貧乏の家庭ならどこにでもよくある話だが、とかく身内同士でいつもカネでもめている。だけどカネが無いから貧乏なのではなくて、カネがあっても貧乏はずっと貧乏である。
おれの家も父親も、母親も、ババアも叔父さんも真面目に働いていたし、普通にしていれば普通に暮らせるだけの収入はあったはずだが、そこに収奪や暴力があればカネは消えていく。
だから問題はカネじゃない。その生き方や生活の「かたち」なのだ。収奪や暴力を続ける限り、貧乏を脱することはできない。収奪や暴力によってしか問題解決できない生き方や人間関係。
そんな人間関係を絶ちきるために貧乏人は「階級上昇」を目指す。
在日韓国朝鮮人には二種類ある。階級上昇できた在日と、階級上昇できなかった在日の二種類である。階級上昇とは端的に、大学を出ることができたか、できなかったか、である。
今でこそ大学に進学するということはあたりまえになったので現代では大学を出ることが階級上昇に即結びつくわけではない。だけどまだ平山世代くらいの在日にとっては大学を出ることは階級上昇するという意味があった。
平山は階級上昇できなかった/しなかった在日になるのだが、階級上昇したくらいでは、この家系、この地、この土地にまつわる呪いをどうにかできるとは思えなかったし、
平山家の長男が代々「階級上昇」しようとして挫折し、全員脳の病気になっているのを見て、おれはそこに何か意味があるとこどもの頃から感じていた。
能力もあって、真面目に仕事もするのにとにかく不運に見舞われる。呪われている。でもその呪いにこそ意味というか、血の意志のようなものをおれは感じていた。
だからおれは「階級上昇」したいとは思わなかったこともないが、それよりは「救われたい」と切実に願っていた。
おれは中学生のころから東九条にあったアバンティブックセンターという大きな本屋に通っていた。
広い敷地にたくさんある本棚を縫ってうろうろ立ち読みしていただけだ。でもそれが「救い」になるという何か直感があったのだ。
で、実際それは数十年後「救い」になった。おれは階級上昇はできなかったが、「救われた」。おれにとって本屋は神社や神殿のようなものかもしれない。
本屋は誰が行ってもいい。貧乏人でも、被差別者でも、アホでも、カシコでも、金持ちでも、ご身分が高い人でも。誰でも気兼ねなく行ける。本屋は人間を属性で排除しない。見た目で排除しない。
書籍は万人に開かれている。内容が分からなくてもその本を読んでもいいのだから。
たぶんだけど、こどもの頃に、そういう無言で自分の存在が許されるような場があったことがおれの救いになったのだと今になって思う。
でもそれは自分にとっては、広いワンフロアに全てがある、当時のアバンティブックセンターだからよかったのかもしれない。
そのアバンティブックセンターももう無くなった。東九条には、すべての存在を許すような平山にとってのアバンティブックセンターのような場は無い。
「多文化共生」と言ったって、すべての存在が許されるわけではない。それどころか、東九条の「多文化共生エリア」は隠然と階級上昇出来なかった者を排除する。隠然と。隠然と、だ。それが現在の東九条地域の本当の問題である。
前章でも書いたが在日の一世二世はことばを持たない人が多かった。
だからといって全ての人がそうだという訳ではないが、必然、ささいなことから大きなことまで問題解決に暴力的手段をとることになる。
それが良い悪いじゃなくて、それしか出来ないのだ。だから当然人生はうまくいかない。でもそれしか出来ない。そんな悲しみがある。
そんな無念がある。その悲しみや無念すらことばにできない。だから叫ぶしかない、沈黙するしかない。でもその叫びは暴力なのだろうか?確かに大声で人を威圧したり場を制圧することは暴力だろう。
今風に言うならハラスメントだろう。ヤッホーのおじさんだって今の時代なら警察に通報されたり、無理やり病院に入れられたりするのかもしれない。
だけどそれしかできなかった人、そうせざるをえなかった人にとってそれは酷なんじゃないのか。おれにはことばがある。本も読むし、自分の気持ちや感覚をことばにして伝えることができる。
だけど、やっぱりおれの根本は叫びであり、沈黙だ。だけど、階級上昇した世界は叫びや沈黙は暴力でしかない。実際に叫ばなくても、「叫びのようなことば」は暴力として受け取られる。
叫びや沈黙は「形式」から外れるからだ。特に現代では「形式」から外れた言動は「暴力的」とみなされ暗黙のうちに排除される。
おれには学歴コンプレックスなるものは無いが、大学を出ていないということで不利だなと感じることがひとつある。
それは社会に通用するフォーマット(=形式)を身に着けていないということである。
本連載第二回で書いた、大谷通高がそうだが、どれだけデタラメでインチキな論文を書いても、それがフォーマットさえ整っていれば論文として認められ助成金まで得ることが出来る。
その論文の間違いをどれだけ平山が書いて訴えたところで平山の文章はフォーマットがおかしいので、その時点で読んですらもらえないし相手にすらされない。
ただ社会というのはそういうものだとも思う。役所と同じでまず形式通りできているかが大切なのだ。
「階級」が上がれば上がるほど、まず「形式」どおりできているかが問われる。形式を確認するというのはその人の「階級」を確認しているのである。内容なんて見ていない人の方がほとんどだ。
だから大学を出て階級上昇するということの第一義はこの「社会に通用するフォーマット」を身に着けるということである。
大卒の階級上昇した者たちのフォーマットによって運営されている東九条の「多文化共生エリア」とそのそのフォーマットを身に着けていない平山とでは、そもそもの根本が違いすぎる。
たとえ同じ在日韓国朝鮮人どうしでも、階級上昇できなかった非大卒の在日と、階級上昇できた大卒の在日とでは共通の「問題認識」をもつことができなくなる。
平山にとって「問題」であるようなことも、階級上昇した在日にとってはそれは「問題」ではないし、そもそも「問題」として認識すらできないのである。
だから「東九条は在日が多い」と言ってもこの「階級」の違いがあるということを留意しなければならない。同じ在日といえど「階級」がひとつ違うだけで全然違う人種なのだ。
階級上昇することで身につく「形式」とは「非暴力の形式」のことである。問題が起きた時、それを非暴力で解決する手段をもつこと、非暴力の手続きを踏むこと。
その技術と手続きと知の総体を「非暴力の形式」と呼ぶことにする。
非暴力の形式の中には身振り、話しかた、挨拶の仕方、といった身体的な所作から文化教養の成熟度、感情のコントロール、高度な言語化の能力、共感能力なども含まれる。
だから階級上昇するということは単に収入や資産が増えるとかそんな要素だけでなく知的で教養があって友好的で共感的な振る舞いができるという身体的所作や知性も重要な要素になる。
「あの人は洗練されている」という時それは「あの人は非暴力を極めている」ということなのだ。
階級上昇した世界を生きることは、高度な「非暴力の形式」を生きることである。「非暴力」ではない。「非暴力の形式」である。だから実は、階級上昇した世界では「形式上非暴力」なだけで、暴力は潜在している。
もちろん「非暴力の形式」は必要だ。それは多くの人を暴力から救う。だけど、「非暴力を生きる」ことと「非暴力の形式を順守しているだけ」ということはちがう。
平山が問うている東九条の「多文化共生エリア」の人たちは「非暴力の形式」を順守しているが、ただそれだけである。
だから実際に侮辱や差別が起きているのにそれを平山が指摘しても気が付かない。「形式」しかみていないからである。
東九条の「多文化共生エリア」に属する人や集団が、やってることはど真ん中の差別であるのに「非暴力の形式」だけは守られているがゆえに、差別や侮辱として認識されないという事がある。
その「階級」の形式さえ守っていれば、差別も侮辱もやりたい放題。でもそれは実質「暴力」なんじゃないのか?
それに対し、平山のように高度な「非暴力の形式」を持たないものが抗議すれば、その「叫び」は暴力として非難され排除される。そうしていつのまにか加害者と被害者が逆転している。
おれは地元の東九条以外で色んな大卒の人と関わっているが、こんな嫌な思いをしたり被害を受けたことは一度たりとも無い。
ましてや「階級」の違いがあるなんて感じたことすらない。性別も年齢も属性も関係なく、人間としてお互いに敬意をもって関わることができる人たちばかりだ。
平山にとって何故東九条の「多文化共生エリア」だけでこんな異常で不快極まりないことが起きるのか。
それは、東九条「多文化共生エリア」において実際に「階級」があるにも関わらずそれが隠蔽されているからである。階級があること自体が悪いのではない。階級があってもいいのだ。
だけど階級はそれが隠されたり無かったことにされる時、暴力として作用する。その暴力はもちろん上から下へ作用する。そしてその時被害を受け、かつスケープゴートにされるのは、常に階級が下の人間である。
そして平山が認識している東九条の「多文化共生エリア」で起きている「問題」は全て「表現」にまつわる事で起きている。
「表現」とは「非暴力を生きること」なのだ。表現とは決して「非暴力の形式を順守すること」ではない。「非暴力を生きること」は「暴力」のひとつのかたちなのだ。
それは決して暴力を無かったことにしたり排除したりしない。だから「叫び」や「沈黙」も「非暴力を生きること」なのだ。
だが「非暴力の形式を順守すること」は全てを暴力的か否かだけで形式的に判断するので叫びや沈黙は排除される。それこそが「暴力」であるというのに。
おれが普段関わっている表現者たちはみなそれぞれのやり方で「非暴力を生きている人」であって、「非暴力の形式を順守する人」ではない。
「非暴力の形式を順守するだけの人」が表現に関わってしまう時、意図しない暴力や差別が起きる。そしてその暴力は必ず弱い立場の人へと向かう。
現実にあるはずの「階級」が隠蔽された「多文化共生」の場で「表現」をする時、「暴力」が起きる。
つづく
2025年8月15日