己認識は自己認識を破裂させ、運命受容の決意、信仰告白となる。 その運命が生きられる時、「妻〈の〉極道」として全てが極まっていく。その「極道」についてこれない「道極」たちが死んでいくことになる。死死累々。 中途半端な「道極」が「極道」に近づいてはいけない。その極まった時間に焼かれ刺され死ぬことになるからだ。
   
最後の戦い、覚悟しいや、惚れたら地獄、赫い絆、危険な賭け、決着(けじめ)…
   
これは全てその「運命」の名前、「死者たち」の名前、「極道」の名前である。
   
こんな連載を書くことは当然損である。損というか、失うものがあまりにも大きい。この連載によって傷つく人もいる。 きっと怨みもかっているだろう。多文化共生エリアの事をおれは散々批判し非難しているが、個人個人で言えば好きな人、尊敬できる人はままいる。 だがこの連載を書くことでその人たちとはもう断絶である。だけど、それでもやらなければならない。愛することか、筋を通すことか、といえば、やっぱりおれは筋を通さざるをえない。 筋の通らない愛はいつか腐るのだから。
   
「まゆこさん、いくら彫もんしてもなあ、あんたカタギや。教えたる。惚れた男のために人を殺すんは、カタギのすることや。 極道はなあ、極道の妻(おんな)いうんは、筋を通すためには、惚れた男も殺すのや。はよ行き。」
   
(極道の妻たち 赫い絆 セリフより引用)
   
このセリフは「道極」と「極道」の違いをよく表している。 入れ墨をいれて一生懸命「極道の妻になろう」とする「道極(カタギ)」のまゆこさんに対して主人公の「極道」は努力もしないし変化もしない。 ただただその在りようが「極道」であって、ただただ「筋を通している」だけ。 そこに迷いはない。そして「惚れた男を殺す」ことはもう決定していることをこのセリフで暗に告げる。
   
極道の妻たちの物語には「極道」VS「道極」という対立がある。「道を外れた道極」によって「極道」は組や家族を破壊されて勝負に負けるが最後は「道を外れた道極」を殺すという筋立てである。 筋はまかり通すが世界は再生しない。ミナミの帝王の場合、登場人物が実際に死ぬことはあまりない。債務者が象徴的に死ぬからこそ再生が起きるのだが、極道の妻たちは登場人物は死んでいく。 「危険な賭け」以外の作品では、組は壊滅させられ世界自体が壊されていく。象徴的に他者が再生することもなければ世界が復活することもない。 ただ最後、敵は主人公によって殺される。世界は再生せず、「極まった時間」だけが在りとして在る。
   
「今、わては、最高にええ気分なんや。」
   
(新・極道の妻たち 覚悟しいや セリフより引用)
   
このシーンは極道の妻たちシリーズの中でも屈指の名シーンのひとつだが、この後世界は再生することは無いだろう。だが「極道」とは「最高にええ気分」のことである。 世界の再生よりも「最高にええ気分」であることの方が重要なのだ。そしてこの「最高にええ気分」こそが道を外した「外道」どもを殺し、そして愛する「道極」たちすらも殺してしまう。 「極道」は運命とともにその「業」をも背負って生きる。 「最高にええ気分」とともに。
   
極道の妻たちの主人公の不幸は、主人公は「極道」なのにその夫がみな「道極」であることだ。「極道の妻」なのにその極道である夫や男連中がみな「道極」で、主人公ひとりが「極道」。 本来「極道」でなければならない男が「極道」ではなく、本来「極道」でなくてもいい妻が「極道」という運命に捕まってしまい、「極道」を全うしてしまう。
   
思えば昔の東九条には「極道」がいた。東九条地域住人にも「極道」はいたし、暴力差別貧困が吹き荒れる東九条で「ここで働かねば」とスラム街で貧民救済活動をしたディフリー神父は正真正銘の「極道」である。 そもそもその親玉のキリストが墓からよみがえるくらいに気合の入った「極道」者なわけだから、ディフリー神父にとってもそれは当然のことなのかもしれない。 ディフリー神父だけではない。かつてこの東九条で筋を通した数多の「極道」たちがいた。東九条には「最高にええ気分」を生きていた「極道」たちがいた。
   
東九条地域における多文化共生があかんのは、「多文化共生極道」みたいな気合の入った奴がいないということにつきる。アートにしてもそう。何か辛気臭い。 多文化共生とか共生とか、「最高にええ気分」で生きてる奴がいない。おれもこの連載で細かくいろいろ書いているが、簡単な話、根性座ってない、気合入ってない、筋が通ってない、それだけ。 気根性据えて気合入れて筋を通して「最高にええ気分」で生きてたら、多文化共生もアートも必要ない。 だけど、その「最高にええ気分」を排除する。「極道」者を排除する。「極まった時間」を排除する。この社会はそのようになっている。 それはかつて「極道」を生きる人間が多々いた東九条においてもその排除は進行している。「道を外した道極」たちのたまり場、それが「東九条多文化共生エリア」である。
   
「極まった時間」を生きているのは「死者たち」である。だから本来生身の人間がその「極まった時間」を生きることはできない。 だからこそ「極道」なのだ。ヤクザものたちが「極道」を自称したのもその身体感覚がそうさせたのではないか。 だからカタギの「道極」者はその「極まった時間」を生きる必要は無い。だからこそ、「死者たち」が必要なのだ。 「極道」という危険な時間を生きるのは「死者たち」で、「道極」という平和な時間を生きるのは「生者」でいい。その分離があるからこそ社会は成立する。 そしてだからこそ年に一度、「道極」が「極道」の時間に触れる「祭」があるのだ。そして身近な死者の命日や月命日にはその死を悼み祈るのだ。
   
折に触れて「死者たち」に思いを馳せ祈る事。それは束の間の時間「極道」の時間に触れさせてもらうことである。 だが、生者が「死者たち」を忘れる時、「道極」が思い上がり、死者たちを踏みにじり、極道を排除し、死者たちに生かされていることを忘れる時、社会は崩壊する。 その時、どこからともなく「極道」が顕れて道を踏み外した「道極」たちを皆殺しにして去っていく。もはやそんな世界は再生する必要すらないからだ。
   
「道極」が悪いわけではない。だがだが、同じ「道極」でも、「道を踏み外した道極」はもはや「外道」である。そんな「外道」は「極道」によって消滅させられる。多文化共生が悪いわけではない。 だが、東九条地域においてその「多文化共生」は道を踏み外していないのだろうか?その共生とやらは「外道」になっていなだろうか?
   
その「死者無き多文化共生」は「外道」であるとおれは思う。
   
東九条を生きて死んだ「極道たち」の末裔である平山には、東九条多文化共生エリアにおける「死者無き多文化共生」は「外道」にしか感じない。
   
おまえたちは、道を踏み外している。
   
道を踏み外し、その足で死者たちを踏みにじっている。
   
その死者たちの叫びがおれにこのことばを書かせている。
   
世の中には、どうしても「極道」としてしか生きることができない者がいる。そして己の業を自覚する「極道」は平時はひっそりと生きている。 だが、「道極」が道を踏み外して「外道」となる時、「極道」が顕れる。外道は「正道」にもどるか消滅するしかない。 外道が正道にもどりさえすれば世界は再生する。だから「極道」は「死神」のようなお節介はしない。 ただそれを、「そう在るべき道にもどすだけ」。「死神」は意外と世話焼きで、あれやこれやと手を尽くし世界の再生に尽力する。 だが「極道」には「極まった道」しかない。「死神」があれやこれやと世話を焼いているうちに反省し、「正道」に戻ればいいが、いつまでも反省しないならば、「極道」が、この時間を極めるだけである。 「極道」は「死神」のようにやさしくはない。
   
極道の妻たちと萬田銀次郎。「極道」というアニマと「死神」というアニムスがこの連載および東九条地域での闘いに勢いと形を与えてくれた。
   
「極道」の時間と「死神」の力をお借りする事。この御礼はこれから他者を回復し、世界を再生することで利子をつけて死者たちに返したい。
   
さて、「決着(けじめ)」の時は来た。
   
「雑談」はこのへんまでにして
   
連載本編を再開しよう。
   
「今、わては、最高にええ気分なんや。」
   
参考文献
   
岩下志麻主演 極道の妻たち シリーズ
   
竹内力主演 難波金融伝 ミナミの帝王
   
渡辺哲夫 著 「死と狂気」


   


   



    

   

    

2026年4月12日

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